餌
「ど、どうして……」
夏未の唇から、掠れた声が漏れた。
「どうして、カズさんが……ここにいるの……?」
明人は、椅子に縛られた和宏へ目を向けた。
「あの日だよ」
「……あの日?」
「ハッピーを引き取りに行った日」
明人は淡々と答えた。
「本当の目的は、こいつをここへ連れてくることだった」
夏未は何度も首を振った。
「どうやって……」
「君のスマホを調べたんだ」
「ロックのパスワードは後ろで覗いてたから」
明人は夏未へ視線を戻した。
「浮気を告白した日の通話履歴から、電話番号を拾った」
「そしてクレジットカードの会社の振りをして、名前を聞き出した」
「名前が分かれば、その先は夏未にも分かるよね?」
夏未の頭に、明人が本棚から持ち出した結婚式の箱が浮かんだ。
「……招待者の名簿」
「正解」
明人はゆっくりと笑った。
「驚いたよ、僕たちの結婚式に浮気相手を呼んでたなんて」
椅子へ歩み寄り、その背もたれに手を置く。
まるで、自分が作った家具を紹介するような仕草だった。
「住所まで分かれば、あとは簡単」
「浮気のことを家族にばらすって言ったら、素直についてきてくれたよ」
和宏は俯いたまま、僅かに身体を震わせていた。
明人は椅子の背を軽く叩く。
「それから、僕らはいろいろ話をして友達になったんだ」
夏未は目の前の夫を見つめた。
「あなた……狂ってる……」
明人は和宏の頭を、嬉しそうに平手で叩いた。
乾いた音が響く。
「おい。しゃべっていいぞ」
和宏はゆっくりと顔を上げた。
「み……ず……」
掠れた声だった。
明人は床に転がったペットボトルを、懐中電灯で照らした。
「夏未。水が欲しいって」
夏未は震える手でペットボトルを拾い、和宏の口元へ運んだ。
和宏は吸いつくように水を飲んだ。
喉が激しく上下する。
明人は腕時計を見る。
「二十四時間ぶりの水か」
和宏がむせても、明人は気にしなかった。
明人は地下室の階段に腰掛けた。
「そうそう、電話の台本どうだった?」
明人が楽しそうに尋ねる。
「和宏、名演技だったろ?」
「こいつの奥さんにも電話させて、探すなって言わせたんだぜ」
夏未の顔から血の気が引いた。
家にかかってきた電話は、すべて明人の指示だった。
そのとき、和宏が口を開いた。
「夏未……」
「カズさん……」
「お前……何で旦那に言ったんだ……」
夏未は答えられない。
「お前のせいで……」
和宏の呼吸が乱れた。
「お前のせいで、指を切られたんだぞ……」
喉の奥から、えずくような泣き声が漏れた。
しかし、涙は流れなかった。
夏未は和宏の左手を見る。
汚れた包帯の下で、薬指があるはずの場所だけが不自然に窪んでいた。
「まさか……」
明人は少し気まずそうな顔をした。
「ちょっと態度が気に入らなくてね」
「できるだけ、我慢はしてたんだけどさ」
指を鋏のように、チョキチョキと動かして見せる。
夏未は息を止めた。
「切ったあと、ハッピーのエサにぶっ刺しておいたんだけど」
明人は和宏の左手を見ながら、淡々と続けた。
「でも、食べずに指だけ残ってた」
明人は、そこでクスっと笑った。




