浮気記念日
翌朝。
「おはよう」
「おはよう」
キッチンで、いつもと同じように挨拶を交わした。
しかし、明人は夏未の顔をまともに見ることができなかった。
どうしていいのか分からない。
ただ、普通にしようと思った。
今までと同じように。
明人はキッチンに立ち、昼食用のサンドイッチを作る。
背後から、夏未が話しかけてきた。
「今日、陽介を一時保育に預けて、買い出しに行ってくるね」
少し明るい声に聞こえた。
振り向かずに答えた。
「分かった」
工房までは、歩いて五分ほどかかる。
湖に沿った道を、一人で歩いた。
さっきの自分の態度は、少し冷たかっただろうか。
そんなことを考えた。
けれど、怒鳴らなかったし、責めもしなかった。
今の明人には、それだけでも精いっぱいの対応だった。
工房に着き、椅子に座った。
机の上に図面を広げ、鉛筆を握る。
けれど、一本も線を引けなかった。
頭を使おうとすると、夏未のことばかりが浮かんでくる。
昨夜、あれだけのことがあった。
それなのに、どうしてあんなに普通の声を出せるのだろう。
それとも自分と同じ様に無理してくれてるのだろうか。
深いため息をつく。
製図は諦めた。
代わりに、床下にある地下倉庫を片付けることにした。
何も考えずに身体を動かしていたかった。
夕方になった。
スマホに通知が届く。
夏未からだった。
『ご飯、できたよ』
ため息をつく。正直、帰りたくなかった。
けれど、許すと言った以上、帰らないわけにもいかない。
明人にできたのは、少しだけゆっくり歩くことくらいだった。
「ただいま」
無表情のまま家に入る。
夏未が笑顔で迎えてくれた。
「おかえり」
そして明人の腕をつかむ。
「こっち来て」
連れていかれた先には、いつもより豪華な食事が並んでいた。
高そうなステーキ。
ワイングラス。
見たことのない銘柄のボトル。
「どうしたの、これ」
そう聞くと、夏未は少し嬉しそうに笑った。
「美味しそうだったから。前から気になってたブランド牛、買ってみたの」
「あと、ワインも」
「うん。でも、高そうだね」
「たまにはいいでしょ」
夏未は少し照れたように、自分の髪を触った。
「それに、今日はちゃんとメイクしてるんだよ」
明人は固まった。
夏未は、これで機嫌をとっているつもりなのか。
明人は力なく笑った。
食事が始まった。
肉の味など、ほとんど分からなかった。
たとえ美味しくても、美味しいと思いたくなかった。
楽しいとか嬉しいとか感じたくない。
なんなら、もっと酷いことが起きてこの苦しみを忘れたかった。
◇
夏未が風呂に入っている間、陽介を膝に乗せた。
テレビでは、子ども向けのアニメが流れている。
明人は無表情で同じアニメを見つめた。
そして、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「なんで、浮気の告白をお祝いされなきゃいけないんだよ」




