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正しさの証明  作者: 虚名
第二章 正しさの在処
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第八話 白昼のノイズ

 住宅街は妙に居心地が悪かった。

 等間隔に並ぶ家々は昼光を浴びて白く浮かび上がっている。カーテンが揺れた奥で視線が滲み出ている気がして、どうも落ち着かなくなり、神谷は髪を掻き毟った。

 遠巻きに立つ住民。ひそひそとした声。スマートフォンを構える野次。赤色灯が住宅の壁や窓に反射して、不穏な空気を刻んでいた。本来あるはずの生活音が唐突に訪れた非日常のせいで追いやられている。

「目立つな」

 神谷は小さく呟いてから、視線を現場へ戻す。

 規制線の手前に立つ制服警察官と目が合った。相手はすぐに背筋を伸ばし、軽く会釈する。

「おまえか」

 神谷は思わず半眼になって吐き捨てた。

 彼は、アイと相棒として初めて組んだコンビニ強盗の現場にいた、警察官だった。

 よりにもよって、強盗現場に続いて、今度は殺人現場。偶然にしてはできすぎている。

 神谷は無意識に男の足元を一瞥した。地に着いている。影もある。幽霊ではない。単なる疫病神だろうか。別に根拠があるわけではないが、こうも一週間以内と立て続けに現場で顔を合わせると、因果の一つも疑いたくなる。

 つい息を漏らした神谷に、男はわざとらしく目を丸くして口元を緩めた。

「酷い言いがかりですね。それに、ちゃんと『久我理人』って名前もありますから」

「知らねえし」

「現場でよく会う地域警察官(お巡りさん)の名前くらい覚えてくださいよ」

 軽口を叩きながらも、久我の視線は神谷の後ろへ流れていた。

 その先にはアイがいる。

 一拍、久我の目が細まった。

「お久し振りです」

 声の調子は変わらないが、先程まで神谷に向けていたものとはほんの少し違う響きが混ざっていた。

 アイは視線だけを久我に向けて、淡々と答える。

「久我理人。現所属、地域課地域第一係、巡査部長。認識しています」

「相変わらずですね。ちゃんと覚えてくれてるのはありがたいですけど、さすがに……」

「勤務中ですので」

 アイはそれだけ言って、躊躇なく、規制線を跨いだ。

 ヒールの音が、一定のリズムで遠ざかっていく。久我は彼女を一瞬だけ見送り、ふっと息を吐いた。

「変わってないな」

 独り言のような呟きに、神谷は眉間に皺を寄せた。

 だが、久我はすぐに視線を戻し、何事もなかったように口を開いた。

「失礼しました。被害者は佐伯達也。四十代男性、このアパートの住人です。室内で血を流して倒れているのを、同居で高校一年生の娘が帰宅した際に発見し、警察へ通報しています」

「娘?」

「佐伯凛。動揺しているので、今は女性警察官が対応しているところです」

「そうか。他に何か異常はあるか?」

「財布と現金が見当たりません。物色された形跡もあります」

「強盗か……」

 神谷はそれだけ言って、規制線を跨いだ。

 扉が開いた瞬間、外のざわつきから剥離された代わりに、重い空気が部屋の奥まで満ちていた。

 鼻の奥に臭いが刺さる。

 ――血だ。それも新しい。血の臭いの隙間から生ごみの沈殿臭が漂っている。生活の残滓と混ざり合う生ぬるさを含んだ臭い。

 狭いワンルーム。玄関からほとんど仕切りもなく、すぐに六畳程度の和室が広がっていた。粗末なローテーブルの足元には、飲み干された安酒の缶が無造作に散らばっており、畳の縁を汚していた。小さな冷蔵庫。安物のテレビ。転がったままの灰皿や吸い殻。壁際に寄せられた一式の布団は半端に崩れ落ち、今は亡き持ち主の体温を記憶していると言わんばかりに生活感を残していた。

 その淀んだ空気の中に、明らかな異物が混ざり込んでいる。

 奥側にあるタンスの小引き出しは開いたまま、中身が引きずり出された形跡があり、床には雑多な物が散乱していた。

 そして、赤黒く沈んだ液体が床に広がっていた。

 男がうつぶせで倒れている。被害者の佐伯達也だ。首元にかけて血が広がり、シャツの色を赤黒く塗り潰している。顔だけ横を向いており、目は半開きのまま焦点の合わない視線で物色されたタンスを掴んでいた。

 神谷は遺体の傍にしゃがみ込み、頭部を確認した。ゴム手袋をはめて後頭部に触れると、髪の毛はべったり凝固した血液で固まっていた。傷口を確かめるべく、慎重に髪をかき分ける。鈍器によって強烈な衝撃を受けた頭皮は不規則に裂け、隙間からは溢れ出た血が泡のようにじくじくと押し出されている。傷口の周囲はどす黒く腫れ上がり、耳の裏手からもタラリと黒い血が線を引いて床へ流れ落ちていた。

 佐伯の表情は苦痛と驚愕が入り混じったまま凍りついていた。半開きになった口からは、最期に漏らしたであろう呻きが、血の泡とともに溢れて凝固している。瞳孔は恐怖に染まったまま散大し、眉間には深く刻まれた皺が寄せられており、激しい衝撃と苦悶を物語っていた。

 争った形跡はない。範囲は狭くて逃げ場もない。強盗犯は玄関からここまで一直線に被害者の元へ向かい、背後から鈍器で頭部を殴打したと見て取れる。

 無造作に置かれた灰皿に視線を向けたところで、視界の端に黒色のヒールが映った。

「外傷は単発。損傷自体は即死に至る深度ではありません。出血量から循環血液量の低下による死亡と推定されます」

「救急は?」

「第一発見者が警察に通報した直後、通信司令室で救急車を要請しました。すぐに救命用Aiが措置を施しましたが、既にその時点で死亡推定時刻が約二時間経過していました。どのみち死亡は免れません」

「あのなぁ。そういう問題じゃねえよ」

 言いながらも、神谷はそれ以上、反論する余地がなかった。

 通じない。いや、正確には、通じているのかもしれないが、理解できない。目前の相棒は感情を前提にした言葉を要していない。事実と最適解だけを拾い上げ、感情は容易に切り捨てる。ただ、そのようにプログラムされているものに、引っかかりを覚えているだけに過ぎない。

 神谷は小さく息を吐き、視線を遺体から外した時だった。

「神谷主任。発見者をつれてきました」

 女性制服警察官の声が背後から差し込まれる。

 振り返ると、玄関前で少女が立っていた。

 被害者の娘であり、第一発見者の佐伯凛。オーバーサイズの黒いトレーナーを着た彼女は一目で分かるほど身体が細く小さかった。鎖骨は浮き出て、頬の肉は削げ落ちている。いくら父親が殺された直後とはいえ、あまりにも生気がなさすぎた。

「大丈夫か」

 神谷は彼女へと駆け寄り、声をかけた。

 遅れて凛が顔を上げる。

「あ……。は、はい……」

 掠れた声で、視線が宙に浮いたまま定まらず、長袖を指先で握っている。

 神谷は頷くと、軽く顎で外を示した。

「ここじゃあ話しづらいから、車内で聞こうか」

「ここで事情聴取をする方が効率的です」

 間髪入れず、背後から平坦な声が差し込まれた。

 振り返ると、遺体の傍に立ったまま、アイが変わらない表情で神谷たちを見ていた。

「証言の鮮度を考慮すれば、現場での聴取が最適です」

 目前の惨事に重さを感じていない様子で、淡々と事実だけを並べている。

 神谷は言葉を失いつつ、息を吐いて頭を掻いた。

「あのなあ。人間は父親が殺された場所でまともに話せない。証言の確実性を求めるなら、現場の外で聴くべきだ」

 反論はなかった。

 空気が止まったような静けさ。その中で、凛の浅い呼吸だけが微かに耳に残った。やがて、ようやく理解できたのか、アイが「了解しました」と言って、ゆっくりと顎を引いた。

 神谷の背後からヒールの音が鳴る。玄関扉を開けると、重く淀んでいた室内の臭いが、一気に押し出された。

 反面、昼のざわつきと、湿り気のある風が肌に触れた。

「こっちだ」

 神谷は一歩前に出て振り返り、玄関前で立ち尽くしたままの凛の背に軽く触れた。

 ほんの一瞬、彼女の肩が小さく跳ねた。顔面蒼白で細い指の先まで真っ青になっている。無理もない。父親が血を流して亡くなった現場を目の当たりにしたのだ。触れられること自体が怖くなっていても不思議ではない。

 神谷は「悪い」と凛に詫びを入れて、前を向いた。ヒールの音も一定の間隔で続いていた。

 後部座席のドアを開ける。凛は車内を見て躊躇うように立ち止まったが、何も言わずに乗り込んだ。シートに座り、背中を少し丸くする。両手は膝の上で組まれたまま、指先だけが落ち着かずに動いていた。

 神谷はドアを閉めると、運転席に回り込み、バックミラー越しに彼女を一瞥した。

 続けてアイが凛の隣に座り込む。エンジンはかけない静かな車内の中、口を開く。

「何がありましたか?」

 凛は俯いたまま、少しだけ息を吸い、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

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