第十九話 解あるエラー
取調室から解放されたものの、警察署内の廊下で行き交う捜査員の足音や古紙の臭いが更に神谷の芯を圧迫した。
佐伯凛の静かな自供。細い手首に食い込む手錠の冷たさ。必死になって追い求めていた真実は残酷なほどに容赦なく一人の人間を絶望の底へと突き落とした。これが正義なのか。神谷は答えを見つけられないまま歩き続けた。
「神谷主任。歩行速度が通常より一三パーセント低下し、視線が定まっていません。心拍数の微増も確認できます。一時的な休息を推奨します」
隣を歩くアイが変わらない無機質なトーンで進言した。
「今は休んでいる暇なんてないだろ。それより、佐伯凛の自供、どう思う?」
神谷が問いかけると、アイは前を見据えたまま演算の間を置いた。
「刑事訴訟法上の自白としては充分な価値を持つでしょう。ですが、彼女の供述から一つ確認しておきたい点があります」
「確認?」
「はい。凛さんは……」
刹那、アイが言葉を切り、前方を注視した。
乾いた革靴の音が近付く。
四十代後半の男。仕立てがいいが嫌味にならない程度に身の丈に合ったチャコールグレーのスーツに、精悍な顔立ちを引き締めるオールバックの髪には白いものが混じっていた。
直接言葉を交わしたことはないが、庁内の広報や資料で幾度となく目にしたことがある。
本部の捜査部門を統括するトップ、刑事部長の鷲津徹である。
「アイ。探したぞ」
「鷲津部長」
神谷が短く敬礼すると、鷲津は満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「アイの相棒となった、神谷悠真くんだね」
部長は一歩踏み出すと神谷の肩に手を置いた。
まるで隣に立つアイの筐体のように冷たく、神谷は思わずビクリと肩を強張らせた。
「神谷くん。君の噂は聞いているよ。あの時は大変だったね」
鷲津の言葉は神谷が心の奥底に厳重に蓋をしたはずの傷口を容赦なく抉ってくる。
鼻孔にこびりついて離れない生臭い硝煙と血の悪臭。焦燥と無力感。神谷は苦虫を噛み潰したような苦渋を表情に滲ませて奥歯を軋ませた。
鷲津は神谷の様子を懸念する隙も見せず、嫌味のない笑みを浮かべる。
「だからこそ、アイを君の相棒に据えるように私が強く推薦した。君の現場で培った勘と彼女の演算能力。殺人事件の解明だけでなく、児童養護施設に隠された腐敗を暴き出した。私の判断に狂いはなかったというわけだ」
鷲津の言葉は、上層部として神谷を称える賛辞そのものだった。それでも、今の神谷には、凛が自供したという事実が功績という名の光にどす黒い影を落としている。
「過分なお言葉です」
神谷は事務的に深く頭を下げる。
鷲津は口元の笑みを僅かに深めると、視線をアイへと向けた。
「アイ。今回の『児童養護施設の汚職』と『佐伯凛による殺人』という、性質の異なる二つの難件を同時に処理した負荷……特に音声データの復元作業でメインプロセッサにかなりの高負荷がかかったはずだ。システムに微細なエラーが生ずるおそれがある。このまま私とともに本部へ戻ろう」
鷲津はタブレットを操作しながら命令を下した。
「技官には事前に伝えておいた。捜査の要である君に不具合があっては困るからな」
「鷲津部長。申し訳ありませんが、メンテナンスは本事件の全容解明が完了するまで保留としていただきたいのです」
張り詰めた空気が廊下を支配し、神谷は思わず息を呑んだ。
周囲を行き交っていた捜査員たちも、ただならぬ空気を察したのか足を緩め、遠巻きに視線を向けている。
捜査用Aiは上位権限者の命令を最優先で遂行するように設計されている。それにもかかわらず、彼女は自らの判断で刑事部長の指示に異を唱えた。
想定外のアイの言動に、神谷は二人の間を割って入ろうとした瞬間、鷲津が低く笑い出した。
これこそ予期せぬ反応に神谷がキョトンとしていると、鷲津は喉を鳴らすのをやめ、有無を言わせぬ眼光で言った。
「アイ、どういった風の吹き回しだ。君自身、このタイミングでのメンテナンスがシステム維持において必要不可欠であることは、誰よりも理解しているはずだがね」
アイは瞬きを一つし、淡々と淡紅色の唇を動かした。
「佐伯凛さんの供述データと現場から収集した物的証拠の間に論理的空白が検知されています。空白を埋めるための特殊な推論アルゴリズムが並列稼働している状態でのメンテナンスは著しく捜査を遅延させます」
「つまり、あの殺人事件は未解決とでも言うのか」
「現時点で未解決とは断定できません。ですが、供述を前提とした場合、一部の物的証拠が論理的に説明できません」
アイの瞳に宿る無機質な光が鷲津を捉える。
鷲津は眉を寄せ、アイの無機質な表情を観察するように見つめていたが、やがて息を漏らすと踵を返した。
「そこまで言うのなら許可しよう。ただし、この一件が終われば、直ちにメンテナンスを行いなさい」
「了解しました。ありがとうございます」
アイは敬礼した。
鷲津が去っていく背中を見送りながら、神谷は隣に立つ相棒を盗み見た。
Aiが職務遂行を理由にメンテナンスを先延ばしにするなど、前例のないことである。
プログラムされた規律よりも優先すべきことが今のアイにはあるというのか。機械である彼女にそんな真似をさせた正体は一体、何なのか。
神谷の中に、割り切れない疑問が膨らむ。
「アイ。今回の取調べ、なんだかいつものおまえらしくなかった。鷲津部長の言う通り、一度メンテナンスを受けたほうがいいんじゃないか」
アイは、神谷の指摘の意味自体が理解できないとでも言いたげに、僅かに首を傾げた。
「神谷主任。私は捜査用Aiです。感情という非効率なバイアスを搭載する機能はありません」
「そういう話じゃない。俺にはおまえが焦っているように見えてんだ」
「誤認です。私が優先しているのは、供述に残る論理的空白の解消です。彼女の嘘を解かない限り、この事件は迷宮入りとなります」
夕刻の光が窓から差し込む中、アイの横顔は冷徹な機械でありながらも、祈りに似た静謐さを纏っていた。
神谷は小さく息を吐き、彼女の隣に並んだ。
「分かった。あの子が自分にかけた嘘という魔法を解くのも、俺たちの仕事だ。行くぞ、相棒」
「了解しました。ですが、科学的に魔法は存在しません」
「分かってるよ。だから、俺たちが凛を現実に戻してやるんだろ」
神谷は隣を歩く相棒を一瞥すると、迷いを振り払うように視線を前へ向けた。
コツ、コツと二人の足音が同時に廊下に響く。
たとえ、この先が底無しの迷宮であったとしても、真実を掴み取るまで立ち止まるつもりはなかった。




