第十六話 冷淡な糾弾
施設長室には、場違いなほどに柔らかなクラシック音楽が流れていた。
窓から差し込む午後の陽光が、壁に並んだ教育書やボランティア活動の表彰状を穏やかに照らしている。
「驚きましたよ。まさか、あんな出来事が起きるなんて……」
施設長の山崎はティーカップをソーサーに戻した。
眼鏡の奥で目尻が僅かながらに下がる。白シャツは糊が利いており、皺ひとつないスラックスにも几帳面な性格が滲んでいた。
「佐伯凛さんは、我々にとっても非常に心残りのある子でした。情緒不安定な面があり、先月『家族が恋しい』と書き置きを残して、施設から消えてしまったのです。自宅には戻っていなくて、私共も必死に探したのですが……」
山崎の滑らかな語り口を聞きながら、神谷はテーブルの下で拳を硬く握り締めていた。
中庭で聞いた少女たちの震える声が反芻される。
神谷は内側から煮え繰り返るような憤怒を刑事としての冷徹な仮面で押し殺し、事務的なトーンで返した。
「佐伯凛さんの失踪当時の状態について詳しく伺いたいので、記録を提示してくれませんか」
「もちろんです。当施設では子供たちの心身のケアを最優先に考え、詳細なログを残しています」
山崎は自信満々に手元のタブレットを操作すると、神谷に提示した。
タブレットの画面には、日付ごとに細かく整理された生活記録が整然と並んでいる。
「見守りセンサー異常なし。睡眠状況は入眠まで約四十分、中途覚醒が一回。夕食は七割摂取で、朝食は完食。精神状態はやや不安傾向あるも会話は成立。面談、二十一時三十分から二十二時十分、担当山崎……」
神谷が読み上げる記録は、どれも適切にケアされている被保護者そのものだった。別日の記録を確認すれば、深夜一時頃の居室内徘徊や不安を訴える凛の様子や「温かい飲料を提供し、落ち着きを確認した」といった対応が克明に記されている。
「見事な健康記録ですね」
神谷は吐き捨てるように言い、隣に立つアイに視線を送った。
整いすぎた完璧な記録が寧ろ作為的な不気味さを放っている。
「それに施設長が直々面談ですか?」
神谷は差し出されたタブレットを覗き込み、眉間に深い皺を刻んだ 。
山崎は穏やかな笑みを崩さなかった。目を細めて神谷を見つめる視線は、相手を気遣うものにも、心の内を探るものにも見えた。
山崎は胸の前で軽く手を重ねると静かに頷いた。
「ええ。佐伯さんは先々月辺りから不眠を訴えていましてね。当直の職員もいますが、彼らも他の児童を看る必要があります。私も彼女のことが気懸かりで、週に一度、夜間に面談を行っていました。体調、食欲、見守りセンサー、すべて異常なしと、刑事さんが先程確認した記録通りです」
「見守りセンサーって、どこまで分かるものですか?」
神谷はタブレットの画面を見返した。
その反応を待っていたかのように、山崎は口元を緩めた。
「当施設が導入している最新システムです」
彼は立ち上がり、得意げに胸を張ると、対面越しのままでタブレット画面をなぞってみせた。
「居室内の動きや睡眠状態、心拍の変動まで記録できるんですよ。子供たちの異変を早期に察知するためのものでしてね。夜間の徘徊や急な体調不良があれば、すぐ職員へ通知が飛ぶ仕組みです」
山崎は商品でも紹介する営業マンと言わんばかりに説明を続ける。
「最新の転倒、離床検知センサーを全室に導入しているのです。体動つまり呼吸や寝返りを記録して、何かあれば即座に駆けつけられるために、事務室のサーバーと連動させています。凛さんは高校生ですが、万が一の自傷や無断外出を懸念し、特別に稼働させていました」
「だが、そこまで監視していても、彼女は施設を出られたわけですね」
神谷の皮肉に、山崎は少しも動じることなく、残念ながらと肩を竦めた。
「その日は日中でしたし、外出許可も出していました。さすがに二十四時間、牢獄のように拘束するわけにはいきませんからね。善意が仇となった形です」
「施設長の面談日は先々月の二日、十一日、二十一日、三十日ですね」
アイは感情の欠落した手つきで山崎が提示したタブレットの画面をスワイプした。彼女の瞳には、情報の海とも言える膨大なデータの奔流が映り込んでいる。
「その時間帯、廊下の防犯カメラの向きが不自然に変わっていますが――」
山崎の微笑みが、僅かに硬直した。
「古い施設ですから機材の不調でしょう。それが何か?」
「故障であれば映像の乱れや断続的なノイズが発生します。ですが、実際はカメラは一定角度でゆっくりと死角側へ移動し、面談終了後に元の位置へ戻されています。これはモーター制御による正常動作。明らかに意図的に操作されています」
アイの視線が、山崎を射抜く。
「あなたの提示した記録を確認すると、既に施設の基幹サーバーから抽出した改竄不可能なデータと齟齬がありますね」
山崎の笑みが一瞬で凍りついた。
頬の筋肉が微かに引き攣り、僅かながら組んでいた指先に力が入っている。
「何を勝手なことを。これは不当なアクセスだ。厳重に抗議させてもらう」
「捜査の一環です。それに管理者からは既に許可を得ていますので、問題ありません」
アイは山崎の抗議を端から一顧だにせず、淡々と支給されたタブレット画面をスクロールしていく。
「では、あなたの記録と実際のデータの不整合を提示します。第一に、中途覚醒と呼吸数の異常です」
アイがタブレットをテーブルの中央に置き、指し示した。
画面に表示されたグラフには、激しく上下する赤い線が描かれている。
「夜間見守りシステムのログを確認しました。あなたが巡回および面談と称して入室した際、凛さんの呼吸数は十五回から三十五回へと急増しています。これは医学的にパニック状態に相当する数値です。彼女は極度の恐怖状態にありました。安眠を確認したという報告書とは明らかに矛盾しています」
「それは、彼女が不眠症でパニックになっていただけだ!」
「それなら記録にその旨記載するはずです」
アイは流れるような動作で次の解析結果を表示させた。無機質な青白い光が無表情な横顔を照らし出す。
「第二に、健康記録と実測値の乖離です。あなたの報告書では、凛さんの食事摂取量は完食もしくは七割摂取で安定している。しかし、医療記録上、彼女の体重はこの一ヶ月で四キログラム減少しています。成長期の高校生が継続的な摂食を行いながら短期間でここまで体重を落とすのは極めて不自然です。あなたの異常なしという報告とは明確に矛盾しています」
指先が画面を叩くたび、山崎の塗り固めた嘘が剥がれ落ちていく。
「第三に、電力消費量と人感センサーの相関です。あなたが凛さんの面談として滞在していた時間帯、廊下のセンサーであなたの出入りを正確に捉えていますが、居室のスマートメーターによれば照明が使用された形跡はありません」
山崎の顔からは血の気が引いていた。
一方で、アイの瞳には感情の波こそないが、逃げ場を塞ぐ鉄の檻を思わせる意志が宿っている。それは機械的な正論以上に、踏みにじられた少女の悲鳴を代弁する、冷たく静かな怒りにさえ感じ取れた。
アイの追撃は止まらない。
「あなたは、暗闇の中で凛さんに対し、何をしていたのですか?」




