第二十一話 真実の帰結
神谷は錆びた鉄扉を叩いた。
一度目の聴取の際にも肌にまとわりついた、あの湿り気を帯びた閉塞感が、再び鼻腔を突き刺す。
──返答はない。
しかし、沈黙の重みがすべてを物語っていた。厚い扉の向こう側、怯えた獣がじっと息を殺し、こちらの出方を窺っている。その微かながらも確かな気配が肌を粟立たせるように伝わってきていた。
「警察だ。開けてくれ。例の件で確認したいことがある」
やがて、重い鍵が解錠する音がした。
「何の用ですか。佐伯さんのことならすべて話しましたけど……」
彼――浅倉結人はドアの縁を固く握りしめていた。
隙間から覗き込む瞳は、逃げ場を失った者の絶望と同時に外界を拒絶する強い意志が混在していた。
「金の話じゃない。中に入れてくれ」
神谷はその場で一枚のプリントを取り出した。
佐伯凛の顔写真である。
「この少女に見覚えないか?」
「……いえ。知りません」
「対象の心拍数が急上昇。末梢血管の収縮を確認しました」
アイの冷徹な指摘に、浅倉はビクリと肩を跳ねさせた。
神谷は相棒の容赦ない正論の切れ味に内心で苦笑しつつ、嘘が露見した者の典型的な狼狽に確信を得たと判断した。突きつけられた写真から目を背けようとする浅倉の視線は泳ぎ、額にはじんわりと冷や汗が滲み始めている。
「何ですか。機械みたいなこと言って……」
浅倉は平坦な口調でアイを見据えた。
だが、彼の視線が一瞬だけ、流し台に置き去りなままの使い終えたマグカップや未使用の歯ブラシへ向けたのを、神谷は見逃さなかった。
神谷はフッと鼻で笑い、更に畳みかける。
「そうか。だが、あんたのアパート付近の防犯カメラに、この子と並んで歩くあんたの姿が映ってるんだ。同棲しているカップルみたいな面でな」
浅倉の喉仏が大きく上下する。彼はスラックスの生地をきつく握りしめ、視線を足元に落として言葉を絞り出した。
「道を訊ねられて、案内しただけで……それ以上は何もありません。もういいですか。帰ってください」
もはや「知らない」という嘘を暴く段階は終えた。ここからは浅倉の心の奥底に眠る善意を悪意という名の劇薬で炙り出すしかない。
神谷は扉を力ずくで開け、玄関先まで踏み込んだ。
「浅倉。正直に言え。あの女が色香であんたを誘惑し、ここに転がり込んだのは調べ尽くした。親父から逃げるために、あんたをそそのかして同棲していたんだ。そして、邪魔な親父をあんたに殺させた」
「何の……話ですか?」
浅倉は唇に力を入れながらそう答えた。
彼の瞳には内側から燃え上がるどす黒い怒りが宿っている。神谷はあえて表情を歪めて凛を罵り続けた。
「あんな薄汚い女のどこがいい。親父を殺させるために、あんたを利用したんだぞ。今頃笑ってるぜ。『勝手に罪を被ってくれた』って」
「浅倉さん。現在、あなたの心拍数は通常時の一六〇パーセントに達しています。激しい怒りと強い守護本能を確認しました。本当は凛さんを侮辱されることが耐え難いのですね」
アイの声は俄然氷のように冷たく、室内の熱狂を瞬時に凍りつかせた。
浅倉はアイの無機質な瞳に見つめられながらも歯軋りし、必死に拒絶の構えを取っている。
あえて黙秘を貫き通すわけか。
神谷はポケットに入れかけた手を止めると浅倉の目元をじっと覗き込んだ。
「一つ言っておく。凛が自白した。『私が父親を殺した』とな」
浅倉の瞳が大きく見開かれた。
言葉にならない声が喉の奥で震えている彼に、神谷は逃さず続ける。
「彼女は正当防衛を主張している。そうすれば、自分も刑務所に行かずに済むし、あんたという存在を事件から完全に消せる。そう計算してな」
神谷は一歩、浅倉に詰め寄った。
「凛はあんたを守るために、その罪を白紙にしようとしている。二度と会わないことを前提にだ。ただ、凛が必要としているのは、居場所だ。あの子にとって、二人での生活は生まれて初めて見つけた『居場所』だったはずなんだ。それを与えられるのはあんたしかいないはずだ。本当にそれで凛を救ったと言えるのか。本当に、それでいいのか?」
神谷の声が狭いアパートの室内に重く響き渡った。
張り詰めた沈黙。やがて、浅倉の身体から張り巡らせていた虚勢の糸がぷつりと切れたのが分かった。
「……んな……俺は……」
言葉にならない掠れた声が漏れると、浅倉はずるずると膝から畳へ崩れ落ちた。
ボタボタと涙が滴り、畳の上にはいくつもの濃い染みが広がっていく。彼は床に突いた両手で畳の目を掻きむしりながら、とうとう嗚咽を漏らし始めた。
「あの子、あんなボロボロの格好でいて……だから、助けたかっただけなんだ。なのに、急にいなくなって、必死に探して、ようやく見つけたと思ったら、あいつのアパートに入っていくのが見えて……。佐伯の娘だなんて、これっぽっちも知らなかった……」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながらも、彼は必死に言葉を繋ごうとしていた。細い肩が激しい呼吸とともに大きく上下する。その姿は殺人犯というよりも、大切なものを守り切れなかった一人の青年にしか見えなかった。
胸中では鈍い痛みを抱くも、神谷は対象を追い詰める冷徹な刑事としての視線を保とうとした。
目の前で泣き崩れる男の動機は自己保身でも憎悪でもない。ただ一人の少女を救いたいと願った、あまりにも純粋であまりにも不器用な正義感だった。
浅倉は爪が立つほど畳を掻きむしり、声を絞り出した。
「凛が幸せならそれでいいと思った。でも、怒鳴り声が聞こえて……扉が開いてたから中を覗いたら、凛が殴られそうになってて……。気付いたら、近くにあった灰皿で……」
振り下ろした衝撃の感触が残っているのか、浅倉は自分の右手を恐ろしげに見つめた。
「凛は『強盗に遭ったようにするから』って、俺を逃がしてくれたんだ。刑事さんが来た時、バレたかもしれないと思って焦ったけど、凛の言う通りに進んでてホッとして……。でも、本当にこのまま逃げていいのかって、ずっと思ってて……。あの子、また……今度は、俺のせいで、苦しんでいるんじゃないかって……」
浅倉は震える両手を神谷の前に差し出した。
「刑事さん。俺が佐伯を殺しました」
神谷は黙って手錠を取り出し、浅倉の両手首にかけていく。
カチャリと鳴る虚しい金属音が、凛が自分自身で呪縛していた、悲しい魔法の終わりを告げた。
神谷は浅倉を立たせるとアイに視線を送った。アイはタブレットを閉じ、室内の暗がりに同化するように佇んだ。
「神谷主任。私の論理回路に説明のつかないノイズが混入しています。浅倉結人が自白した瞬間、なぜ、安堵を発したのでしょうか」
「それはな、真実ってのが、時として救いになるからだ」
神谷は浅倉の痩せた肩を見つめた。
全てを背負い、冷たい檻に向かう男の足取りは皮肉なほどに軽やかに感じた。
重すぎる罪を告白したことで、ようやく自分自身を縛りつけていた鎖からも解放されたのだろう。
そんな中、アイの表情が春の陽だまりを解析したかのように穏やかになったのを、神谷は見逃さなかった。
泥濘の事件の果てに、安堵という非合理な答えを拾い上げた故の表情なのか。
いや、捜査用Aiである彼女に、そんなものあるはずがない。
神谷は小さく吐き捨てたが、口元は微かに綻んでいた。
神谷は浅倉の背を押すと、夜の帳が下り始めた街へと踏み出した。
誰かのために嘘を吐き続けている少女の元へ、真実という魔法を届けるために。




