第五話 解決
神谷は踵を返した。
「行くぞ」
アイも動いていた。二人は呆然と立ち尽くす久保田や制服警察官を置き去りにしたまま、バックヤードを飛び出した。
店内を抜けて、規制線を跨ぐ。数十メートル先、路肩に停まった救急車の赤色灯が断続的に明滅しているのが見えた。白い車体が住宅街の薄暗さの中で浮かび上がり、開いた後部ドアの奥で人影が忙しなく動いている。
「出ます!」
「待ってくれ!」
隊員の声に、神谷は声を荒げて救急車の出発を制止した。彼は後部ドアを閉めようとしていたが、眉を潜めて手を止めた。
「警察だ。彼と話がしたい」
「搬送中でも話は……」
「数分でいい」
神谷は被せるように言った。
一瞬の逡巡の後、隊員が視線を井上に向けた。
井上はゆっくりと頷いた。
同意は得た。神谷が後部ドアから車内に入り、口を開こうとした。
パチン、と乾いた音が鳴った。
と思えば、アイがゴム手袋を手にはめながら横から入り込んできた。
「所持品を確認します」
「おいっ」
止める間もなく、アイは井上の傍らに置かれていたショルダーバッグへ手を伸ばした。
財布。携帯。封筒――。
神谷は井上の様子を横目で捉えた。
彼は何も言わなかったが、視線だけが忙しなく泳ぎ、伸ばしかけた手が宙で止まっている。止めたいのに、止めれば余計に怪しまれる。そんな逡巡が見て取れた。
アイは構わず中身を確認していく。
紙幣が十数枚。表面に乾きかけた血が付着している。アイはそれを持ち上げて陽光に翳した。
「レジスター内の紙幣ですね」
井上の表情が強張るのがはっきりと見て取れた。
神谷は小さく息を吐いた。胸の奥に残っていた違和感が静かに輪郭を持ち始める。
アイは紙幣を凝視しながら、指先で紙幣の端を揃えて見せた。
「番号が連続しています。更に向きと揃え方が一致している。個人の所持金ではこの状態はほぼ再現できません」
誰も言葉を挟まなかった。
救急隊員が思わず顔を見合わせる。処置の手を止めたまま、視線だけが紙幣へと落ちていた。
井上の喉が小さく鳴る。視線が紙幣とアイの間を行き来し、定まらない。
「それは……たまたまで……」
絞り出すような声が聞こえた。
だが、アイは視線すら向けない。
「加えて、この血液。レジスターの縁に残っていた血痕と同じ飛沫分布です」
レジスターを想起する。
キャッシュドロアに点状に散った血。大きさも間隔もほぼ同じである。
「以上から、これらの紙幣はレジ内にあった、あなたが持ち出したものです」
救急車の中、機器の電子音だけがやけに浮く。
井上の視線は逃げ場を探すように揺れているが、どこにも行き着かない。
神谷は何も言わずに二人を見ていた。
論理はすでに終わっている。
井上が何度も口を開けては閉じ、乾いた唇でようやく言葉にした。
「……違う。たまたまだ。自分の金だよ、これ」
井上の指先がストレッチャーの端を掴み、軋むほどに力がこもっている。
神谷が一歩前に出た。
「井上。今、アイが言ったことが全てだ。強盗に渡した金がおまえの封筒に戻ってくることはねえ」
井上が何か言い返そうと息を吸い込む。
「いいから聞け」
瞬時に、神谷が被せた。
「それなら、おまえの証言を証明するために、紙幣をすべて鑑定する。おまえの金なら店員の指紋がつくはずがねえよな」
井上の指先が震えた。額に滲んだ汗がこめかみを伝い、顎先へと落ちる。
神谷は一瞬間を置いてから、声を少しだけ落とした。
「それに、防犯カメラの録画機のコンセントをわざと通路側に引き出しておいただろ。事故に見せかけてカメラを止めるためにな」
井上の肩がびくりと跳ねた。
指先が無意識にシーツを掴み、皺が寄る。一瞬だけ目が泳ぎ、呼吸のリズムが崩れていくのが目に見えて分かった。
続ける。
「防犯カメラも確認済みだ。棚から物が落ちる。久保田が拾いに走る。そこで、コンセントに足を引っかけて、プラグが抜ける。それだけじゃねえ。更に直前の映像を確認すれば、おまえがコンセントの位置を動かしてる様子もはっきりと映ってたんだ」
犯行そのものが映っていない以上、警察がそこまで遡って確認するとは思ってもいなかったのだろう。
井上の顔から血の気が引いていく。呼吸が一瞬止まり、浅く速いものに変わる。視線が宙を彷徨い、もはや定まる場所を失っていた。
神谷は視線だけで井上を射抜いた。
「このままだと久保田が強盗犯と言われかねない。おまえ、そのつもりで犯行に及んだのか」
言葉が落ちた瞬間、車内の空気が張り詰める。
井上はもう何も言わなかった。
唇が僅かに開いたまま、音にならない呼気だけが漏れている。
「まだ続けるか、ここで止めるか……。どっちだ?」
最後に一歩、距離を詰めた。
「井上。今ならまだ戻れる」
井上の肩から、力が抜けた。
握っていたシーツの皺がゆっくりと解けていく。
「俺が……やりました」
掠れた声で井上は続けた。
「売上、少し抜いてて、埋めようと思って……強盗に見せかければ、いけると思って……」
言葉が途中で途切れた。喉の奥で何かが引っかかるように音を立てる。呼吸が乱れて次の言葉が続かない状態だった。
「すみません……」
ようやく、消え入りそうな謝罪が聞こえた。
神谷は小さく息を吐いた。
「分かった。詳しい話は治療が終わってから、病院で聞く」
「不合理です」
と、横からすぐに声が差し込まれた。
アイが踏み込み、神谷と井上の間に視線を滑らせる。
「今の時点で供述を確定させる方が、証拠保全および整合性の観点から最適です。時間経過による供述変遷のリスクが……」
「分かってる。だが、今は治療が先だろ」
はいはいと、神谷はアイの言葉を遮った。
これ以上の説明はしない。というより、できなかった。
短い沈黙が落ちる。救急車内で電子音だけが規則正しく鳴り続けていた。
アイは数秒、神谷を見ていた。
その瞳は相変わらず感情がなく、読み取れない。
神谷は視線を合わせたまま小さく肩を竦めてみせると、すぐに井上の方へと顔を戻した。
やがて、アイは神谷から視線を外した。
顎を引き、思考を切り替えるように一度だけ瞬きをすると車内を下り、振り返らないまま告げる。
「了解しました。それなら私は現場に戻ります。二人とも離れると業務に支障をきたしますので」
そのまま規制線の方へ歩き出す。
ヒールの音が、一定のリズムで遠ざかっていった。
神谷は彼女の背中を一瞬だけ見て、何も言わずに視線を戻した。
やがて、救急車のドアが閉まり、エンジン音が立ち上がった。




