第十八話 代償の微笑
取調室の空気は張り詰め、妙に冷たく感じられた。
感情を演算処理の一部として処理する捜査用Aiのアイと、ビー玉のように滑らかだが奥底に光を寄せ付けない瞳を持つ十七歳の少女、佐伯凛。
神谷は壁に背を預けたまま対峙する二人を見つめていた。胃の底に鉛が沈んだような重苦しさが消えない。
ただ、これから始まるのは、犯人を追い詰めるための取調べではない。
「佐伯凛さん。あなたのお父様、佐伯達也殺害に関する供述を記録します。動機から詳しく話してください」
アイの問いかけはどこまでも淡々としていた。
同情も糾弾も存在しない。ただ「事実」という名の欠片を回収するためだけの装置。
凛は小さく息を吐くと組んでいた指の力をふっと抜いた。長い悪夢からようやく目が覚めたというのか表情は穏やかで、それでいて虚ろな静謐さを湛えていた。
「十年前、お母さんが家を出ていきました。他に好きな人ができたからです。『あんたがいなければ、もっと自由に生きられたのに』と言われたことは何度もありました。だから、お母さんがいなくなった時も驚きませんでした。ああ、やっぱりかと思っただけです。それから、お父さんは私を殴るようになりました」
凛こそアンドロイドと思わしき口調で人生という名の悲劇を平坦と読み聞かせた。
「お父さんにとって、私は八つ当たりの道具でした。学校の先生が痣に気付いて、児童相談所の人たちが助けてくれた時は、やっと終わるんだと思いました。やっと普通の子になれるんだって。でも、逃げた先も地獄でした」
凛が顔を上げ、アイの無機質な双眸を見つめた。
「中学生になって、山崎先生が私に酷いことをするようになりました。『逆らえば別の子に同じことをする。おまえが我慢すればみんなが幸せになれる』って。私は……私のせいで誰かが傷つくのが怖くて、ずっと耐えていました。でも、もう限界で施設を逃げ出しました。今は、この選択を後悔しています」
「後悔――ですか」
「次は咲が同じ目に遭うと思っていたのに……。私は私の幸せのせいで咲を身代わりにした。どうせ帰るところなんてなかったはずなのに……」
死に物狂いで逃げ出した先から、戻る場所もまた底知れぬ泥沼でしかなかった。
彼女の辿った足跡を思えば、救いとなるはずだった手さえ新たな呪縛へと変わっていく。そんな皮肉な現実に、神谷は奥歯を噛み締めることしかできなかった。
「お父さんは何も変わっていませんでした。それどころか『益々あいつに似てきたな。これなら金づるになる』と言って、私を働かせるつもりだったみたいです。それどころか……」
無機質な仮面にひびが入るように、唇が小さく震え、乾ききった瞳の奥に怯えと嫌悪が滲む。
「あの日、お父さんに襲われそうになりました。必死に逃げて、殴られて……気付いたら、お父さんを……」
凛はそこで言葉を失った。膝の上で組まれた指が小さく震える。
数秒の沈黙の後、凛は力なく息を吐いた。
「それで、強盗に襲われたことにすれば、何もかも解放されると思って……。でも、刑事さんに疑われて、もうこれ以上は無理だなって……」
凛はそう言って自嘲気味に口角を上げた。
僅かな笑みが示唆するのは、もはや失うものなど何一つ残っていないという、あまりにも早すぎる諦観だった。
誰かに「もう耐えなくていい」と言ってもらえれば、少しは違ったのかもしれない。
それでも彼女は最後まで全てを一人で抱え込み、自分だけで終わらせようとしていた。おまけに自分のことよりも先に他の子供たちの心配をしていた。
そんな不自然なほどの強さが、彼女が弱音を吐くことさえ許されずに生きてきたことを、痛いほど突きつけていた。
アイは凛の独白を記録し終えると、無機質な指先でタブレットの画面を静かにスクロールした。
「供述を補完します。殺害方法について具体的に説明してください」
「机の上にあったガラスの灰皿で、頭を……」
「何発殴打しましたか」
「……覚えてません。必死だったから」
「その後、凶器の灰皿はどうしましたか?」
「綺麗に拭いて、元の場所に戻しました」
「次に金銭について再聴取します。お父様は闇金業を営んでおり、多額の現金を隠し持っていたことが分かりました。凛さんはご存じでしたか?」
「いえ。お父さんがお金を持っていた感じはありませんでした」
「強盗に見せかけるための現金や財布はどこに隠していますか」
「お金は私が持っています。財布はアパートの近くにある公園の植え込みに捨てました」
「分かりました。財布を捜索させます」
アイが神谷を一瞥する。
神谷は小さく息を吐くと、スマートフォンを把持して、刑事課に直通のダイヤルを鳴らした。二コールで出た若手に指示を飛ばし、返事も待たずに通話を切った。
その間にも、アイの取調べは続いている。
「あなたがお父様の責任で高校に行けていないことを調べて分かりました。日中、お父様の行動で不審なところはありませんでしたか」
「……分かりません。怖くて何も聞けなかったから」
凛は視線を落とすと小さく首を振った。
アイは理解しましたと応じ、タブレットを閉じた。
「佐伯凛さん。今日の取調べは一旦ここまでとしましょう。それに児童養護施設関係者による性的虐待の被害についても、別件で捜査を開始します」
アイは立ち上がり、ドアの傍に立つ神谷に視線を向けた。
「神谷主任。彼女の言葉の裏側に隠された、真実の断片を探しに行きましょう」
淡々とした声音だが、神谷には理解できた。
アイはまだ終わっていないと思っている。
神谷は意を決して凛のそばへ歩み寄り、手錠を強く握り直す。凛は抵抗することなく細い手首を差し出した。冷たい金属音が二人の間に無情な現実を突きつける。慣れた手順のはずなのに、手錠の重みが嫌に増した気がした。
「刑事さん」
凛が消え入るような声で神谷を呼んだ。
「咲を……施設にいる子たちを助けてあげてください。私みたいにもうどこにも行けなくなる前に……」
神谷はただ力強く頷くことしかできなかった。
取調室の扉が開き、待機していた捜査員二人が静かに入室する。凛は促されるまま立ち上がった。手錠をかけられた両手を胸元に寄せ、一度だけ神谷へ視線を向ける。その瞳には恐怖も未練もなく、ただ深い疲労だけが滲んでいた。
凛は捜査員に挟まれるようにして歩き出す。扉の閉じる音が取調室に長く尾を引いた。
静寂が戻った取調室で、アイはまだ起動したままのタブレットを凝視していた。
アイは感情を持たない。だからこそ、人間なら見落とす供述の綻びを見逃さない。タブレットに並ぶ供述記録を無言で見つめながら、アイは次の捜査工程を組み立てていく。
タブレットの記録は自供によって完成したかに見えるが、アイの演算はなお一つの結論を拒絶していた。
佐伯凛の言葉だけでは説明できない空白が、まだ残されていたからだ。




