湖の工房
鉋が木の表面を滑る音だけが、工房に響いていた。
石和明人、三十一歳。
湖畔に建つ小さな工房は、明人にとって仕事場であると同時に、
誰にも邪魔されない自分だけの場所でもあった。
「そろそろ、お昼にしようかな」
独り言が、誰もいない空間にぽつりと落ちる。
平日の昼下がり。
明人は湖畔に転がる古びた丸太に腰を下ろした。
観光客の集まる場所から外れているため、聞こえるのは水面を撫でる風の音くらいだ。
明人は、この静けさを気に入っていた。
食事を終えると、再び工房へ戻った。
それから夕方まで、黙々と作業を続ける。
一日の大半を誰とも話さずに過ごしても、苦にはならない。
むしろ、明人にはそういう生活が合っていた。
スマートフォンが鳴った。
妻の夏未から、夕食ができたというメッセージだった。
「よし。今日はここまでかな」
◇
家に帰ると、明人は手を洗い、欅の大きなテーブルについた。
夏未が子どもの陽介を片手で抱えながら、冷たいお茶を入れてくれる。
「今日はどうだった?」
「だいぶ歩けるようになってきたよ。一メートルくらいいけるんじゃないかな」
二人の会話は、たいてい息子のことで成り立っていた。
「じゃあ、あとでパパとあんよの練習をしよう」
明人が声をかけると、子ども用の椅子に座った陽介は、プラスチックのスプーンをぶんぶん振り回した。
明人は思わず頬を緩める。
夕食を終えると、明人も後片づけを手伝った。
皿を拭きながら、夏未が言う。
「明日なんだけど、お昼から仕事で出版社に行ってくるね」
「ああ、分かった。あと、悪いんだけど……」
「お義父さんでしょ? 様子を見てくるから大丈夫」
明人の父は、東京で一人暮らしをしていた。
明人が最後まで言わなくても、夏未には分かっている。
「ごめんね。いつもありがとう」
◇
翌日。
明人は夏未を駅まで車で送った。
赤信号で停まると、夏未は鏡を覗きながら口紅を引いた。
明人はそれを横目で見て、ふっと笑う。
「どうしたの?」
「いや、家ではノーメイクだから、だいぶ印象が変わるなと思ってさ」
「そうかな。これでもナチュラルメイクなんだけどね」
夏未は軽く笑って、鏡を閉じた。
駅のロータリーで夏未を降ろす。
「夜は何時に迎えに来ればいい?」
「七時くらいかな。分かったら連絡するね」
夏未は手を振り、駅へ向かっていった。
明人はその後ろ姿を、しばらく見送った。
チャイルドシートに座った陽介は、窓の外を眺めている。
「ママもいないし、今日は派手に遊ぶか」
明人が拳を差し出すと、陽介の小さな手が触れた。
◇
夏未は明人と違い、人と会うことも、外へ出かけることも好きだった。
性格はずいぶん違ったが、二人はお互いにないものに惹かれ合い、結婚した。
夕方。
陽介に離乳食を食べさせていると、夏未から電話があった。
「もしもし。もう終わったの?」
「あ、ごめんね。まだ帰れそうにないの」
「そうなんだ。何かあった?」
「これから、前の会社の先輩と二人で飲みに行きたいんだけど」
夏未は少し間を置いた。
「男の人なんだけど……いいかな?」
明人の手が止まった。
「えっ。どういう人?」
「前にいた会社の先輩。たまたま東京に来てるって言ったら、会いたいって言われて」
「あ、うん。別に止めはしないけど」
自分でも分かるほど、声がわずかに詰まった。
「本当にただの知り合いだから、気にしないでね。念のための確認だから」
「うん。分かった」
電話を切った。
明人はしばらく、陽介の口元へ運びかけたスプーンを止めたままにしていた。
もちろん、夏未を信用していないわけではない。
ただ、彼女が僕が「断らない」と分かっていて聞いてきた気がして、胸の奥に冷たいものが広がった。
後になって、何度も思い返すことになる。
あのとき、もっと強く止めておけば、何かが変わっていたのだろうか。
少なくとも、誰かがハッピーの餌になることだけはなかったと思う。




