第十話 正義の残滓
神谷とアイは住民への聞き込み結果を携えて、取調室へと向かった。
廊下は外の喧騒とはまた違った空気に包まれている。開け放たれたドアの隙間からは無線の断片が漏れ、すれ違う職員たちは誰も足を止めない。
神谷の脳裏には、整いすぎた供述をする少女の姿が、消えない残像となって焼き付いている。
「神谷主任。周辺住民からの証言及び近隣施設の記録との照合が完了しました」
神谷の心中を知らずか、あるいは興味すらないか、アイが歩調も乱さず淡々と報告を始めた。
「十年前、凛さんは両親の離婚により母親と離別しています」
ヒールの音が規則正しく響き、廊下の喧騒を無機質に切り裂いていく。前を向いたまま小さく鼻を鳴らした神谷に対して、アイは朗読のように説明を続ける。
「その後、被害者である父親からの虐待が認められて児童福祉施設に入所しました。近隣住民の複数が、当時怯えた様子でベランダに立つ彼女の姿を記憶しています。ですが――」
アイは一度言葉を切り、タブレットのデータを更新した。
「今回、彼女がアパートに戻ってきていたことを、周囲は誰も把握していません」
神谷の足が止まった。
なぜ、彼女は一度は引き剥がされた地獄へ自ら戻る道を選んだのか。守ってくれるはずの親から受けた傷を抱えたにもかかわらず、再びあの親元に帰らざるを得なかったのか。
その上、彼女が目にしたのは、肉親の無惨な姿。
あまりに救いのない巡り合わせに、神谷の胸に苦いものが込み上がる。
「施設から戻って、これか……」
神谷の呟きに、アイは表情を変えずに立ち止まる。
「供述の『整いすぎている』という違和感に対し、一つの仮説を提示します。施設や公的機関、あるいは法執行機関との接触経験が豊富である場合、人間は『正解に近い回答』を無意識に選択する傾向があります」
アイの分析は、どこまでも理性的だった。
彼女にとって、少女の過去に同情の余地はなく、行動パターンの予測データに過ぎない。なんて、感情を排した相棒に人の心の機微を説いたところで何の意味もなさない。そのように組み立てられたAiに対して、割り切れない憤りを抱くこと自体が時間の無駄なのだ。
神谷は乱暴に頭を掻くと、アイから視線を外して、前を見据えた。
「なるほどな。大人の顔色を窺い、欲しい言葉を与えることに慣れている。だから、あのような状況で標準的な回答が出せたってわけか」
「その可能性は高いと判断します。ですが、依然として、学校の帰宅時間に関する証言には矛盾が残っています」
「だろうな。『父親に虐待されていて、学校に通えていませんでした』なんて、彼女には答えられなかっただろうよ」
助けを求めて施設に入った少女を、結局は元の地獄へ戻すことしかできなかった社会の仕組み。そして、惨劇が起きるまで、彼女の苦しみに気付いてやれなかった警察の不甲斐なさを、神谷は嫌というほど痛感した。
結局、俺ら刑事は事件が起きてからでないと動けないのか。
神谷は吐き捨てたい衝動を堪えるように口元を歪めると、重い足取りで再び歩き出した。
背後から、アイの平坦な声が投げかけられる。
「感情の介入について、補足します」
唐突だった。
神谷の歩みが揺らぐのを待つ間もなく、アイは手元の端末から視線を上げず、前を見据えたまま淡々と続けた。
「神谷主任。個人的な義憤は捜査の精度を著しく低下させる要因となります。捜査行動基準法第七条にもその旨記されています」
捜査行動基準法第七条『捜査員は、感情に基づく判断を排除しなければならない』。耳にタコができるほど聞かされた条文だ。それを諾々と従った結果、見落としてきたものがあることも、神谷は知っている。
感情を排した先にあるのは、誤りのない判断だ。だが、同時に人間ならではの違和感や情け深さを切り捨ててきた事実もある。
神谷は足を止めず、横も見ずに吐き捨てた。
「感情のリスクは承知だ。だがな、こっちも相手も人間なんだ」
「理解不能です。記録によれば、あなたの前任の相棒は、被疑者の言動に対して過度に感情的になり、取調中に暴行を加えています」
不意に古傷を抉られる事例を挙げられて、神谷の奥歯が鳴った。
彼女にとって、過去の不祥事は反省すべき失敗ではなく、効率を阻害するエラーログの一つに過ぎない。ただ、その温度差こそ、神谷の苛立ちに拍車をかけた。
ヒールの音が神谷の焦燥をあざ笑うかのように、静寂した廊下を一定のリズムで刻み続ける。
「結果、彼は特別公務員暴行陵虐罪で送致され、地方の分駐所へと左遷されました。それだけではありません。その暴行によって被疑者の自白の任意性が否定され、起訴は取り消されました。要するに、感情による判断の過失はキャリアを破壊するだけでなく、組織の信頼と正義の遂行を根本から損なうことになります」
「ああ。あいつが悪いし、それで罰すべき被疑者を野放しにした責任は重いと分かってる。でもな、何も知らない機械に人間の感情そのものを否定される筋合いはねえよ」
心なしかヒールの音が遅れる。
神谷は足を緩めることなく荒い呼気を飲み込んだ。剥き出しの言葉が自分でも驚くほどに熱を持って、湿った廊下に落ちる。
吐き出したところで、Aiにとって理解不能な言動であることを充分に理解していながらも、拳は自然と力がこもっていた。
「なあ、Aiが人間より優秀と言うなら教えてくれよ。そうやって人間らしさを削っていって、本当に捜査の合理化になるのか?」
答えは返ってこない。ただ、神谷の非論理的な問いに演算回路が処理しようとしているのか、無機質な瞳がほんの少し揺れたように見えた。
取調室の重い鉄扉が目前に迫っていた。
神谷は、一瞬だけ足を止め、冷え切ったドアノブに手をかけた。




