嫌悪感
その夜、明人は車に泊まった。
とても夏未と同じ家にいられる気がしなかった。
ふいに、陽介のことが心配になった。
あの子は今、何も知らずに眠っているのだろう。
しかし、明人は家の中に戻らなかった。
戻る勇気がなかった。
頭の中では、知りたいことと知りたくないことが激しく駆け巡っていた。
心臓が苦しくて、息をするのもつらくなった。
怒りが来ると思っていた。
激しい憎しみが自分を焼き尽くすと思っていた。
しかし、先にやってきたのは、底の見えない寂しさだった。
虚無感に近い、冷たくて重い感覚。
自分だけが、ずっと仲間外れにされていたような——そんな馬鹿げた思いが、胸を締めつける。
まさか自分が浮気されるなるなんて、考えたこともなかった。
それは自分に自信があったからではない。
ただ、夏未がそんなことをする人間だとは、夢にも思っていなかったからだ。
今、夏未のことを好きなのか、嫌いなのか。
それすらはっきりしない。
脳みそが必死に現実から逃げようとしていることだけが、自分でもわかった。
結局、したことといえば、
三十分に一度、車のハンドルを思いっきり叩くことだけだった。
掌が痺れるほど叩いても、何も解決しない。
何も変わらない。ただ痛みだけが残る。
絶望——
明人は、この言葉の意味を、初めて本当の意味で知った。
夜明け前に家へ戻った。
最初に陽介の様子を確認した。
静かな寝息を立てて眠っている。
明人は寝室のドアを少し強めに叩いた。
しばらくして、夏未が出てきた。
まるで宿題を忘れた子どものような顔をしていた。
「…話そうか」
そう言うと、夏未は小さく頷いた。
「あ、あのね、明人」
「なに?」
「私が浮気のことを話したのは、明人とこの先も一緒にいたいと思ったから」
夏未は明人の顔を見た。
「お願いだから、それだけは忘れないで」
明人は目を伏せたまま頷いた。
二人でテーブルを挟んで座った。
長い沈黙が続いた。
「これから、どうしたい?」
吐き捨てるような声になった。
自分でもずるいと思った。
自分が持っていない答えを、夏未に投げただけだった。
「私は……明人が許してくれるなら、今までどおり一緒にいたい」
夏未が小さな声で答えた。
「それって、何も変わらないってこと?」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「そういう意味じゃない。何でもするから、別れないでほしい」
明人は俯いた。
そのときになって、押さえ込んでいたものが一気にあふれた。
涙が一滴、テーブルに落ちた。
夏未は何も言わず、それを見ていた。
「信じるとか、よく分からないよ」
それが、今の正直な気持ちだった。
夏未が席を立ち、明人の腕にしがみついた。
「ごめん。ごめんね」
その声も震えていた。
夏未は罪悪感に耐えられず、浮気を告白した。
言われなければ、一生気づかなかったかもしれない。
もう、夏未の言葉をすべて鵜呑みにしてしまった方が楽なのではないか。
そんな気持ちにすらなった。
「分かったよ」
明人は小さな声で言った。
「本当に?」
「許すよ……」
夏未は強く抱きついてきた。
「ありがとう……本当にごめんなさい」
そして、涙の混じった声で言った。
「明人なら、そう言ってくれるって信じてた」
その瞬間、胸の奥に黒いものが広がった。
「でも、約束して。次はないって」
「うん。絶対にしない」
「それと、もうこの話はしたくない」
夏未は何度も頷いた。
「少し疲れた」
明人は夏未の腕をほどき、シャワーを浴びに行った。
お湯を浴びながら、左腕を何度もこすった。
夏未がさっき抱きついていたところだった。
「おぇ……気持ち悪い」




