第十四話 冷笑の雨
捜査車両のエンジンが唸りを上げて、アパートの廊下に残った夕闇を振り払う。
助手席では、アイが端末の白い光を浴びながら、被害者のスマートフォンから抜き出した膨大なデータログと、備忘録である手帳の照合を続けていた。デジタルとアナログ。二つの記録が行き交う中、彼女の指がぴたりと止まる。
「佐伯達也の活動記録を抽出しました。殺害の前日、彼は二人の債務者に回収を行っています。合計金額は百万円。いずれも現金での手渡しです」
無機質な報告に、神谷は鼻で息をして、アクセルを強く踏み込んだ。
「なるほどな。タンスに隠していた百万は、債務者から毟り取った現金ってわけか」
神谷は忌々しげに舌打ちをして、視線をフロントガラスの先へ戻した。
フロントガラスを叩く小雨がワイパーに掻き消されていく。夕方から降り始めた雨は次第に強さを増し、濡れたアスファルトに街のネオンが滲んでいた。
アイは表情ひとつ変えず、タブレットに表示された情報を淡々と読み上げた。
「それを確認するために、まずは一人目の聴取対象者の自宅へ向かいましょう。浅倉結人、十九歳。一年前の両親の事故死を境に生活が困窮しています」
「十九で闇金に手ぇ出すとか、終わってんな」
やり場のない苛立ちに駆られて、神谷は吐き捨てるように呟いた。
アイは数秒だけ沈黙した後、静かに補足する。
「彼は事故後、母方の親族に引き取られました。ですが、親の遺産をすべて親族に搾取された挙句、実質的に捨てられています。以降、深夜アルバイトを複数かけ持ちして辛うじて生計を立てていた記録があります」
「追い込まれて、佐伯に捕まったってことか」
「可能性は高いと考えられます」
到着したのは、築四十年は優に超えているであろう、木造のボロアパートだった。
雨水で黒ずんだ外壁。剥き出しの配線。錆びた階段を踏むたびに鉄特有の乾いた軋みを返す。アイは手すりの錆が袖に触れないように距離を保ちながら、目的の部屋番号を確認した。ドアプレートは半分ひしゃげて歪な傾きのまま留まっている。神谷が力を込めてドアを叩くと木造の建具が頼りなく震えた。
暫くして現れたのは、線の細い青年だった。
パーカーのフードを深く被り、何かに怯えるように視線を泳がせている。
「どちらさま……ですか?」
「警察だ。佐伯達也のことで話を聞きたい」
神谷が手帳を見せると、浅倉は目に見えて肩を震わせた。
扉の隙間から見えた六畳ぽっちの部屋は必要最低限の家財道具すら揃っていない。隅に置かれた古びたノートパソコンと積み上げられたカップ麺の空容器が彼の孤独な生活を物語っていた。小さな流し台の上には、いつから放置されているのかも分からないコーヒーカップや、銘柄の違う歯ブラシが数本、包装も解かれないまま置かれていた。
そんな中、不釣り合いな淹れたての香ばしいコーヒーの匂いが微かに部屋の空気を満たしている。
「……あの、佐伯さん、殺されたって本当ですか」
「ああ。あんた、一昨日、彼に金を返しただろ」
浅倉は息を呑み、血の気の引いた顔で激しく首を振った。
「お、俺は殺してませんっ!」
「落ち着け。まだあんたを犯人だと決めつけたわけじゃない」
神谷が低く落ち着いた声で宥めるが、浅倉の怯えは収まらない。彼は細い両肩を抱きながら縋るような視線を二人に向けた。
「信じてください。本当に殺してなんていません。やっとあの人から解放されたのに、なんで俺がわざわざ殴らなきゃいけないんですか!」
「だったら、一昨日のことを正確に話してくれ。あんたは佐伯に金を返した。そうだろ」
神谷の静かな促しに、浅倉は力なく頷いた。
「五十万円、返しに行きました。バイトを三つかけ持ちして、親の遺品も売って、やっと作った金です。佐伯さんがここに来て、『期日中に全て払わなきゃ、次はおまえの臓器を奪ってやる』って……。だから怖くて必死で集めました」
「佐伯さんはそれを受け取った後、どんな様子でしたか」
アイの問いに、浅倉は視線を落とす。
「もう借りるんじゃないぞって、ニヤニヤ笑いながら言ってました。利子代わりに無理矢理持って行かれた親の形見も奪われたままで、返してほしかったけど、もうあの人とは一秒でも長く関わりたくなかったから、何も言えずに帰りました。それだけです」
浅倉が顔を俯きながら答えた。
嘘を吐いている感覚より、強大な暴力からようやく解放された安堵や虚脱に近いものだと、神谷は感じた。
「あいつ、どうだ?」
アパートを出た後、神谷はアイに訊ねた。
彼女は即座に端末をスリープモードにした。
「生体反応に基づけば、強い恐怖心と慢性的な栄養不足が認められますが、攻撃的反応は検出されませんでした。次へ向かいましょう」
二人目の対象は、駅近くの雑居ビルに事務所を構える自営業の男、佐藤健治、四十五歳だった。資金集めで始めたギャンブルで膨らんだ借金を返すため、佐伯から五十万を工面していたという。
狭い事務所には煙草の臭いが充満し、机の上には競馬新聞と空き缶が散乱していた。灰皿代わりにされたビールの空き缶からは限界まで押し込まれた吸い殻の煙が細く立ち上っている。壁紙は長年吸われ続けたヤニで完全に黄ばみ、隅に置かれた家庭用の小さな冷蔵庫からは不快な重低音が絶え間なく響いていた。その上には埃を被った招き猫がすべてを諦めたような顔で佇んでいる。
佐藤は弛んだ巨体をパイプ椅子に沈め、黄色く濁った凶暴な目で神谷たちを睨むと、ふてぶてしく煙草を燻らせながら答えた。
「ああ、払ったよ。これでようやくあのクソ野郎と縁が切れると思って、清々したところだ」
「佐伯が自宅で殺されたが、何か心当たりはないか」
神谷が鋭い視線を投げると、佐藤は煙を吐き出し、歪な笑みを浮かべた。
「ああ。ニュースでやってたな。強盗だろ? あいつだったのか。確かに殺されても仕方ないくらいろくでもない野郎だったからな。正直、ざまあみろって気分だ」
吐き捨てるような言葉だが、怯えも怒りもない。
あるのは、長年積もった嫌悪を隠そうともしない、乾いた嘲笑だけだった。
「佐伯さんはそれを受け取った後、どんな様子でしたか」
同じく訊ねるアイに、佐藤は鼻で笑って新しい煙草に火をつけた。
「どんな様子もクソもあるかよ。本当に額面通りあるんだろうなってネチネチ抜かしやがった挙句、汚ねえ手で俺の肩を叩いて、『またいつでも頼ってこい。おまえみたいなカモは大歓迎だ』ってよ。ヘドが出る笑い方だったぜ。あれが最期になるならもっと拝んでやったのにな」
神谷は数秒だけ佐藤を見据えた後、何も言わずに踵を返した。
アイも無言のまま後に続く。古びたアパートの階段を降り、湿った外気の中を駐車場まで戻る間も二人の間に会話はなかった。
車内はエンジンすらかけないまま静まり返り、フロントガラス越しの曇天が重く滲んで見えていた。
雨粒だけが、一定のリズムで車体を叩いている。まるで街全体が『佐伯達也』という男の死を冷たく瞰下しているようだった。
殺されても仕方ない。佐藤の吐き捨てるような声が、なおも耳の奥に残っている。
佐伯が腐った人間だったのは事実だ。
弱者の困窮に付け込み、怯える姿を娯楽にするような男。挙句の果てには、実の娘に暴行するという、人として踏み越えてはならない一線すらも越えていた。それを思えば、彼が誰かに命を狙われるのは、必然だったのかもしれない。
だが、果たしてそうなのか。
たとえどんな悪人であっても、殺されていいという道理がまかり通っていいはずがない。
フロントガラスを叩く雨脚が強まる。街灯の光を乱反射させながら、雨筋が線となって流れ落ちていく。
ふと、脳裏にある古い記憶が蘇り、神谷は歯を食い縛ると湿った前髪を掻き上げた。
「分析を終了します」
暗闇の中、アイがようやく口を開いた。
「債務者二人の供述やアリバイから、彼らが実行犯である確率は三%以下です。犯行の論理的整合性からも矛盾が生じます」
「矛盾?」
「はい。犯人が浅倉や佐藤であれば、殺害後に室内を物色し、自身が支払った五十万円あるいは合計百万円を回収するはずです」
アイの淡々とした指摘に、神谷は苦い記憶を反芻し、頷いた。
佐伯の部屋を捜索した際、タンスの二重底から発見した百万円の札束や、一番下の引き出しの奥に押し込められていた腕時計。佐伯には不釣り合いだと感じた時計こそが、利子代わりに無理矢理持って行かれたと、浅倉が血の気の引いた顔で訴えていた、親の形見だろう。
もし二人のどちらかが犯人なら、命を削るようにして集めた大金はもちろん、タンスの奥に眠る大切な形見の品泥棒の真似事をして隠し場所を暴く余裕がなかったとしても、現にそれらは手付かずのまま現場に残されていた。
浅倉が犯人なら、強盗と見せかけてタンスを荒らす時に見つけるはずの腕時計を取り返さずに立ち去るはずがない。
逆に佐藤が犯人であれば、必死の思いで工面して引き渡したばかりの五十万円だけは意地でも部屋中をひっくり返して奪い返していったはずだ。
規則的に流れていく街灯の光が、助手席に座る彼女の横顔を白く照らしては消える。
浅倉の震える指先。佐藤のふてぶてしい煙草の煙。
二人の債務者を思い返すが、アイの言う通り、彼らが百万円もの大金を残して逃げ去る姿はどうにも想像できなかった。
何より、現場に残された不純な金こそ、物取りの犯行ではないことを冷酷に物語っている。
神谷は赤信号で減速しながら、バックミラーを一瞥した。
「アイ、佐伯凛が暮らしていた痕跡を洗うぞ。あの子はただ地獄に戻ったわけではないと思う。何か裏があるはずだ」
どうせ「客観的根拠に乏しい推論です」と切り捨てられるだろうと、神谷は身構えたが、返ってきたのは予想外の肯定だった。
「了解しました。佐伯凛がいた児童福祉施設の精査に移ります。明日、施設長及び関係職員へのアポイントメントを最優先で取得します」
アイの宣言とともに、捜査車両を夜の深淵へと加速させた。




