笑っている二人
最初のページを開いた。
桜並木を背景に、私と女が並んでいた。
女が私の腕を取り、顔を寄せている。私も笑っていた。
「これ、私ですよね」
「そうですね」
「あなたも写ってます」
「ええ」
奇妙な会話だった。
写真の下には日付が書かれている。二年前の春だった。
私はその日を覚えていた。
休日に公園へ行き、花見客の多さにうんざりした。屋台で焼きそばを買ったことも覚えている。風が強く、桜の花びらが食べ物に落ちてきた。
「私、ここへ行きました」
女が言った。
「私もです」
「焼きそばを食べたんです。風が強くて」
私たちはまた顔を見合わせた。
二人とも、その日は一人で公園へ行ったと記憶していた。
なのに写真の中では、互いの肩を抱き合っていた。
次のページは海だった。
女が砂浜に座り、私がその背後にしゃがんでいる。
次は誕生日。ろうそくの立ったケーキを挟んで、二人が笑っていた。
温泉旅行、遊園地、紅葉の山道。
私にも女にも、写真の場所へ行った記憶があった。ただし、すべて一人だった。
「私たち、本当に付き合ってたんでしょうか」
女の声は少し明るくなっていた。
「そうみたいですね」
「何だか変ですね。知らない人と恋人だったなんて」
女は笑った。
私もつられて笑った。
さっきまで互いを侵入者だと思っていたのに、写真を見ているうちに警戒心が薄れていった。私たちは同じ場所へ行き、同じものを食べ、同じ景色を見ていた。互いを覚えていないことの方が、おかしいのかもしれなかった。
女はアルバムを膝に載せ、ページをめくり続けた。
写真が新しくなるにつれ、写っている空が少なくなった。海や山の代わりに、同じ食卓、同じソファ、同じ壁紙が繰り返される。二人とも笑っているが、身体を寄せ合っていた以前の写真と違い、近頃のものでは肩と肩の間にわずかな隙間があった。
「だんだん出かけなくなったみたいですね」
「仕事が忙しかったのかもしれません」
私がそう答えると、女はうなずいた。
最後の写真は、この部屋の食卓で撮られていた。私は女の肩を抱き、彼女も私の腰に腕を回している。
「仲良さそうですね」
女はそう言って、写真の端を押さえた。
私もそう思った。これほど親しかった二人が、互いをすっかり忘れてしまうなんてな。
「……?」
私は彼女の肩に置かれた自分の手を見た。指の下で、服の生地が強くよれているのが目についた。
写真を撮るときに、抱き寄せたのだろうか。
写真の背後の壁には、小さな額縁が掛かっていた。
私は振り返った。
今、その壁には何もない。写真と違う。
額縁があったところだけ壁紙の色が違っている。
「ここに何か飾ってあったんですね」
女が顔を上げる。
私は壁に近づいた。
四角い日焼けの跡の内側に、小さな穴があった。白い補修材で埋めてある。その両脇にも、針の先ほどの穴が二つ見えた。
「何があったんでしょうね。覚えてますか?」
「さあ……」
女は壁を見つめていた。
何か言いかけたようだったが、そのまま黙った。
私はアルバムに戻ろうとして、彼女の手が震えていることに気づいた。
「どうしました?」
「分からないんです」
「何が?」
「何となく、ここにいたくない気がして」
女は笑おうとした。
うまく笑えていなかった。
私は気を紛らわせようと、別の引き出しを開けた。
中には手帳が二冊あった。
一冊は黒い革表紙で、もう一冊は薄い赤色だった。
黒い方には私の字で名前が書かれていた。
瀬川直澄。
女も赤い手帳を手に取った。
「水守茉由。これ、私のです」
「茉由さん、ですか」
「はい。瀬川さんですね」
私たちは改めて名乗り合い、少し笑った。
三年も一緒に暮らしていたというのに、名前を知ったのは今が初めてだった。
二人で日付を合わせ、手帳を読み進めた。
最初のうちは、ありふれた生活の記録だった。
買い物、仕事、外食、休日の予定。
私の手帳には、茉由が作った料理がおいしかったことが書いてあった。
茉由の手帳には、私が風邪をひいたとき、一晩中看病したことが書かれていた。
「結構、仲良かったんですね」
茉由が言う。
「そうみたいですね」
その年の秋頃から、文章が変わった。
私の手帳には、謝罪の言葉が増えていた。
『また怒らせてしまった』『どうして同じことを繰り返すんだろう』『今日は謝れなかった』
茉由の手帳にも似た記述があった。
『また傷つけてしまった』『謝ったけれど、許してもらえなかった』『もう何を言えばいいのか分からない』
どちらの手帳にも、相手が何をしたのかは詳しく書かれていなかった。
ただ、謝ったことと、許されなかったことだけが残っていた。
「ずいぶん喧嘩していたみたいですね」
私が言うと、茉由は返事をしなかった。
さらにページをめくった。
ある日の記述が目に留まった。
『ようやく分かってくれた。これからはうまくいく』
それは私の字だった。
同じ日付を茉由の手帳で探した。
『今日は頷いた。そうしないと話が終わらなかった』
私は二つの文章を読み比べた。
「この日は、仲直りしたんでしょうね」
「……『頷いた』とだけ書いてあります」
「ええ。それなら、分かり合えたんじゃないですか」
「何に頷いたのか、分からないんです」
私は黒い手帳を彼女に向けた。
「こちらには、分かってくれたとありますよ」
茉由はしばらく二冊を見比べた。
「次の日も見てみましょう」
彼女は赤い手帳のページをめくった。
*
手帳を読み終え、私たちは別々の場所を調べ始めた。
茉由は台所の棚から割れた皿を見つけた。接着剤で丁寧に修復されている。
私は寝室の衣装ケースから古い携帯電話を見つけた。充電器もなく、電源は入らなかった。
洗面台の下には、古いドアノブが紙袋に入っていた。
根元の金具が歪み、握る部分には細かな傷が幾筋も走っている。
私は玄関を振り返った。
今ついているドアノブは、まだ新しかった。
「何か見つかりました?」
茉由が台所から声をかけてきた。
「古い部品です」
私は紙袋を元の場所に戻した。
別に隠すつもりはなかった。ただ、どういうわけか、彼女に見せたくなかった。
茉由は次第に口数が少なくなった。
私も彼女の動作を目で追うようになっていた。
彼女が突然振り返ると、少し身構えてしまう。
茉由の視線も、私の手が動くたびにそちらへ向いた。
先ほどまで並んでアルバムを見ていたのに、今は自然と距離を取っている。
「少し休みませんか」
私が言った。
「そうですね」
茉由は食卓の向こう側に座った。
私は反対側の椅子を引いた。
そのとき、玄関の錠が回った。




