第九話 なぞる指先
凛は俯いたまま、少しだけ息を吸うと、言葉を紡ぎ始めた。
「帰ってきたら、鍵が開いたままで、変だなって思って……」
喉の奥で音が引っかかる。それでも、彼女はひとつひとつ区切りながら、順番をなぞり、説明していく。
「それで、中に入ったら……その……」
一瞬、詰まったが、凛はすぐに続けた。
「お父さんが倒れてて、血が……」
そこで初めて、視線が少しだけ揺れた。
「私、怖くなって、すぐ、警察に電話をして……」
言い終えた瞬間、凛は自分の腕を抱くようにして身を縮めた。
神谷は、袖を強く掴んで震えながら腕を擦っている彼女をバックミラー越しで見ながら訊ねる。
「犯人は見てないのか」
「……はい」
「音は?」
「いえ。帰ってきた時は……」
「何時頃に帰宅した?」
神谷が何気なく問いを重ねる。
凛は俯いたまま、返答が止まった。
父親が倒れている現場に居合わせた直後で、正確な時刻を思い出せる人間の方が少ない。無残な光景に意識を持っていかれて、時間なんて気にしていられない。それ自体は何ら不自然ではない。
だが――。
神谷は正面を向いたまま、頭上の鏡へと視線を流す。
「大体で構わない。昼前か、昼過ぎか、それくらいでも」
「……お昼くらい」
神谷は言葉を切った。それを合図に、別の声がすっと差し込まれた。
「通報時刻は、十二時十五分、です」
アイが手元の端末に視線を落としたまま、淡々と告げる。
「通話記録から、発信から応答までの間隔は平均値の範囲内。通報内容も混乱状態における発話としては標準的です」
「つまり?」
神谷が肩越しに視線を向ける。
アイは、端末の画面を指先で軽く操作しながら、視線を上げることなく答えた。
「帰宅直後に通報したという供述と整合しています」
次の思考へ移行する合図なのか、アイは端末を持ち替えた。凛の方へ視線を移し、確認事項を一つずつ洗い出すための質疑を続けていく。
「帰宅して、寄り道をされましたか?」
「……いえ」
「高校はどちらで」
「その……××高校です」
「なるほど。およそ三十分あれば帰宅できますね」
アイは彼女の佇まいを観察している。怯える少女への配慮もなければ、尋問特有の威圧感もない。ただ、淡々と事実のピースを回収していく冷徹な手際はスキャナーで読み取る機械そのものだった。
更に車内の空気が張り詰める。神谷はハンドルを握る手に力を込めながら、思考を巡らせた。
そういえば、この時間帯にしては帰宅が早い。授業が短縮されたのか、それとも別の理由か。何より彼女の恰好は制服ではなかった。
「なあ。学校は何時に終わったんだ」
神谷はふと引っかかった違和感をそのまま言葉にしただけだった。
だが、凛の顔付きが、ほんの一瞬だけ強張った。
「今日は自習で早く終わったので……」
彼女の指が、きゅっと組まれる。
神谷はそれ以上追わず「そうか」と相槌を打って視線を前に戻した。代わりに、彼女の隣に座るアイがタブレットを打つ手を止めて再び口を開いた。
「帰宅時の玄関の状態を確認します。施錠はされていましたか」
「開いていました」
「普段は施錠していますか」
「……はい」
「鍵の管理は」
「私と、お父さんだけです」
「他に、合鍵の所持者は」
「……いません」
「ご家族は?」
「お父さんだけです」
淡々としたやり取りが続いていく。
必要な情報だけを削り出す言葉の連鎖。感情を挟まない、温度の感じられない質問。これでは相手の心に触れないが、同時に揺さぶりもしない。無理に寄り添えば、心ごと崩れるか、口を閉ざすかのどちらかになるだろう。
今の彼女には、これでいいのかもしれない。
神谷は何も言わずに、二人の質疑応答をただ聞いていた。
「室内の状況に異変はありましたか?」
「タンスが開けられていました」
「何を物色されていましたか」
「……その……お父さんの持ち物、よく知らなくて……」
返答の中身は曖昧なくせに、言葉の輪郭だけが奇妙に整っている。動揺しているはずの語彙から人間らしい迷いや言い淀みが綺麗に消去されている。
事前に用意された台本を読まされているみたいで、薄ら寒い違和が首筋を撫でた。
「神谷主任」
思考の流れを断ち切るように、アイの声が差し込まれた。
「第三者侵入の可能性が高いと判断します」
「……ああ」
短く返す。
車内に静けさが戻る。アイは何も言わずに凛の供述内容を記録している。
神谷はバックミラー越しに、もう一度だけ彼女を見た。
凛は自棄に落ち着いている割に、瞳の奥には畏怖があった。父親が殺された現場を見たからだと思う。
だが、彼女は何かを隠している気がする。
聞くべきことはいくらでもある。それでも今ここでやるべきではない。神谷は視線を外し、フロントガラスの向こうを見た。
「怖かったか」
凛は少しだけ息を止め、膝の上で組んでいた指を少し緩める。
「……はい」
「そうか」
神谷はただ前方を睨み据え、ハンドルに置いていた手の力を抜き、自らの焦燥を押し殺した。
「悪いが、あんたには警察署で話を聞かせてもらう。父親がいない以上、このまま一人にしておくわけにもいかない。身元の確認も含めて、保護の手続きが必要だ」
凛は俯いたまま小さく頷いた。抵抗も質問もない。神谷はドアを開けて車外に出ると、規制線へと視線を向け、別の警察官と現場保存を交代し終えたばかりの久我を呼び止めた。
「おい、久我」
「はい」
「彼女、署まで送ってくれ。まずは保護優先だ」
久我は一瞬だけ凛を見て、すぐに頷いた。
「了解です」
彼はパトカーへと歩み寄ると、後部座席のドアを開けて、アイが降車するのを見計らい、凛に柔らかく声をかける。
「じゃあ、このまま警察署に行くよ」
凛はゆっくりと頷いた。
ドアが閉まる音がして、車が動き出す。神谷はそれを見送ってから小さく息を吐いた。隣でヒールの音が一つ鳴る。
「彼女の供述はよろしいのでしょうか」
アイが変わらない調子で問いを投げる。
声音に揺れはないが、凛の供述内容を記録していた指先が珍しく止まっていた。整合性の中に残った微細な誤差を測っている節が見受けられた。
神谷はポケットに手を突っ込み、少しだけ首を回した。
「今はな。まずは、周辺から当たるとするか」
現場の外へと視線を向ける。
遠巻きに立つ住民たち。閉じられたカーテン。こちらを窺う気配。何かを見ているようで、何も見えていない。あるいは、その逆か――。
足元に落ちる影が揺れる。
矛盾はない。だが、噛み合ってもいない。
整いすぎた供述。言えない時間。何より、光を失った瞳の奥でさえもどこか隠しきれずに凍りついている、剥き出しの恐怖。
それだけが、神谷の胸中で小さな棘のように引っかかっていた。




