ハッピー
翌朝。
夏未が起きてリビングへ行くと、明人が本棚の前に立っていた。
「おはよう。朝ごはん、作っておいたよ」
テーブルには、簡単な朝食が並んでいる。
「ありがとう。寝てないの?」
夏未が尋ねると、明人は首を横に振った。
「いや、さっき起きたところ。ちょっと棚を整理したくなって」
見ると、本棚から取り出された物が、テーブルの端に山積みになっていた。
夏未は、その中に見覚えのある箱を見つけた。
「あ、これ」
結婚式のアルバムや、撮影したDVDが入っている豪華な箱だった。
「懐かしいね」
「うん」
明人は箱を手に取り、少しだけ笑った。
「何十万もしたのに、結局ほとんど見ないんだよな」
「まあ、そんなもんよね」
夏未は朝食を食べながら、何気なく答えた。
本棚には、そこそこ広い空間ができていた。
明人はその場所を指さした。
「ここに、陽介のものを置けるようにしたから」
「いいと思う」
夏未は頷いた。
明人は満足そうに本棚を眺めたあと、結婚式の箱を部屋の隅へ置いた。
丁寧にしまわれていた箱は、床の上に無造作に転がされた。
◇
数日後
工房から戻った明人は、夕食の準備をしている夏未に声をかけた。
「あのさ、お願いがあるんだけど」
明人はそう言って、夏未の前で両手を合わせた。
夏未が包丁を止め、振り返る。
「どうしたの、急に」
「実は、犬が欲しいんだ」
「犬?」
夏未は思わず聞き返した。
「俺さ、子どもの頃、何度頼んでも飼ってもらえなくて」
明人は少し照れたように笑った。
「ずっと、大人になったら飼いたいって思ってたんだ」
夏未は困ったように手元へ視線を落とした。
「飼うのはいいけど、陽介の世話もあるし……」
「大丈夫。犬の世話は全部俺がやるから」
明人はすぐに答えた。
「陽介のことも、今まで以上にちゃんと見るよ」
あまりの熱意に、夏未はそれ以上反対できなかった。
「まあ……明人がちゃんと世話するなら、いいけど」
「本当に?」
明人の顔が明るくなる。
「ありがとう。じゃあ、さっそく明日行ってくるね」
「明日?」
夏未が目を丸くする。
「実はもう、引き取りたい子が決まってるんだ」
「もう決めてるの?」
「長野のブリーダーさんのところにいるんだ。たぶん、往復で一日かかると思う」
夏未はしばらく明人を見た。
相談されたと思っていたが、話はすでにほとんど決まっていたらしい。
「……分かった」
夏未は、不思議そうに答えた。
◇
翌朝。
まだ日が昇ったばかりの時間に、明人は車で家を出ていった。
帰ってきたのは夜の十時を過ぎた頃だった。
「ただいまー」
家の外から、明人の声が聞こえた。
夏未は陽介を抱きかかえたまま、玄関を出た。
明人の服は、ところどころ泥で汚れていた。
「どうしたの、それ?」
「いや、すごくやんちゃな子でさ。連れてくるのに一苦労だったよ」
「犬は?」
「こっち、こっち」
明人に案内され、夏未は家の脇へ回った。
そして、目を見開いた。
そこには、縄のように太いリードにつながれた大型のシベリアンハスキーがいた。
想像していたより、はるかに大きな成犬だった。
「嘘……小型犬じゃないの?」
「うん。俺、ずっとハスキーが飼いたかったんだ」
明人は嬉しそうに犬を見た。
「名前はハッピーっていうんだ」
夏未は何も言えず、立ち尽くした。
明人がハッピーの首元を撫でようと手を伸ばす。
「ウォン! ウォン!」
ハッピーが激しく吠えた。
夏未は陽介を抱いたまま、反射的に一歩後ろへ下がった。
「ちょっと待って。そんな大きな犬、無理よ」
明人は不満そうに眉をひそめた。
「大丈夫だよ。テレビで赤ちゃんと一緒に暮らしてるハスキー、見たことあるから」
「馬鹿なこと言わないで。陽介に何かあったら、どうするつもりなの?」
夏未が声を上げる。
腕の中の陽介も、驚いたように身体を固くしていた。
明人は深いため息をついた。
「分かったよ」
面倒そうに答える。
「じゃあ、工房で飼う」
「それなら文句ないだろ?」
明人は太いリードをつかみ、不機嫌そうに犬を連れていった。
湖畔の道を、工房へ向かって歩く。
途中、明人は足を止め、ハッピーの頭をゆっくり撫でた。
「これから、楽しくなるぞ」
明人は静かに笑った。
「なあ、ハッピー」




