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正しさの証明  作者: 虚名
第二章 正しさの在処
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第二十話 魔法の解体

 翌日。警察署の地下駐車場は朝の瑞々しい空気とはかけ離れ、ひんやりと湿った重い空気が滞留していた。神谷は型落ちした捜査車両に滑り込むと重い身体をシートに預けた。

 アイが助手席に乗る。ドアが閉まる鈍い音が地下駐車場に反響し、車内は外界から切り離された静けさに包まれた。

 勢いよく行動したとはいえ、神谷の手はキーに触れたまま止まっていた。違和感の正体が掴めないままではどこへ走ればいいのか見当もつかない。焦燥感だけが胸の奥で燻る。

 神谷はハンドルに両手を乗せたまま、フロントガラスの向こうの薄暗い壁を見つめて小さく息を吐いた。

 このまま車内で考え込んでいても埒が明かない。

 神谷は小さく舌を打つと、隣の相棒へと声をかけた。

「アイ。そういや、あんたが言っていた『供述に残る論理的空白』って、一体何なんだ?」

 アイは正面を見据えたまま、微動だにせず答えた。

「凛さんは『激昂した父親に襲われ、咄嗟に付近に置いていた灰皿で一発殴り、抵抗した』と供述していました」

「ああ。それなら正当防衛になるかもしれないよな」

「はい。ですが、それ以前に彼女の自供内容では矛盾が生じています」

 アイは首を小さく横に振り、タブレットを操作しながら続けた。

「被害者の検視調査書と現場の鑑識結果を入手しました。まず、被害者の死因は、頭部挫創による脳挫傷および急性硬膜外血腫。怪我の程度から見て、鈍器で一発殴打されたもので間違いありません」

「それなら凛の供述通りだろう」

「問題は、一撃がもたらした破壊力と、彼女の身体能力の乖離です」

 アイは検視調査書の該当箇所を表示し、神谷へ向けてタブレットを傾けた。

「凶器とされる灰皿の重量は一・一キログラム。これを極度の精神的パニック状態にあり身体的脆弱な少女が、たった一発振り下ろして成人男性を即死させる致命傷を与えられる確率は、物理演算上では約四・八パーセントに過ぎません」

「なるほど……」

 神谷は顎をさすった。

 刑事としての経験則がアイの弾き出した数字を肯定している反面、たまたま急所に入ったという偶然も現場では決して珍しくはない。

 結論を出せず思考を巡らせている神谷に、アイが何事もなかったかのように口を開いた。

「問題は彼女の行動が約四・八パーセントに値するか否かです。そこで、神谷主任の出番です」

 唐突に、アイが身体ごと神谷の方へ向けた。

「出番?」

「はい。私が被害者である父親の役割を模倣します。神谷主任は佐伯凛さんの立場として、抵抗し、後頭部を殴打してください」

 アイは無表情のままでじわじわと顔を近付けて、細い両手を神谷の肩へと伸ばしてきた。柔らかな質感が捜査用Aiとは思えない。漆黒の瞳に戸惑いを隠せない神谷の表情が宿る。

「おい、待て。ストップ!」

 神谷は咄嗟にシートに背を押し付け、両手を突き出して、アイの接近を阻んだ。

「おい。車内っていう密室でセクハラまがいの実況見分をするな」

 アイは神谷の膝に乗ったまま、小首を傾げた。

「セクハラ? 状況の再現は人間の脳における直感的推論を活性化させる有効な手段です。それに私は捜査用Aiです。性的意図やハラスメントの概念を適用する対象にはなり得ません」

「おまえがAiなのは重々分かってる」

 神谷はこめかみを押さえながら嘆息した。

「だがな、人間はそう簡単に割り切れないんだ。頼むから、そういうのは口頭で説明してくれ」

 アイは神谷の拒絶を数秒間フリーズした様子で見つめていたが、やがて、理解不能な人間のノイズとして処理したのか、眉を顰めて不満げに口元を尖らせた。

「了解しました。口頭での論理展開に切り替えます」

 アイは居住まいを正し、助手席のシートへと戻り、手元の端末に視線を落としながら話を続けた。

「彼女が襲われた際に抵抗して反撃したとすれば、二人は『正面で対峙すること』となります。よって、被害箇所は相手の顔面あるいは前頭部に集中するのが自然です」

「だが、被害者は後頭部を一発殴打されて絶命した」

「はい。検視調査書によれば、打撃痕は後頭部右側に位置しています。これは、背後からの不意打ち、あるいは無抵抗で倒れていた相手に上から殴打しなければ、物理的に発生し得ない角度です。つまり――」

「凛は嘘をついている」

 神谷がアイの言葉を継いだ。

 アイはゆっくり頷くと、タブレットに指を滑らせながら、今度は鑑識結果を読み上げた。

「現場から採取された指紋を照合した結果、室内各所からは被害者および佐伯凛さんの指紋が検出されました。一部、居住者以外の遺留指紋も採取されていますが、指紋データベースとの照合結果は不一致です。また、凶器とされる灰皿からは佐伯凛さんの指紋のみが検出されています」

 神谷は腕を組み、脳裏で現場の光景を組み立て直した。

 凛の供述だけを信じれば正当防衛は成立するが、物的証拠を一つずつ当てはめるたび、彼女の供述は少しずつ綻びを見せ始める。

 これが、アイの言う『供述に残る論理的空白』か。

 アイは神谷が思考を巡らせるのを待つかのように一拍置いてから、鑑識資料のページを切り替えた。

「ルミノール反応やウロビリン検査に加え、血痕分布および現場保存状況を総合的に分析した結果、被害者は抵抗することなく俯せで絶命したと判断されます。つまり、凛さんが供述した『襲われて咄嗟に抵抗した』という状況では、現場の物的証拠が一致しません」

「なるほど。少なくとも、正当防衛であるといった供述は成り立たなくなるな」

 神谷がダッシュボードを苛立たしげに指先で叩いた。

 なぜ彼女は自分を不利にするような嘘を吐いたのか。正当防衛を主張するなら、証拠と矛盾しない供述を組み立てることもできたはずだ。

 神谷が考えあぐねていると、アイの淡紅色の唇が静かに動いた。

「彼女の『嘘という魔法』の裏には、まだ私のアナライザーでは解明できない非合理的なデータが隠されています。神谷主任、次の捜査ステップへの移行を提案します」

「おいおい。どこに行けばいいんだよ」

 神谷はハンドルを握る手に少しだけ力を込め、苦々しく眉根を寄せた。

「凛が嘘をついていることは分かったが、肝心な嘘の根本となるものが見つからない。動機を絞り込めなきゃ、動きようがないぞ」

 神谷の問いに対して、アイの視線はどこか頼りなく泳ぎ、計算処理が限界に達したかのか、小さく首を横に振った。

 さすがの高性能捜査用Aiでさえも、完全な暗闇では答えを弾き出せないらしい。

 車内に重苦しい沈黙が戻る。

 神谷は視線を落とし、取調室での凛の姿を脳裏に思い浮かべた。

 感情を削ぎ落とした静かな自供。震える手。絶望の底にいるような瞳。それでも彼女は自分の人生を投げ打ってでも他人を守ろうとしていた。

 凛が嘘を吐くまで自供せざるを得ない状況というのは――。

「だからか……」

 脳裏のピースがカチリと音を立てて噛み合った。神谷の口から確信を帯びた呟きが漏れる。

「神谷主任?」

 アイの呼号を合図に、神谷はイグニッションキーを回した。古いエンジンの震動が不機嫌な唸りを上げ、ヘッドライトが地下駐車場の暗闇を白く切り裂いた。

「神谷主任、どこへ行くのですか」

 アイが僅かに首を傾げ、横目で神谷の横顔を観察する。神谷の表情から迷いは消え、刑事として真実を追う鋭い眼差しが戻っていた。

「凛の行動を調べる。まずは事件前日以前の彼女の足取りだ。そのために周囲の防犯カメラの映像を精査しよう」

 神谷がギアをドライブに入れた。しかし、アイは淡々と冷静な現実を突きつけてくる。

「防犯カメラ映像の解析は可能ですが、推奨しません。事件現場周辺、佐伯凛さんの立ち寄り先を網羅するとなると、該当するカメラは数十台、データ量は数百時間分に及びます。私の並列処理をもってしても、すべての映像データを精査するにはかなりの時間を要します。非効率的です」

「いや、全部を見る必要はない。ほんの数台だけでいいんだ」

 神谷は不敵な笑みを口元に浮かべ、アクセルを踏み込んだ。捜査用車両は静かにタイヤを鳴らし、地上へと続くスロープを上り始める。

「どういう意味ですか」

 怪訝そうに訊ねる相棒に、神谷は夕闇の街へと視線を向けながら言い放った。

「俺の推測が正しければ、あの子の嘘の真意は、あそこの防犯カメラに映り込んでいるはずだ」

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