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正しさの証明  作者: 虚名
第二章 正しさの在処
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第十七話 絶望の連鎖

「妄言だ。証拠があるのか!」

 山崎が激しく机を叩いた。ティーカップが音を立てて跳ね、絨毯に茶褐色の染みが広がっていく。

 アイは冷徹な眼差しで彼を凝視し、手元のタブレットを彼の方へと向けた。

「音声データの一部を復元しました。指向性マイクのノイズキャンセル機能を利用し、居室の扉越しに漏れた音域を増幅させました。まずは二日――あなたの面接時に集音マイクが拾った音です」

 アイが再生ボタンを押すと、スピーカーからノイズ混じりの音声が流れ出した。

 流れてきたのは、神谷すら耳を塞ぎたくなるような絶望の音声記録だった。

 震える声でやめてと乞う少女の拒絶。衣擦れや何かがぶつかる鈍い音。そして、山崎の粘着質で慈愛を装った囁き声と獲物を追い詰める獣の湿り気を帯びた吐息。

 山崎の顔から偽善に満ちた柔和な表情が消え、脂汗が額に浮き出した。

「山崎施設長。あなたの心拍数は現在一三〇を超えていて、呼吸は浅く、末梢血管の収縮で指先が白くなっています。瞳孔も散大しているようですね。典型的な恐怖反応――あるいは、ここから逃げ出したいという欲求の表れです」

 アイは椅子から立ち上がり、逃げ場を塞ぐ勢いで山崎を見下ろした。

 双眸には、無機質な計算機としての光ではなく、深い淵のような静かな怒りが宿っているように見えた。

 施設のシステムログ。見守りセンサーの記録。そして、復元された音声データ。どれも今日この場で入手できるものではない。

 アイは凛の供述の矛盾を追う一方で、彼女の嘘の真意に隠されていた施設そのものを調べ上げていたのだ。

 正直なところ、神谷はアイが凛を追い詰めることしか考えていないと思っていた。だが、彼女は最初から凛だけでなく、凛を取り巻く環境そのものを疑っていた。

 人の痛みなど理解できないはずの人工知能が誰よりも執拗に彼女の人生を調べ上げていた事実に、神谷は複雑な感心を覚えた。

 アイは椅子から立ち上がり、逃げ場を塞ぐ勢いで山崎を見下ろした。

「施設の子供たちは、あなたの夜の訪問を『魔法』と呼んで怯えていました。凛さんは悪いことをしたから魔法にかかった。言うことを聞かないと魔法で消えてしまう――と。あなたは子供を守るべき聖職者の衣を纏いながら、其の実、幼い魂を食らう怪物です。排されるべき害悪に他なりません」

 アイは論理的でありながら鋭利な刃物のように、山崎の自尊心をも削り取る。

「人間がどれほど精緻に記録を書き換えようとも、データは嘘をつきません。客観的証拠は私が隅々から一滴残らず吸い上げ、あなたの逃げ道を完全に封鎖します」

 山崎は崩れるように椅子に深く沈み込んだ。

 眼鏡がずれ落ち、清潔感に満ちた聖職者の面影はどこにもない。

 神谷は奥歯を軋ませた。胸の奥から湧き上がる嫌悪感を抑えるだけで精一杯だった。聖職者の皮を被った腐れ野郎の面をこれ以上見ていれば、刑事としての理性を失いかねない。

「神谷主任、右手の筋肉に強い緊張が見られます。暴力による解決は事件解決のコストを悪化させるだけです」

「分かってる。こんな奴、殴る価値もない」

 神谷は自身の頬を強く一度叩き、沸騰しそうな頭を強引に冷やした。

「アイ、後は任せた。俺は課長に報告と応援を求める」

 神谷は吐き捨てるように言い残し、荒々しく施設長室を後にした。

 建物の外へ出ると、突き抜けるような青空から吹き下ろす昼前の風がほてる頬を冷やしてくれた。

 神谷はポケットからスマートフォンを取り出し、黒崎に電話する。三回目のコールの後、機械的な電子音が途切れると同時に、黒崎が電話に出た。

「課長、神谷です。現在、佐伯凛が入居していた児童養護施設にいますが、施設長の山崎による彼女への不同意性交が浮上しました。音声データによる裏付けも取れています。過去に入院した他の児童についても同様の被害を受けていた可能性が極めて高いです。至急、応援願います」

「分かった。すぐに手配する。おまえたちは直ちに本署に戻ってくれ」

 黒崎の声は、心なしか重く、焦燥感を帯びていた。受話器越しに伝わる異様な気配に、神谷は思わず足を止める。

「課長、何かありましたか?」

 数秒の沈黙。電話越しに小さく息を吐く音が聞こえた。

「佐伯凛が父親の殺害を自供した」

 周囲の音が消え、視界がぐにゃりと歪んだ。

 そんなはずはない。凛は加害者ではなく、守られるべき被害者だったはずだ。山崎に蹂躙され、尊厳を踏みにじられ続けてきた少女がようやく逃れたと思った矢先、行き着いた先に待っていたのは父親殺しの容疑だった。どれほど過酷な運命を背負わせれば気が済むのか。

 あまりにも救いのない現実に、神谷は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締める。

「戻り次第、佐伯凛の取調べに当たれ。真実を暴くにはアイの演算能力と観察眼が必要だ。頼んだぞ」

 黒崎が電話を切った後も、神谷は受話器を耳に当てたまま立ち尽くしていた。

 遠くから聞こえてくる子供たちの笑い声があまりにも残酷に響く。

 神谷は重い足取りで、再び施設長室へと戻った。

 室内では山崎が魂の抜けた殻のように椅子でうなだれていた。傍らに立つアイは神谷の蒼白な表情を認めるなり、事態の急変を察したのか、目を微かに細めた。

 神谷は無言でアイを手招きした。山崎から離れたドア付近まで彼女を誘導すると、聞かれないよう声を落とす。

「凛が、やったらしい」

 父親殺害を自供したという知らせを、神谷は重い口調で伝えた。

「計算外です。これまでの状況証拠と彼女の心理プロファイルから推察される行動原理からすれば著しく整合性が欠けます。それに、過去の境遇や聴取時のバイタルを照合し、凛さんに殺害を実行するだけの能動的なエネルギーは残っていません」

 アイはどこまでも論理的だったが、今の神谷にはそれすら空虚な慰めにしか聞こえなかった。

「アイ、彼女は自供したんだ。これ以上の証拠なんて、もう……」

「いいえ。人間は嘘をつきます。それが自己防衛であれ、誰かを守るためであれ。凛さんの供述には複数の矛盾と空白が存在します。それらが説明されない限り、私は彼女の自供を事実とは認定できません」

 アイの言葉は正しい。だが、正しさだけで救われるほど、人間は単純ではなかった。

 神谷は力なく壁にもたれかかり、右手で顔を覆い、深く溜息を吐き出した。

 応援の捜査員が到着すると、現場の喧騒を背に、神谷は陽光に照らされながら底知れぬ闇を孕んだ施設を重い足取りで後にした。

 眩い光が中庭を白く焼き、建物の影が鋭いコントラストを描き出している。

 一方で、何も知らない子供たちが平穏が続いていると信じて疑わない無邪気さで高く笑い続けていた。

「アイ。まだ、終わってないよな」

 神谷は隣を歩く相棒に呟いた。

 アイは前を見据えたまま、一度だけ深く頷いた。

「無論です。真実という解に辿り着くまで、演算を止めることはありません」

 二人の影が白く焼けたアスファルトの上に長く、黒々と伸びていく。

 突き抜けるような青空の下、神谷は喉の奥に苦い後味を感じながら、真実という名の出口の見えない迷宮へと再び踏み出した。

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