29.旅立ち前日の昼のこと(4)
さて、客は買い物をしたりしなかったり、減っていった。
老婦人が、旅に出るのなら薬を持っていった方がいいわ、と、夕方に持って来てくれると言った。親切な人だ。
お花の先生は迷ったあげく、アッチェルが磨いていた陶器の花瓶を買わなかった。
「気が変わったらまた夕方来てもいいかね?」と言って出て行き、アッチェルは一人になると、再び“旅に出ます”の看板を出し、店の引き戸を閉じ、かんぬきをした。
アッチェルは二階へ上がる前に、そういえば、と思い出してカウンターの前でかがむと、フェルが蹴ったところの表面の木が少し荒れてささくれだっているのを発見した。
「全く。乱暴な人だな」
と、言ってみる。
(違う)
「友達なんだから当たり前だろ! そんな驚いた顔するな!」というフェルの言葉が頭の中で再び聞こえる。
荒れた部分の木を、よしよし、と撫でる。
「子供っぽくて、乱暴で、物に当たる人だ」
と、言ってみる。
(違う)
必要以上に悲しいのはなぜだろう。
(それは、 )
「だめだめ、わー!」
分かっている。違うのは分かっている。
子供っぽいとか、乱暴とか、物に当たるとか、わざと悪い部分を見ようとした。
それは、そうしないと……、
「だめだ、だめだ!」
アッチェルは頭をぶんぶん振って、振り払おうとする。
振り払おうとするのに、言葉が頭に浮かんでくる。
「あの人は、恥ずかしい人で、変な人で、子供っぽくて、本当に困った人で、困った人で」
違う。そんなふうに、おとしめたりしたら申し訳ない。だって、おとしめたいのは、完全に、自分側の都合だ。
分かってる。本当は、あの人は、フェルは、優しい人だ。
心が温かい人だ。
それでいいじゃないか。
はあ、とため息をつく。
どうしよう。困った。好きだ。
……。
「だめだめだめ! 今のは無しだ!」
頭をぶんぶん振る。
閉め切ってうす暗い店の中で、カウンターの前にかがんで、何をやっているのだろうか。
アッチェルは勢いよく立ち上がった。
だが、心がへなへなとして、うなだれる。
はあ~、どうしよう。
だめだ、だめだ、こんなこと、思っちゃだめだ。
店内をうろうろと歩きまわる。
だめだ、だめだ、好きになっちゃだめだ。
だめだ、だめだ、好き、とか、頭の中で言葉にしちゃだめだ。
その言葉を頭に浮かべちゃだめだ。
考えちゃだめだ。考えるな。
「あ~、どうしよう、どうしよう」
むやみにうろうろと歩き回る。
アッチェルの心臓がどくどく言っている。
そうして歩き回るうちに、だんだんと落ち着いて来た。
でも、大丈夫。明日から旅に出てしまうから。何も困らない。
そもそも、これは違う。単に、男の人に慣れていないだけ。
だから、特別な訳じゃない。普通にしていればいい。
「そうだよ。私はアッチェラードなのに。父の名前に恥じないように、いつでも毅然としていないと!」
よし、と、こぶしを握って気合いを入れると、全部なかったことにして、簡単に食事の支度をする。
明るく暖かい二階の食卓でパンを食べ、ハーブティーを飲むと、ほっと安心して、やっといつもの自分に戻った気がした。




