59.呼び出し(3)
時間はもう7時を回っている。夏至になれば日没は9時にまでなるが、今は4月、オレンジ色の夕日が眩しい時間帯だ。
フェルは、今日の午後のダルセニオンとの会話を思い出していた。
「お前は……アッチェラードが女だと知っているのか?」
言われて初めて知ったのだ。
(やっぱり、やっぱり女だったんだ……!)
そういう目で見ると、女にしか見えない。
恥ずかしそうながらも、目をいつもより見開いてきらきらさせて、少し困ったような眉付きでフェルを見るアッチェルの表情。
滑らかな頬や、細い首筋。
男なんだ、と思ってセーブしていた感情が、女だと分かって、好きになってもいいのだと思ったら、急に心臓がどきどきして、頭に血が上ってきた。
また、そんなフェルを見上げるアッチェルも、逆光で影になった顔の中で熱を帯びた目で見つめられて、ざわざわっと髪の根元が立ち上がるような感覚を覚えた。
だが、だんだんと気まずさが勝って、耐えかねた二人は、
「あの……」「あのさ……」同時に切りだした。
「……忙しいのに、わざわざ外まで来てもらって」
「こっちこそ、わざわざ城まで来てもらって」
「あの……、ごめんなさい」
「いや、俺が悪かったから……、自分勝手に怒ったりして……」お互い謝った。
そして、そのあと何を話せばよいか分からず、アッチェルは足元の石畳に目をやってしまう。
するとフェルが、「アッチェル、あっちに座って話そうか」
夕暮れで人気のない王城前広場を囲むように配置されているベンチを指差した。
「え? ……はい」
謝ることができたので、一応はアッチェルの用事は済んだはずだった。
だが大人しくフェルの後について、ベンチへ向かい、隣に並んで腰かけた。
こうして自分の店以外の場所でフェルと話をするのは不思議な感じがする。店という守りから外に出されて、剥き出しで無防備になった気がする。
隣に座るとフェルとの距離が近くなり、フェルの汗の匂いや、うなじの生え際のあたりの汗が光っているのや、薄いシャツの下の筋肉質な肩や腕が意識されてしまい、アッチェルは急に頭の先まで真っ赤になってしまった。
(夕方で良かった。真っ赤になっているの、ばれない……)
そういえばいつもフェルが店に寄るのは登城するときなので、肩からぞろりとしたマントを付けていているのだが、今日は稽古の途中で抜け出して来たため上半身は薄いシャツ一枚なのである。
手で顔をぱたぱたと仰ぎかけたが、赤くなっているのがばれると思ってすぐに止めた。
(恥ずかしい。男の恰好をして、女でいるのを捨てているくせに、異性としてこんなに意識してしまっている自分がいる)
自己嫌悪を感じながらも、心拍数が上がるのや、なんだかんだ言っても嬉しいと思って高揚する気持ちを止められない。
フェルも同様に、自分からベンチに誘っておきながら、アッチェルが素知らぬ振りでふわりと自分の隣に腰かけたことが、夢を見ているようで緊張してしまう。
4月頭にアッチェルに出会ってから、もう何度もアッチェルの店で二人きりの時間を過ごしてきたのに。
でも、あのときはまだ、ただの友達だと思ってセーブしていた。なんでもないと思おうとしていた。いつでもほとんどがカウンター越しで、友達と言いつつも、店主と客という立場の中で、お互い気持ちに知らぬ振りをして、無意識に役割の中にはまろうとしていた。
でもこうして店の外で、立場で言い訳のつかない、ただの二人になってしまうと、いつも天然で何も悩まないフェルでも、初めて緊張の汗がじわりと湧いてくるのが分かる。
隣のアッチェルが恥ずかしそうな伏し目から、ちらりとこちらの様子を窺う様子も、その黒い瞳の流し眼を受けたようで、どきりとしてしまう。
「ア……、アッチェル、店以外の場所で会うのは初めてだな」
「そう……だね」
残照が目の前の噴水を照らしている。
春の暖かい空気の中で、日が暮れて暗くなっていく時間というのは、まるでだんだんと魔法がかかっていくように風景も風の匂いも変化していく。
アッチェルは自分がこんな時間に本当に城まで来てしまって、本当にフェルに会ってしまったことに自分で驚いていた。
現実離れしていて夢のような状況なのに、ばくばくと脈打つ心臓と熱っぽい体はこれが現実だと伝えてくる。
「アッチェル、俺、アッチェルが心配で、旅に行ってほしくないんだ」
「はい」
フェルの方を向いて目を見上げると、青くてまっすぐな眼差しが夕闇の中で綺麗だと思った。
フェルもアッチェルの黒い瞳の色の深さを美しいと思った。
「なんで、行くことに決めたの?」
「……そうだね。断れなかったっていうのが一番だけど、それだけじゃなかった。フェルがいつだったか、いつ来てもいつ見ても私がここにいるって言ったよね。だから、私が突然いなくなったら驚くかと思って」
「……は!?」
「……復……讐? というか、仕返しって言うんですか?」
「えぇ!?」
「フェルの行動にいつもこっちは……なんて言ったらいいか、驚かされるというか生活を乱される感じだったから、逆にその仕返しに驚かせてやりたくて」
「そんな理由で!?」
「驚いてくれたら嬉しいなって」
そう言って、おかしくなって笑顔になってしまった。
自分が馬鹿みたいで涙が出てきそうだ。
「まさか、怒られるとは思わなくて」
そこまで自分がフェルにとって重要だとは思わなかった。自分がいつもフェルに心かき乱されているばかりだったのに。
「だって、俺、本当にアッチェルのことが心配で、行ってほしくないんだ。
どっちにしても断れなかったのは仕方ないと思うけれど、アッチェルにはもっと自分のことを大切にしてほしいんだ。そうしてくれないと、俺が、困るから」
「困るんですか?」
「だって、俺にとってアッチェルが大切なのに、アッチェルが自分で自分を大切にしてくれないと、……困るよ」
フェルは頑張ってここまで言葉にしたが、アッチェルはその意味が自分の予想とかけ離れ過ぎていて理解できず、ぽかんとしている。
「そんなふうに人を驚かせるためなんかに危険なこと引き受けるなよ」
いや、違う、とアッチェルは思う。人を、ではなく、フェルを、だ。
自分みたいに男の恰好をしたおかしな女の子をフェルが好きになるはずがないから。こんな気持ちも気持ち悪いと思われるだけだ。だから、せめてその気持ちを動かしたい。せめて、驚かせたい。ちょっとでも、いなくなって寂しいと思われたかった。でもそんなことは言えない。
「あはは、そうですね。ごめんなさい」
軽い気持ちだったというふりをして謝った。




