下痢
夏未は、昼間にかかってきた和宏からの電話について考えていた。
最後に会った日。
二人は、このままではいけないと分かっていた。
だから、もう会うのはやめようと決めた。
泣きながら別れたはずだった。
それなのに、どうして今になって電話をかけてきたのだろう。
夏未の目から、涙がこぼれた。
そのとき、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
明人が帰ってきた。
夏未は慌ててティッシュで涙を拭き、玄関へ向かった。
しかし、明人の姿を見た瞬間、思わず鼻を覆った。
ひどい臭いがした。
「ちょっと、何、その臭い」
「いや、ハッピーが工房の中で下痢しちゃってさ」
明人は自分の服を見下ろした。
「ずっと掃除してたんだよ」
明人が家の中へ入ろうとする。
夏未は、反射的にその前へ立った。
「待って。外で洗い流してきてよ」
明人は少しだけ眉を下げた。
「分かったよ」
そう答えると、明人は肩を落とし、とぼとぼと玄関を出ていった。
夏未は扉を閉めたあとも、しばらく鼻を押さえていた。
◇
翌日の昼。
夏未は落ち着かない様子で、和宏からの電話を待っていた。
何度も窓の外を眺め、明人が帰ってこないことを確認する。
午後一時十分。
家の電話が鳴った。
夏未はすぐに受話器を取った。
「もしもし!」
『……もしもし。夏未か?』
和宏だった。
昨日よりも、少しだけ声に力が戻っているように聞こえた。
「何があったの?」
夏未はすかさず尋ねた。
『妻に、不倫のことがバレそうになったんだ』
「えっ……」
『それで、今は携帯を見られてる』
「そんな……大丈夫なの?」
『ああ。君のことまでは分かってないから』
「よかった」
夏未は胸を撫で下ろした。
『あれから、元気だった?』
和宏に聞かれ、夏未は少し黙った。
「うん。でも、ちょっと大変だった」
「明人が、思ってたより怒っちゃって」
夏未は受話器のコードを指に巻きつけた。
「でも大丈夫。カズさんのことは話してないから」
「明人がそっちにまで行くことはないわ」
『……そうか』
短い沈黙が流れた。
『また、明日も電話していいかな?』
「うん。同じ時間にお願い」
『分かった』
電話が切れた。
夏未はしばらく受話器を見つめていた。
やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。
◇
夕方。
玄関の扉が開く音がした。
明人が、何も言わずにリビングへ入ってくる。
夏未が振り向くと、明人はタバコを咥えていた。
「ちょっと!タバコ!」
明人は、今気づいたかのように口元へ手を伸ばした。
タバコを指でつまみ、窓を開ける。
そして何も言わず、外へ弾くように投げ捨てた。
夏未は、信じられないものを見るように明人を見つめた。
明人は気にする様子もなく、ソファへ腰を下ろした。
「夏未、面白いものがあるんだ」
「なに?」
夏未が警戒しながら近づく。
「ほら、これ」
明人は作業着のポケットから、一枚のDVDを取り出した。
派手な女性の写真が印刷された、アダルトDVDだった。
「何よ、それ……」
「この前、椅子をあげた人にさ」
明人はパッケージを眺めながら、にやにやと笑った。
「やっぱり不能のこと、相談したんだよね」
「そんなことまで話したの?」
「そしたら、こういうのを見ながら試してみろって」
明人はDVDを夏未へ向けた。
「嫌よ、そんなの。気持ち悪い」
夏未は、汚いものを見るような目を向けた。
「ねえ、その人大丈夫なの?」
「何が?」
「本当は、変な人なんじゃないの?」
「別に。ただの友達だよ」
夏未は明人の顔を覗き込んだ。
「その人、名前は?」
明人は黙った。
「どこに住んでるかとか、ちゃんと知ってるの?」
明人の表情が変わった。
先ほどまでの笑顔が消え、夏未を睨みつける。
「なんで?」
「え?」
「夏未は何も教えてくれないのに、なんで俺ばっかり話さなきゃいけないんだよ」
「それとこれは――」
明人は夏未の言葉を聞かず、ソファから立ち上がった。
そしてDVDを、部屋の隅に置かれた結婚式の箱の上へ無造作に置く。
そのまま何も言わず、リビングを出ていった。
夏未は言葉を失い、その場に立ち尽くした。




