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正しさの証明  作者: 虚名
2/7

第一話 空席の相棒


今日も、丸一日待機だと思っていた。


神谷は寝癖がついたままの髪を掻きむしりながら、机の上に積まれた書類に手を伸ばした。


付箋が何枚も貼られている報告書を捲る。付箋の文字は神谷自身が記載したものだった。

自分が書いた訂正箇所をやり直すなんてと苦笑しながらも、報告書を訂正する者がいなくなった以上自分でやるしかないと、ノートパソコンを立ち上げる。


蛍光灯の白い光が机上を灯す。開きっぱなしのファイルや積み重ねられた書類、残ったままの未了事件。どれもこれも神谷一人で片付けられる量ではない。


神谷の心中を代弁するかのように、誰かが舌打ちする音がした。


「おい。アレの供述そのまま書くなって言っただろ」


「ですが……」


「アレを真に受けるな。しまいにおまえも食われるぞ」


抑えた声が飛び交う中、隣の机から電話の呼び出し音が鳴った。神谷が取るべきだが、思わず身体が硬直した。三コール目でようやく誰かが受話器を上げた。


「はい。刑事課です」


聞き慣れた同僚の声なのに、やはり慣れない。


キーボードに指を置いたまま手を止めた。

思わず視線が隣に行く。隣の机は綺麗に整頓されており、椅子の背もたれに引っかかっていた上着もない。


先週、相棒が辞職した。

唐突な出来事だった。思えば相棒として何かしてやればよかった。いや、あの状態で何ができたのか。彼にとっても、警察組織にとっても、これこそ最善な結果だったのかもしれない。


「……なんて綺麗事だな」


神谷は独りごち、視線を戻した。


書類を確認しながらキーボードを叩く。訂正すべき箇所は分かっているはずなのに、上手く言葉が繋がらない。文字を打っては消していく。何も進んでいない癖に奏でるようなタップ音に嫌気が差す。


奴ならあっという間に仕上げるのにな。


神谷は背もたれに体を預けて天井を見上げた。無音のオフィスにかつてのやりとりが幻聴のように蘇る。


「主任、ここはどう直せばいいですか」


遠慮がちな声に、神谷は横から覗き込んで指摘をする。


「誰がどうしたか分かんねえと報告書にならねえ。順番逆だし、つうかこれ、今必要ねえだろ」


淡々と指示すれば、あとは彼が直していく。


書類は作るものではなく、正すもの。少なくとも、神谷にとってはそうだった。

だが、相棒がいなくなった以上、正すのも作るのも神谷一人で行うしかない。


「……めんどくせえ」


吐き捨てるように言って、神谷は顔を覆うように目を閉じた。


「神谷」


名を呼ばれ、神谷は咄嗟に目を開けた。

背後で人影が見える。声と体格からしてすぐに分かった。


「黒崎課長」


黒崎恒一郎は腕を組み、大きな図体を気だるげに支えていた。

神谷は椅子ごと黒崎の方へと向け、眉を顰める。


「……なんすか」


「手ぇ空いてるだろ」


「そりゃあ、まあ……」


神谷は隣の方へと視線を向けようとして、咄嗟に目を反らした。


それに勘付いたか、黒崎は口元を緩めて神谷の肩を二度叩いた。


「おまえも暇を持て余しているだろうからな。新件、任せたよ」


神谷は目を丸くした。


「課長。お言葉ですが、俺は今……」


「ああ。捜査行動基準法第三条か」


捜査行動基準法第三条『判断の偏り及びリスクの最小化のため、捜査員は二名以上で行動するものとする』


神谷にとって、数年前から制定された法律に身を切られる思いだが、あえて平常心を装って反論した。


「それなら、俺は捜査権がないのと等しいですよ」


「神谷は相棒運が悪いからな」


黒崎は白い歯を剥き出して、淡々と心の奥を抉るようなことを言ってきた。


この野郎。上司でなければぶん殴ってやるのにと思ったが、柔道家特有の潰れている耳を見る限り、千切っては投げられるだけだと察し、拳を下ろした。


「そうですね。この法律のおかげで無能ですよ」


「それなら有能な相棒とバディを組めばいい」


「相棒……すか」


正直なところ、たった数日で新たな相棒と仕事をする気にはなれない。


とはいえ、給料を貰っている以上、何日も呆然と事務作業しているわけにもいかない。


まだ気持ちの整理がついていない。

まだ代わりなんていらない。


そんな甘っちょろいことを言っていられる歳でもない。


分かっているが、今の神谷には即答できる余裕もなかった。


かくいう黒崎は知ったこっちゃないと踵を返して自席へと戻りながら説明を続ける。


「安心しろ。今回のは、これまでみたいなヘマはしない。そろそろ来る頃だ」


「来るって……」


言いかけたところで、入口の扉が開いた。


室内の空気が止まる。コツ、コツ、コツと一定の間隔で足音がして、捜査員の視線がそちらへ流れる。神谷もつられて顔を向けた。


若い女が室内に入り、立ち止まる。


整った顔立ちだった。

だが、それ以上に無駄のない立ち姿が目についた。

視線も呼吸も揺れがなく、ただ立っているだけなのに、静かに押し潰されるような感覚があった。


視線が合う。彼女は一拍遅れて敬礼した。


「本日付で配属されました。よろしくお願いします」


神谷は返事を忘れたまま立ち尽くす。


この出会いが、正しさの意味を揺るがしていくことを、神谷はまだ知らなかった。

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