序章
現場には温度が残ったままだった。
錆びた鉄の湿った臭気。嗅ぎ慣れているはずなのに、妙に重く、息をするたびに肋骨がじわりと軋む。
神谷悠真は、扉の前で足を止めたまま、奥を見据えた。
蛍光灯の光の下、床に広がった赤が鈍く弾いている。引きずられた血の跡。壁にまで届いた血飛沫がこの場の惨劇を突きつけてくる。
喉の奥がひくつき、無意識に息が浅くなる。
一歩踏み込めば、もう引き返せない。
分かっているはずなのに、視線は自ずと奥へ吸い寄せられていく。
ピシャリ――。
血の残滓が足元に重くまとわりつく。もう引き返せない。絡みついた感触が現実からの逃避を許さない。
視線の先には人影があった。見慣れた容貌である反面、目前の彼が神谷の知る彼であることを否定しようとしていた。
「……おい」
思ったよりも声が低く出た。
反応はない。
神谷は更に歩みを踏み出した。足音がやけに響き、靴底にぬめりが返る。
彼は、背を向けたまま、微動だにしなかった。
こちらの気配を察する距離のはずなのに振り向かない。その不自然さが却って現実味を削いでいく。
本当に、あいつ……なのか。
華奢な肩幅も右足を重心にする立ち姿も見慣れているはずなのに、別のものだと思った。
それでも、接近するにつれて、輪郭がはっきりと見える。
やがて、視界の端で遮断していたものが、否応なく引きずり出されていく。
彼の足元で倒れている人。
仰向けに倒れたまま動かない。顔の判別もつかない。血に濡れているせいなのか、影なのか、境界が曖昧だった。
ただ、一つだけ解っている。
「……何、してんだよ」
何をしているかなんて、見れば分かる。
だが、どうしても口から正確な言葉が出てこなかった。
認めたくなんてなかった。
目の前に立っているのは、同じ現場を踏んできた相棒である。
神谷とは違って感情に流されるタイプでもない。寧ろ、誰よりも一歩引いた状態で物事を判断し、誰よりも法に則ってきた刑事だった。
だからこそ、目の前の光景が現実として噛み合わない。
そう思い込もうとするほど、足元の現実だけが歪まずに残り続ける。
相棒の肩が僅かに動いた。
振り向く。顔が見える。呼吸も乱れていない。いつも通りの面立ち。
いや、目だけが違っていた。
焦点が合っていないわけではない。気が狂っている様子でもない。寧ろ、迷いも躊躇も削ぎ落とされて一つの結論に辿り着いたと言わんばかりの静けさを宿していた。
「先輩」
聞き慣れた声が濡れた室内に響き渡る。
神谷は何も答えられなかった。
目の前の現実をどう扱えばいいのか、その手順すら思い出せない。
相棒は神谷を一瞥したあと、ゆっくりと視線を落とした。
右手には拳銃が握られている。
彼の足元で倒れている相手の致命傷となったものか。いや、骨格の形すら歪んで見えるほどに損壊して原型を保っていない以上、何度も執拗に顔を叩き潰されたことが認められた。
相棒は小さく口元を歪めた。
「あんな法律、必要だったのでしょうか」
ぽつりと落とされた言葉に射抜かれる。
神谷は何も言えない。
相棒は倒れている者を一瞥し、続けた。
「再現性ばかりを優先して、結局、大切な人を守れなかったのに……」
声音に怒りはなかった。
悲しみも、悔しさもない。
いつものように、神谷へ判断を委ねる時と同じ温度だった。
だからこそ、神谷の中で現実との整合が取れなかった。
「先輩、………………」
何も整理できないまま、現実だけが一方的に進んでいく。
把持した拳銃が持ち上がる。神谷の身体が遅れて反応する。
「やめ……」
次の瞬間、破裂音が室内を引き裂いた。
相棒の身体が糸の切れたように崩れた。
一層濃くなった血の臭いに、焦げたような火薬臭が混ざる。
足が動かない。動けない。駆け寄ればすぐに届くはずの距離がやけに遠く感じる。
倒れた身体はもう微動だにしなかった。さっきまで立って意思を示していた相棒がただの肉塊に変わっていく。
何もできなかったという事実だけが胸の奥に沈み込んでいった。
そして、相棒が最期に放った言葉だけが、何度も耳の奥で反芻した。
「正義って……何でしょうね」




