夏未の告白
夏未が帰ってきたのは、終電だった。
明人はチャイルドシートに陽介を寝かせ、車で駅まで迎えに行った。
ロータリーで待っていると、改札の方から夏未が歩いてくる。
少し酔っているようだったが、足取りはしっかりしていた。
助手席に乗り込んだ夏未が、シートベルトを締める。
「ごめんね。遅くなって」
「ううん。どうだった?」
「別に…」
明人は車を走らせた。
「その先輩とは、どんな話をしたの?」
「大したことじゃないよ。前の上司がまだ同じこと言ってるとか、誰が結婚したとか。そんな昔話」
夏未は窓の外を見ながら答えた。
「そっか」
「本当に、それだけだからね」
明人は少し笑った。
「分かってるよ。気にしてないって」
夏未は何も答えなかった。
そのまま家に着くまで、会話はほとんどなかった。
◇
深夜。
二人は寝室のベッドに入っていた。
テレビには、内容のよく分からないバラエティ番組が映っている。
夏未は画面を見ているようだった。
けれど、笑うこともなければ、出演者の声に反応することもない。
明人は枕元の時計を見た。
「テレビ、消していい?」
夏未は少し遅れて答えた。
「うん。見てないから消して」
明人はリモコンを取り、テレビを消した。
部屋が急に静かになる。
夏未は、天井を見ていた。
何かがおかしい。
疲れているだけかもしれない。
それでも、いつもの夏未とは違う気がした。
「夏未、どうかした?」
夏未は首を横に振った。
「ううん」
それだけだった。
明人は天井の照明を消し、枕元のランプをつけた。
やわらかな明かりが、夏未の横顔だけを照らす。
そのときだった。
「ねぇ」
夏未が、天井を見たまま話しかけてきた。
「もし私が、浮気してたらどうする?」
明人はすぐには意味が分からなかった。
「えっ?」
聞き返しても、夏未は何も答えない。
明人は身体を起こした。
「今日は、ただの飲み会じゃなかったの?」
夏未はゆっくりと視線を落とした。
その表情を見た瞬間、明人は枕元のランプを消し、部屋の照明をつけた。
白い光が寝室全体に広がる。
明人は真顔で聞く。
「どういうこと?」
夏未はしばらく黙っていた。
それから、消え入りそうな声で言った。
「……今日、ホテルに行ったの」
明人は夏未の顔を見た。
言葉の意味が、頭の中に入ってこない。
エアコンの音だけが、やけに大きく聞こえた。
「どういうこと?」
自分でも、さっきと同じことを聞いているのが分かった。
「浮気したってこと?」
夏未は黙ったまま、わずかに頷いた。
その瞬間、頭の奥が一気に熱くなった。
明人は両手で顔を覆った。
自分がどんな顔をしているのか分からない。
怒っているのか、泣きそうなのか、それすら分からなかった。
しばらくして、明人は手を下ろした。
「……説明して」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
夏未は、途切れ途切れに話し始めた。
その男とは、同じ会社にいた頃、遊びで付き合っていた時期があるという。
会社で顔を合わせなくなってからも、数か月に一度、同窓会のような感覚で会っていた。
明人は黙って聞いていた。
けれど、話を聞けば聞くほど、頭の中が混乱していく。
「誰なんだよ」
夏未は目を伏せた。
「明人には話したことのない人」
「名前は?」
夏未は答えなかった。
それ以上、夏未から説明はなかった。
明人は、声を抑えているのも限界だった。
「そいつ、今どこにいる」
夏未が顔を上げる。
「会わせろ」
夏未は首を横に振った。
「もう今日で会わないことにしたから」
それ以上何もいわなかった。
明人の中の何かが切れた。
「ふざけるな!」
思わず声が大きくなった。
夏未の肩がびくりと震える。
「なんでそいつを守るんだよ!」
「守ってるわけじゃない」
「じゃあ言えよ!」
夏未の目から涙がこぼれた。
「本当に、ごめんなさい」
明人は何も返せなかった。
自分には謝りながら、男のことは守る。
明人には、そうとしか思えなかった。
夏未を睨むように見た。
「じゃあ、なんで。なんで俺に言ったんだよ」
夏未は涙を拭いながら答えた。
「明人を騙したまま一緒にいるのが、耐えられなくなったから」
「それで、全部話せば楽になると思ったの?」
「違う。そういうことじゃない」
夏未は首を振った。
「何でもするから、許してほしい」
明人は言葉を失った。
許す。
その言葉だけが、ひどく遠くに聞こえた。
「そんなの、今決められるわけないだろ」
夏未は俯いたまま、何度も頷いた。
「分かってる。でも、本当にもうしない」
少し間を置いて、夏未は続けた。
「浮気して、明人の良さに気づいたの」
明人は夏未の顔を見た。
「何だよ、それ」
「比べてたとかじゃなくて……やっぱり私には明人しかいないって分かったの。
もう絶対にしない」
夏未は必死だった。
だからこそ、その言葉が何も入ってこなかった。
明人はしばらく黙ったあと、低い声で聞いた。
「ホテルにいる間も、罪悪感はあったの?」
夏未の唇がわずかに動いた。
けれど、答えは返ってこなかった。
長い沈黙のあと、夏未が口にした。
「私は、明人に抱かれてる方が好き」
明人は目を閉じた。
何を言ってるんだ
それが慰めになると、本気で思っているのだろうか。
まるで、ドラマか何かの言葉を聞かされたような気がした。
「一人になりたい」
「明人……」
「今は、無理だから」
明人はベッドを降りた。
夏未の顔を見ないまま、寝室を出ていった。




