27.旅立ち前日の昼のこと(2)
アッチェルはカウンターの向こうのいつもの丸椅子に腰かけた。
この椅子に座ると店内が一目で見渡せる。
今日こうやって来てくれた人たち。この人たちに支えられて、今まで店をやってくることができたのだなあ、とアッチェルは感慨深く思う。
アッチェルの店の前でお客さんたちが集まって、骨董店の客にふさわしく、常識のある控えめな人たちだったので、さて、アッチェルは中にいるのかな、どうしようか、と話しているところへフェルがやって来て、看板を見て驚いて、即座に「アッチェルーー!」と叫び始めたらしい。
生け花の先生がそう教えてくれた。
「あの剣士の方は……?」と聞かれたが、なんと返事をしたらいいものか分からず、にっこりと笑って「お客様です」と答えたが、何も買っていないし買う気もなさそうで客とは呼べないかもしれない。
友達です、とは、あまりに人種が違い過ぎて、言えなかった。
生け花の先生は、「あ、そう……」と納得したようなしていないような様子で、深く追求はせず、店内の物を見始めた。
アッチェルは、店内を見て回るお客さんたちを見渡す。その人たちが今までに買ってくれたものを思い出しながら、陶器の花瓶を磨く手を動かしていた。
その赤と薄紅の小花が描かれた花瓶を、アッチェルはなぜかあまり好きではないので、かえって値をつけるのに考えてしまう。そのため、まだ店頭には並べていない。
昼近いので、大通りが比較的静かで、カッと照る日光で表が白っぽい。懐かしさと現実感が同居していた。何かを思い出しそうなのに、思い出させてもらえないような気分を味わっていた。
アッチェルは、大通りを走っていく荷馬車の車輪の回り方を眺めるのが好きだった。
そう。好きだったのだ。アッチェルは、頬杖をついて、よくここから眺めていたものだった。砂ぼこりの匂いも。
毎日眺めていたのに、明日からしばらくは見ることはない。
明日から旅に出るのかと思うと、とても感慨深い。
往来を行く人のことも、よく観察していた。そういえば、目を凝らして、知らない人の顔も覚えてみようとしてみたり、服装を観察してみたりしたものだ。
幼い頃は今の位置には父がいて、アッチェルは店の前にしゃがみこんで、尖った石で道の地面を掘って絵を描きながら、大人たちが横を通り過ぎて行くのを振り仰いだものだ。
口を開けたりして。水色の空の中を黒髪が、金髪が、頭を覆うベールや布が通って行く、行き交う。
それを見ていた。太陽の光が降り注いでいた。あのときもこのときも。
父の声がする。アッチェル、こっちへ来てごらん。面白い物があるよ。
こっちへ来て見てごらん。父さんが昨日ほら、あの定期市に行って見つけて来たんだ。あの町の名前は何だっけ。ほら、あの町だよ。……お、もうすぐご飯かな。母さんは今日は何を作っているんだろう。いい匂いがする。アッチェル。こっちへ来てごらんよ。アッチェル、アッチェル、アッチェル――
はっと目が覚めた。
ああ、うっかり、夢を見てしまってた。アッチェルは自分が、父でなく自分がカウンターのところの椅子に座っていることに気付くのに少し時間がかかった。
ああ、夢だ。
私は今、店の中のこの椅子に座っていたのだった。
昨日は旅の準備で夜更かししてしまったからか、いつものこの定位置の椅子に座ってほっとしたからか、お客さんがいるのに居眠りしてしまうなんて。
アッチェルが顔を上げると、右の棚の前で佇んでいる人が逆光の中で見えた。家の中にうっかり迷い込んだ小鳥のように、そぐわない。
小鳥と思ったのは、白い胸の羽毛が、彼の白っぽい金髪や白い肌の色にどこか似ていて、緑青色のマントが翼に似ていると思ったからだ。
体が大きくて背が高いから、小鳥に例えるのは無理があるが、アッチェルの頭に浮かんだのは、迷い込んで来た小鳥だった。
ああ、この人、フェルマーテンだよね。
寝ぼけていたのがだんだんはっきりとしてくる。
彼はじっと品物を見ていた。一体何を見ているのだろう?
初めてこの店に来たときもそうだった。
彼はまるで、何も見ていないような目でじっと佇んでいたのだった。
澄んだ深い青い目、北方系の高い鼻の横顔。
……。
アッチェルが見ていると、フェルは首も動かさずにそのままで、にこっとした。
あっと思う。
フェルはその微笑を口元に浮かべたままで、こちらを向く。
アッチェルは、高いところから落下したような気分で、顔を伏せた。もう何も考えなかった。カウンターの木目が見える。フェルのことを、ぼおっと見つめてしまっていた。
彼は、気付いていたのだ。目の端で、アッチェルがフェルを見ているのを、知っていたのだ。
ひやりとした。ぼおっとふわふわしていた風景も、一緒にひゅっと落下した。
「アッチェル」
フェルがそう言って近づいてくるが、なんと返事したらいいか分からず混乱していて、黙ってしまった。
下がった血の気が、今度はだんだん上がって来る。
「アッチェル、お客さん、選ぶの時間かかりそうだし、話してもいい?」
そう言って、フェルも定位置の、カウンターの前の丸椅子に腰かける。
「はい」
と、しぶしぶ答える。アッチェルの手の平がじとじとして来る。しかし突然、度胸が湧いた。でも、いい、と思った。でも、いい。どうせ、私は明日旅に出るのだった。旅に出るから、さよならだ。何も心配することはない。
心配することはない。顔を上げる。
何の心配があるのだろうか、とアッチェルは自問する暇はなかった。自分の気持ちについて深く考える間もなく、会話が始まる。




