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運命の日

朝九時。


明人は陽介を保育園へ預け、家へ戻ってきた。


「ただいま」


「おかえり。ありがとう。陽介、ぐずらなかった?」


「うん。問題なかったよ」


明人は笑顔で答えた。


夏未は、朝から慌ただしく家事をこなしていた。


洗濯機を回しながら、テーブルの上を片づけ、陽介が使った食器を流し台へ運んでいく。


明人は、その姿を黙って見つめた。


いつもと変わらない夏未だった。


明人は少しだけ目を伏せた。


「今日は何時に出るの?」


夏未が、陽介のおもちゃを片付けながら答える。


「ちょっと早めに行きたいから、十二時には家を出ようと思ってる」


「そっか」


「陽介のお迎えもお願いね」


「分かった」


夏未は洗濯籠を抱え、二階へ上がっていった。


階段を上る足音が、次第に遠ざかっていく。


明人はその場に立ち尽くしたまま、静かに呟いた。


「それじゃあ、またあとで」


テーブルの上には、夏未のスマートフォンが置かれていた。


明人はそれを手に取り、静かに家を出ていった。



午前十一時。


夏未はドレッサーの前に座っていた。


鏡を覗き込みながら、いつもより念入りに化粧をしていく。


ふと、何かを思い出したように手を止めた。


「あ、そうだ」


タンスの引き出しを開ける。


中から取り出したのは、先日、明人にもらったネックレスだった。


夏未は鏡を見ながら、それを首につけた。


ダイヤモンドの装飾が、胸元で小さく光る。


そのときだった。


「あれ?」


夏未は身支度をしていた手を止め、周囲を見回した。


「スマホがない」


確か、リビングのテーブルに置いたはずだった。


慌てて家中を探す。


しかし、どこにも見つからない。


時計の針だけが、容赦なく進んでいく。


プルルルル。


突然、家の電話が鳴り響いた。


夏未は慌てて受話器を取った。


「もしもし、カズさん?」


一瞬の沈黙。


『いや、俺だけど』


明人の声だった。


夏未の顔から血の気が引いた。


「あ……」


言葉が出てこない。受話器を強く握りしめる。


『どうしたの?』


「ううん。何でもない」


夏未は必死に平静を装った。


『あのさ、間違えて夏未のスマホまで持ってきちゃったんだ』


「あ、ああ。今、探してたところ」


『それで悪いんだけど、出発する前に工房へ寄ってくれないかな?』


夏未は時計を見た。


午前十一時三十分。


駅へ向かうには、まだ時間がある。


「うん。分かった。今から行くから待ってて」


『分かった』


電話が切れた。


夏未は受話器を置くと、急いでハンドバッグを手に取った。



工房へ向かう湖畔の道。


夏未は早足で歩いていた。


しばらく進んだところで、胸元のネックレスに手を触れる。


足が止まった。


少し迷ったあと、留め具を外す。


ネックレスをハンドバッグの中へ入れ、再び歩き始めた。


やがて、木々の向こうに工房が見えてくる。


入口には、ハッピーが横になっていた。


夏未が近づいても、顔を上げることなく眠り続けていた。



夏未は工房の扉を開けた。


「明人?」


「こっち」


奥から、明人の声がした。


夏未は声のする方へ向かう。


「ごめんね。わざわざ取りに来させちゃって」


「ううん。それより、納品の時間は大丈夫なの?」


「うん、まあ」


明人は曖昧に答えた。


夏未はわずかに眉をひそめた。


「ねえ、私のスマホは? もう行かないと」


明人は、家具を組み立てる大きな作業台を指さした。


その中央に、夏未の白いスマートフォンが置かれている。


夏未は作業台へ近づき、手を伸ばした。


指先が届く直前。


反対側から明人が素早く手を伸ばし、スマートフォンを持ち上げた。


「あっ」


夏未が顔を上げる。


「ちょっと、明人。何ふざけてるのよ」


明人の顔を見た瞬間、言葉が止まった。


いつもの曖昧な笑顔はなかった。


明人は夏未をまっすぐ見つめていた。


そして、静かに、しかしはっきりと言った。


「夏未」


「今日は、行かないでほしい」


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