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湖の工房

鉋が木の表面を滑る音だけが、工房に響いていた。


石和明人(いしわあきひと)、三十一歳。


湖畔に建つ小さな工房は、明人にとって仕事場であると同時に、


誰にも邪魔されない自分だけの場所でもあった。


「そろそろ、お昼にしようかな」


独り言が、誰もいない空間にぽつりと落ちる。


平日の昼下がり。


明人は湖畔に転がる古びた丸太に腰を下ろした。


観光客の集まる場所から外れているため、聞こえるのは水面を撫でる風の音くらいだ。


明人は、この静けさを気に入っていた。


食事を終えると、再び工房へ戻った。


それから夕方まで、黙々と作業を続ける。


一日の大半を誰とも話さずに過ごしても、苦にはならない。


むしろ、明人にはそういう生活が合っていた。


スマートフォンが鳴った。


妻の夏未から、夕食ができたというメッセージだった。


「よし。今日はここまでかな」



家に帰ると、明人は手を洗い、(けやき)の大きなテーブルについた。


夏未が子どもの陽介を片手で抱えながら、冷たいお茶を入れてくれる。


「今日はどうだった?」


「だいぶ歩けるようになってきたよ。一メートルくらいいけるんじゃないかな」


二人の会話は、たいてい息子のことで成り立っていた。


「じゃあ、あとでパパとあんよの練習をしよう」


明人が声をかけると、子ども用の椅子に座った陽介は、プラスチックのスプーンをぶんぶん振り回した。


明人は思わず頬を緩める。


夕食を終えると、明人も後片づけを手伝った。


皿を拭きながら、夏未が言う。


「明日なんだけど、お昼から仕事で出版社に行ってくるね」


「ああ、分かった。あと、悪いんだけど……」


「お義父さんでしょ? 様子を見てくるから大丈夫」


明人の父は、東京で一人暮らしをしていた。


明人が最後まで言わなくても、夏未には分かっている。


「ごめんね。いつもありがとう」



翌日。


明人は夏未を駅まで車で送った。


赤信号で停まると、夏未は鏡を覗きながら口紅を引いた。


明人はそれを横目で見て、ふっと笑う。


「どうしたの?」


「いや、家ではノーメイクだから、だいぶ印象が変わるなと思ってさ」


「そうかな。これでもナチュラルメイクなんだけどね」


夏未は軽く笑って、鏡を閉じた。


駅のロータリーで夏未を降ろす。


「夜は何時に迎えに来ればいい?」


「七時くらいかな。分かったら連絡するね」


夏未は手を振り、駅へ向かっていった。


明人はその後ろ姿を、しばらく見送った。


チャイルドシートに座った陽介は、窓の外を眺めている。


「ママもいないし、今日は派手に遊ぶか」


明人が拳を差し出すと、陽介の小さな手が触れた。



夏未は明人と違い、人と会うことも、外へ出かけることも好きだった。


性格はずいぶん違ったが、二人はお互いにないものに惹かれ合い、結婚した。


夕方。


陽介に離乳食を食べさせていると、夏未から電話があった。


「もしもし。もう終わったの?」


「あ、ごめんね。まだ帰れそうにないの」


「そうなんだ。何かあった?」


「これから、前の会社の先輩と二人で飲みに行きたいんだけど」


夏未は少し間を置いた。


「男の人なんだけど……いいかな?」


明人の手が止まった。


「えっ。どういう人?」


「前にいた会社の先輩。たまたま東京に来てるって言ったら、会いたいって言われて」


「あ、うん。別に止めはしないけど」


自分でも分かるほど、声がわずかに詰まった。


「本当にただの知り合いだから、気にしないでね。念のための確認だから」


「うん。分かった」


電話を切った。


明人はしばらく、陽介の口元へ運びかけたスプーンを止めたままにしていた。


もちろん、夏未を信用していないわけではない。


ただ、彼女が僕が「断らない」と分かっていて聞いてきた気がして、胸の奥に冷たいものが広がった。


後になって、何度も思い返すことになる。


あのとき、もっと強く止めておけば、何かが変わっていたのだろうか。


少なくとも、誰かがハッピーの餌になることだけはなかったと思う。


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