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正しさの証明  作者: 虚名
第二章 正しさの在処
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第十五話 聖域の魔法

 凛が入居していた児童福祉施設は最寄駅から車で数十分程度の郊外に位置する。

 蒼天の下、子供たちの歓声が響く。都会の喧騒から切り離された施設内は非現実的なほどの平穏に満ちていた。神谷は手入れの行き届いた花壇と白いペンキのフェンスを瞰下して苦々しく喉を鳴らした。

「外見上の清潔感と運営の実態は必ずしも一致しません。統計上、閉鎖的環境における権力の固定化は高確率でハラスメントを誘発します」

 アイが神谷の足元を追随しながら、精緻な思考回路から導き出された演算結果を述べていった。

 神谷は事件現場のアパートの澱んだ空気と聖域を想起させる施設を脳内で対比させた。

 凛は暴力的な父親から救い出されて辿り着いたはずの場所を捨て、再び地獄へと戻った。それは一体どういった意味を持つのだろうか。刑事としての直感が花の香りに混じり、言葉にできない不気味な臭いを嗅ぎ取っていた。

 中庭に入ると数人の少女たちがブランコの周りに集まっていた。神谷はアイに目配せをすると彼女たちに近付いた。

「お嬢ちゃんたち。ちょっといいかな」

 神谷ができるだけ声を穏やかにして話しかけた。

 少女たちは一様に戦慄を孕んだ眼差しで顔を上げる。その怯えようは単なる大人への人見知りではなさそうだと、神谷は察した。

「児童の心拍数が急上昇。神谷主任、不審者あるいは威圧的対象として認識されています。直ちに表情筋を弛緩させてください」

 アイが淡々と容赦のない指摘を投げかけた。

「失礼だな。これでも精一杯優しくしているつもりなんだ」

 神谷は眉間に寄った皺を指で揉みほぐしながら吐き捨てた。

 正論は時にどんな凶悪犯の言葉よりも自尊心を削ってくる。

「……おじさん、誰?」

 一人の少女がおずおずと訊ねた。

 五、六歳だろうか。凛とはかなり歳が離れている。神谷は屈み込むと彼女と同じ目線になった。

「佐伯凛ちゃんの知り合いだ。彼女のこと、知ってる?」

「知ってる。凛お姉ちゃん、優しかったよ」

 別の少女が揺れていた瞳をふっと輝かせた。

 神谷に警戒していた子供たちは凛の話になるや、ぽつぽつと言葉を漏らしていく。

「寝れないと部屋に来てくれて、本を読んでくれたの」

「ホットケーキを作ってくれた。形は変だったけど、すっごく美味しかったよ」

 彼女たちの語る凛は、孤独な境遇にありながらも、年下の子たちを慈しむ心優しい少女だった。施設内での人間関係への不満はない。寧ろ、凛は他の子供たちにとっての小さな拠り所ですらあったと言える。

 これほど慕われて穏やかな時間を共有していたはずの彼女が、なぜあえて父親の元へ戻ったのか。

 違和感が澱のように溜まっていく。

 神谷は、少女たちの瞳をまっすぐに見つめて、問いを投げかけた。

「そうか。どうして凛お姉ちゃんはここから出ていったのか、心当たりはないか?」

 少女たちは顔を見合わせ、唇を噛んだ

 先程までの穏やかな回想は一瞬のうちに霧散し、彼女たちの顔には幼ながらにも拒絶の影が差していた。

 大人の都合で詮索されることへの警戒か。凛を守るための沈黙か。腫れ物に触るような訊き方では頑なな心の鍵は開かない。かと言って、これ以上強引に踏み込めば完全に心を閉ざされる。彼女たちの防衛本能を切り崩すには一体どんな言葉が必要なのか。神谷が次の一手に躊躇していた時だった。

「私たちは凛さんを助けに来ました」

 神谷の背後から、アイが言葉を継いだ。

「彼女がここを離れる時、本当は言いたかったけど言えなかったこと。それを教えてもらえると、彼女を助けられるかもしれません」

 一切の感情を排した静謐さが僅かに剥がれ落ち、微かな震えを孕んでいる。機械的な声音にほんの一滴だけ注がれた人間らしさが垣間見えた。

 沈黙が流れる中、一人の少女が自分の細い腕を抱きしめるようにして、消え入りそうな声で呟いた。

「凛お姉ちゃん、魔法にかかったの」

 神谷は耳を疑った。

 魔法という現実離れした言葉が出るとは思わなかった反面、どろりとした悪意を察知し、神谷の背筋に冷たいものが走る。

 神谷は喉元まで出かかった最悪の推測を必死に飲み込んだ。逃れようのない嫌な予感が脳裏を過り、胸の奥をじりじりと焼く。

 アイはしゃがみ込み、少女と視線の高さを合わせると、震える小さな手を包み込むように握った。

「魔法というのは、何か不思議なことが起きるおまじないですか? どんな時、誰が使うのか、教えてください」

 少女はアイの手から離れると震えたままの指先で敷地の奥に建つ灰色の居住棟を指差した。

 遠目にも外壁は綺麗に整備されており、窓ガラスも不自然なほど整って見える。だが、その均一さが逆に温度を感じさせなかった。昼間だというのに建物は薄い影を纏い、外の世界を拒もうとする陰鬱さを静かに漂わせている。

 誰かに見咎められることを恐れているように、少女は固く俯いたまま唇を震わせた。

「約束守れなかった子は魔法にかけられるって。夜、みんなが寝てから、山崎先生がお姉ちゃんの部屋に行くの。凛お姉ちゃん、いつも泣いてた。『起きていたら一緒に魔法にかけられるから早く寝なさい』って。私、怖くて、ずっとお布団の中で隠れてた。お姉ちゃんがいなくなった前の日もずっと泣いてたから、魔法のせいでいなくなったって……」

「『魔法にかけられるから早く寝なさい』は、誰が話していたのですか?」

 アイは少女の反応を慎重に観測しながら静かに問いかけた。

 少女は膝を抱える腕にぐっと力を込め、震える声で答えた。

「……咲お姉ちゃん」

「咲さんに会えますか」

 アイの重ねた問いに、少女は力なく首を横に振った。

「会えないよ。咲お姉ちゃんも魔法にかかってお空に飛んでいったの……」

 言い終えた瞬間、堰を切ったように少女の瞳から涙が溢れ出した。小さな拳で必死に目を擦るが、しゃくり上げる声は止まらず、抱えきれない恐怖と悲しみで小さな身体が激しく震えていた。

 呼応するように、周りにいた子供たちの顔も次々と歪んでいく。一人が声を上げて泣き出すと瞬く間に伝染し、中庭には様々な泣き声が響き渡った。

「みんな、どうしたの?」

 建物の影からエプロン姿の若い女性職員が慌てた様子で駆け寄ってきた。

 彼女は泣きじゃくる少女を抱き寄せ、他の子供たちの背を優しく撫でながら、神谷とアイを不審そうに見上げた。

「失礼。✕✕署の神谷だ」

 神谷は警察手帳を提示し、威圧感を与えないために抑えた声で名乗ると、本題に入った。

「ここにいた佐伯凛さんと、この子が話してくれた咲さんについて聞きたい。彼女たちは今どうしている?」

 職員の女性は一瞬躊躇したが、神谷の真剣な眼差しに圧されると、仕方なしに口を開いた。

「佐伯凛さんは先週、無断で施設を退居されました。私たちは引き止めたのですが、急にいなくなってしまって、警察には相談していたはずですが……」

 神谷は表情を変えずに職員の話を聞いていた。

 凛の無断退居や少女たちの怯え方、何より魔法という言葉が施設の歪さを静かに物語っていた。

 職員は泣きじゃくる少女を抱き寄せて一定のリズムで背中を撫でながら、神谷たちを見上げた。

「咲さんは、数日前から体調を崩してしまっていて、指定の病院に入院しています」

「この子ら、魔法と言っていたが、その意味に心当たりは?」

 神谷の問いに女性職員はきょとんとした顔で首を傾げた。

「魔法……ですか。私たちがそういった言葉を使うことはありませんし、子供たちの間での言葉遊びじゃないでしょうか」

「では、山崎という男はどこにいる」

「施設長のことですね。施設長なら事務棟の奥にある事務室にいるはずです」

「分かりました。後程、また詳しく事情を聞くと思いますので」

 職員は疑問符を浮かべたまま、小さく「はい」と応じていた。

 彼女の純粋な戸惑いですら、今の神谷には歪んだ施設に充満する欺瞞の一部であるかのように感じられた。

 子供向けの絵本に出てきそうな言葉が、この施設ではある悍ましい事情を隠蔽するための符丁として使われている。

 逃げ場のない闇の中で震えていた少女たちの絶望を想像し、神谷は内側から燃えたぎる激しい憤りに拳を固く握りしめた。

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