愛してる
翌日。
夏未は、リビングの隅で腕を組んで立っていた。
あと一時間ほどで、和宏から家に電話がかかってくる。
しかし、そんな素振りを見せるわけにはいかなかった。
明人が、まだ工房へ行っていないからだ。
「今日は工房へ行かなくていいの?」
すでに何度か尋ねている。
しかし明人は、そのたびに適当な返事をして、ソファに座ったままテレビをぼんやり眺めていた。
あまり何度も聞けば、何かを感づかれるかもしれない。
夏未は壁の時計を気にしながら、黙って明人の背中を見つめていた。
ふいに、明人が立ち上がった。
「工房へ行くの?」
思わず、裏返った声が出た。
明人は何も答えない。
そのまま夏未の方へ、まっすぐ歩いてくる。
夏未は焦ったように明人を見つめた。
明人は夏未の足元まで来ると、床に置かれていた昨夜のDVDを拾い上げた。
「ごめんね」
「え?」
「こんなものに頼ろうとして」
夏未は目を泳がせながら答えた。
「ううん。もういいから、気にしないで」
「友達には、きつく言っておくよ」
明人はDVDのパッケージを見つめた。
「お前のせいで夏未を怒らせたって」
「いいよ。そこまで言わなくても」
夏未の視線は、明人の背後にある時計へ向いていた。
「それより、そろそろ工房へ行ったら?」
明人は寂しそうに笑った。
「俺、また夏未を満足させられるように頑張るから」
そう言って、夏未を抱きしめようとする。
夏未は両手を明人の胸へ当て、押し返した。
「い、今は駄目」
明人の動きが止まる。
「帰ってきてから。ね? お願い」
「そっか」
明人は残念そうに目を伏せた。
「じゃあ、仕事に行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
夏未は明人を玄関まで送り出した。
「忘れ物、ないようにね」
扉が閉まる。
夏未はすぐに壁の時計を見た。
午後十二時四十分。
夏未は安堵の息を吐いた。
◇
午後一時十分。
家の電話が鳴った。
夏未は、すぐに受話器を取った。
「もしもし」
『……もしもし。夏未?』
「うん」
夏未は玄関の方へ目を向けた。
「さっきまで明人がいたの。危なかった」
そう言って、小さく笑った。
しかし、和宏は笑わなかった。
短い沈黙が流れる。
『夏未に……また会いたくなった』
和宏が、小さな声で言った。
「でも、大丈夫なの?」
夏未は受話器を握り直した。
「また会ったりしたら、危ないんじゃない?」
しばらく返事はなかった。
『いや。仕事だと言えば、絶対にバレないから』
「でも……」
『お願いだ。あと一回だけ、会ってほしい』
和宏の声は、懇願するように震えていた。
「うーん……」
夏未は少し考えた。
「そこまで言うなら」
『じゃあ、明日の午後二時。駅前で待ち合わせよう』
明日は、明人が納品へ行く予定だった。
しばらくは帰ってこない。
「うん。分かった」
『そ、それじゃあ』
「カズさん、待って」
夏未は、受話器を両手で握った。
「愛してる……」
沈黙。
和宏からの返事はなかった。
その代わり、受話器の向こうから、何かがぶつかるような鈍い音が聞こえた。
同時に、通話が切れた。
「カズさん?」
夏未は呼びかけた。
しかし、受話器から聞こえるのは、無機質な音だけだった。
◇
夜になり、明人が工房から帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
夏未が玄関まで出迎える。
「あのね、明日なんだけど」
靴を脱ぐ明人へ、夏未は少し早口で話しかけた。
「私もちょっとだけ、仕事で出かけることになったの」
「そうなんだ」
「明人は納品があるんでしょ?」
「うん」
「だから、陽介は朝から保育園に預けておくね」
夏未は、明人に考える隙を与えないように、続けて話した。
明人は少し上を向き、考えるような仕草をした。
「うん。分かった」
それ以上、何も聞かなかった。
◇
夕食を終えると、明人は流し台の前に立ち、皿を洗い始めた。
夏未はテーブルに座ったまま、何度も明人の様子をうかがった。
疑っているようには見えなかった。
明人は蛇口を止めると、ふと思い出したように言った。
「そういえば、昼間さ」
夏未の肩が、びくりと動いた。
「なに?」
「帰ってきたら、続きしようって言ったじゃん」
「あ、ああ……そうだったね」
夏未も、今思い出したように答えた。
明人は濡れた手をタオルで拭いた。
「やっぱり、中止でいいかな」
「え?」
「今日は疲れちゃった」
明人は淡々と言った。
「うん。全然大丈夫」
夏未は安心したように笑った。
「気にしないで」
皿洗いを終えた明人は、先にリビングを出ていった。
階段へ向かいかけて、足を止める。
「夏未」
「うん?」
「愛してるよ」
そのまま、ゆっくりと階段を上っていった。




