第十一話 空白の供述
取調室の空気は、廊下以上に重く冷たく感じられた。
佐伯凛は、机の奥にあるパイプ椅子に深く腰かけていて、神谷たちが室内に入っても視線を上げず、俯いたまま膝の上で指を組んでいた。白く細い指先は、血の気が引いたように強張っている。
神谷は凛の斜め後ろに置いてあるパイプ椅子に腰を下ろす。アイは凛の対面に座り、見透かすような瞳で彼女を射抜いた。
「佐伯凛さん、聴取の続きを始めます」
アイの声が薄汚れた白い壁に反響した。
神谷は手元の資料に目を落とす素振りをして、二人のやり取りを注視した。静まり返った室内では資料をめくる僅かな摩擦音さえも酷く大袈裟に響く。アイはタブレットに視線を戻すと、感情を一切排除したトーンで質問を投げかけ始めた。
「まずはお父様との関係について教えてください。あなたは数日前に児童福祉施設を出て、このアパートに戻っています。その理由は?」
「お父さんが迎えに来たから。もう二度とあんなことはしないからって。施設の人も、親子の縁は切れないものだって、言ったから……」
少女の声は震えていた。
アイは構わず次の問いに移行した。
「被害者の資産状況について。お父様の預貯金はご存知ですか。あの日、あの部屋から盗まれたものが何か、心当たりはありますか」
「知りません。お金のことなんて、教えてもらったことないから……」
「お父様の職業は? 何をして金銭を得ていたか、把握していましたか」
「知りません。聞いても、教えてくれなかったから」
「では、事件当日の外出時間について確認します。事件当日、あなたは朝、何時にこのアパートを出ましたか?」
「七時半位です。いつも通り、学校に行く時間に……」
凛は膝の上で指を絡めて一向に顔を上げない。
神谷は彼女の指が白くなるほど力んでいるのを見逃さなかった。
学校なんて行けてなかっただろ。神谷は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
どんな理由で嘘をついているのか。あるいは、学校へ行くありきたりな女子高生を演じることでしか、今の自分を保てないのか。震える細い指先が、彼女の平坦な言葉とは裏腹に、限界に近い緊張を物語っていた。
アイは二人の人間の動揺を一切無視し、タブレットを操作しながら事務的に次の問いを投げかけた。
「その時間、お父様はご在宅でしたか?」
「はい。まだ寝てて、起こしたらダメだと思って、静かに出ました」
「なるほど」
アイは表情ひとつ変えず、手元のタブレットにタッチペンで淡々と記録を打ち込んでいく。
「では、あなたが家を出た七時半の時点では、お父様は存命であり、かつ就寝中であった。齟齬はありませんね」
「……はい」
凛の返声は砂が零れるほどの微かなものだった。
アイは逃げ場を塞ぐように質問を繋げていく。
「登校から事件が発覚する間までの動向についても伺います。帰宅されたのは十二時十五分前でしたね。その間、あなたは学校で何をしていましたか?」
「その日は午前授業だったから……」
「友人との会話は?」
「クラスが離れてしまって、あんまり……」
凛の言葉が次第に淀んでいく。
記憶が曖昧なのではない。存在しない記憶をその場しのぎで必死に捏造しようとしている苦しみが、組まれた指の震えとなって、漏れ出している。
神谷は、胃の辺りが重くなるような不快感を覚えた。
アイは彼女が嘘をついていることを十二分に理解し、あえて泳がせているのだ。
彼女の『完璧な解答』が崩壊するのを、効率的に引き出すために――。
「承知しました。では、もう一つ。施設を出る際、お父様以外にあなたに接触した人物はいますか。例えば、お父様の知人と名乗る人物や金銭の貸し借りに関係するような人物などです」
「いません。お父さんだけでした。本当に……」
「承知しました。では、最後の質問になります」
アイはタブレットから顔を上げ、ようやく凛を正面から見据えた。
「現場の状況についてです。あなたは帰宅後、遺体を発見してすぐに警察へ通報しています。なぜ、警察に通報する前に、救急車を呼ばなかったのですか?」
取調室の空気が一瞬で凍りついた。
凛の肩が目に見えて跳ね、組んでいた指がなお強張る。神谷も思わず手元の資料を握る手に力が入った。
「それは……」
凛は唇を震わせながらも必死に言葉に紡いだ。
「お父さんが血を流して倒れていて、すごく怖くて、だから……助けてもらわなきゃって……その時は必死だったから……」
「なるほど」
アイは再び無機質な表情に戻り、ようやく初めて凛を正面から見据えた。
「佐伯凛さん。ご協力ありがとうございます。あなたの供述に基づき、これから現場の再確認、防犯カメラの映像照合、および学校関係者への裏取り捜査を開始します。あなたの言葉が真実であれば、お父様の『空白の五時間』が多くの客観的証拠によって、補強されるはずです」
皮肉なことに、アイの声は終始穏やかだった。
凛は弾かれたように顔を上げたが、すぐにアイの冷ややかな視線に射すくめられ、再び力なく視線を落とした。
細い肩は、目に見えて小さく震えている。アイの言った客観的証拠という言葉が、逃げ場のない檻のように彼女を包囲し始めていた。
彼女のついた嘘は、殺人の実行に関わるようなものではない。ただ、同世代の誰もが当たり前に享受している日常で自分だけが決定的に違うといった、あまりに切実で惨めな苦悩を隠そうとした結果に過ぎない。
事件の真実を暴くのが神谷たちの仕事だ。そこに偽りがあれば、どんなことですら解明する必要がある。だが、自分たちが追い込んでいるのは、凶悪な犯罪者ではなく、社会に取り残されか弱い少女ではないのか。
疑念が胸に残り、神谷は彼女の姿を正視できず、思わず目を逸らした。
「本日の聴取は一度終了します。神谷主任、行きましょう。確認すべき記録が山積みです」
アイは音もなく立ち上がり、一瞥もくれずに、部屋の出口へと向かった。
神谷は、椅子に縛り付けられたように動けない少女を、ただ見つめることしかできなかった。
廊下に出ると、アイは止まることなく神谷に告げた。
「神谷主任。これよりアパート周辺全域の防犯カメラ解析、学校関係者への裏取り捜査を行います」
「アイ、彼女が学校に行ってないことを分かってて、泳がせただろ」
「当然です。虚偽の供述を維持させることで、彼女の行動原理の矛盾を最大化に引き出せました。問題は、彼女が守ろうとしているのは、自分自身なのか。あるいは……」
アイは一度足を止め、無機質な瞳を神谷に向けた。
「まずは彼女の証言の齟齬がないか、現場に向かいましょう」
規則正しいヒールの音が冷え切った警察署の廊下に再度響く。
「最低だな」
絞り出すように言った皮肉がアイに届いたか、あるいは届いたところで彼女の演算回路が意味のある批判として受理されたかは定かではない。
コンクリートに囲まれた閉鎖された場所では、少女が必死に守りたかったささやかな自尊心でさえ、解明すべき不純物として冷徹に剥ぎ取られていく。




