運命の日
朝九時。
明人は陽介を保育園へ預け、家へ戻ってきた。
「ただいま」
「おかえり。ありがとう。陽介、ぐずらなかった?」
「うん。問題なかったよ」
明人は笑顔で答えた。
夏未は、朝から慌ただしく家事をこなしていた。
洗濯機を回しながら、テーブルの上を片づけ、陽介が使った食器を流し台へ運んでいく。
明人は、その姿を黙って見つめた。
いつもと変わらない夏未だった。
明人は少しだけ目を伏せた。
「今日は何時に出るの?」
夏未が、陽介のおもちゃを片付けながら答える。
「ちょっと早めに行きたいから、十二時には家を出ようと思ってる」
「そっか」
「陽介のお迎えもお願いね」
「分かった」
夏未は洗濯籠を抱え、二階へ上がっていった。
階段を上る足音が、次第に遠ざかっていく。
明人はその場に立ち尽くしたまま、静かに呟いた。
「それじゃあ、またあとで」
テーブルの上には、夏未のスマートフォンが置かれていた。
明人はそれを手に取り、静かに家を出ていった。
◇
午前十一時。
夏未はドレッサーの前に座っていた。
鏡を覗き込みながら、いつもより念入りに化粧をしていく。
ふと、何かを思い出したように手を止めた。
「あ、そうだ」
タンスの引き出しを開ける。
中から取り出したのは、先日、明人にもらったネックレスだった。
夏未は鏡を見ながら、それを首につけた。
ダイヤモンドの装飾が、胸元で小さく光る。
そのときだった。
「あれ?」
夏未は身支度をしていた手を止め、周囲を見回した。
「スマホがない」
確か、リビングのテーブルに置いたはずだった。
慌てて家中を探す。
しかし、どこにも見つからない。
時計の針だけが、容赦なく進んでいく。
プルルルル。
突然、家の電話が鳴り響いた。
夏未は慌てて受話器を取った。
「もしもし、カズさん?」
一瞬の沈黙。
『いや、俺だけど』
明人の声だった。
夏未の顔から血の気が引いた。
「あ……」
言葉が出てこない。受話器を強く握りしめる。
『どうしたの?』
「ううん。何でもない」
夏未は必死に平静を装った。
『あのさ、間違えて夏未のスマホまで持ってきちゃったんだ』
「あ、ああ。今、探してたところ」
『それで悪いんだけど、出発する前に工房へ寄ってくれないかな?』
夏未は時計を見た。
午前十一時三十分。
駅へ向かうには、まだ時間がある。
「うん。分かった。今から行くから待ってて」
『分かった』
電話が切れた。
夏未は受話器を置くと、急いでハンドバッグを手に取った。
◇
工房へ向かう湖畔の道。
夏未は早足で歩いていた。
しばらく進んだところで、胸元のネックレスに手を触れる。
足が止まった。
少し迷ったあと、留め具を外す。
ネックレスをハンドバッグの中へ入れ、再び歩き始めた。
やがて、木々の向こうに工房が見えてくる。
入口には、ハッピーが横になっていた。
夏未が近づいても、顔を上げることなく眠り続けていた。
◇
夏未は工房の扉を開けた。
「明人?」
「こっち」
奥から、明人の声がした。
夏未は声のする方へ向かう。
「ごめんね。わざわざ取りに来させちゃって」
「ううん。それより、納品の時間は大丈夫なの?」
「うん、まあ」
明人は曖昧に答えた。
夏未はわずかに眉をひそめた。
「ねえ、私のスマホは? もう行かないと」
明人は、家具を組み立てる大きな作業台を指さした。
その中央に、夏未の白いスマートフォンが置かれている。
夏未は作業台へ近づき、手を伸ばした。
指先が届く直前。
反対側から明人が素早く手を伸ばし、スマートフォンを持ち上げた。
「あっ」
夏未が顔を上げる。
「ちょっと、明人。何ふざけてるのよ」
明人の顔を見た瞬間、言葉が止まった。
いつもの曖昧な笑顔はなかった。
明人は夏未をまっすぐ見つめていた。
そして、静かに、しかしはっきりと言った。
「夏未」
「今日は、行かないでほしい」




