3-3
見ーつけた。
うちのアパートからそんなに離れていない道端にいたその人に、私は近づいて声をかけた。
「あの」
「ん?」
「すみません、お名前は何ですか?」
「え? 僕の?」
「はい」
私はうなずいた。
「突然に、ましてまったく関わり合いのない間柄なのに、失礼かと思いますけれども、もしよろしければ教えてください」
「わかりました。いいですよ。僕は角田といいます」
「角田さん。失礼続きで申し訳ないのですが、わからないことがありまして、どういうことなのか説明していただけませんでしょうか?」
「あら、なあに? 答えられることなら教えてあげるけれど」
よし。私がにらんだ通り、角田さんはきちんと応じてくれた。
「政治についてなんですが、資本主義をやっていると、一部の大金持ちと多数の貧乏人という状態になっていきますよね。絶対にそうと決まっているわけじゃないですけれども、基本的に右派は格差を『あって当然だから』と容認する一方で、左派は貧しい人たちのために富裕層への課税を強化したりしてできる限り平等に近づけようとする。なら、選挙をやれば、人数で圧倒している貧乏人は自分たちを助けてくれる比重が大きい左派に票を投じるはずだから、資本主義を採用しているすべての国で左派が勝利して政権を担っていておかしくないのに、そうなってませんよね? ちなみに、左派は中道左派、右派は中道右派まで含めていますが、いったいどうしてなんでしょうか?」
「おや、まあ、ずいぶん難しいことを訊くんだね。あなた、歳はいくつなの?」
「八歳です」
それは嘘ではない。私は現在、小学二年生だ。
「すごいねえ、勉強家なんだ。そうだなあ、理由はいくつも考えられて、『こうだから』と言いきれはしないけれど、まず期待値の問題があるかな」
んん?
「期待値、ですか?」
「うん。あなたが言ったように貧しい人の多く、加えて、経済的には十分でも左派は平和や人権にも重きを置くからそれらを望む人たちも、良くしてくれる期待が大きいけれども、現実はいろいろあって、政権を運営すると妥協せざるを得ないところがたくさん出てくるから、期待値が高かったぶん、『がっかり』だとか、場合によっては『裏切られた』や『だまされた』と怒りに達するほどの、大きな失望へと跳ね返ってしまう一方で、右派は、弱者に冷たいし、保守色が強ければ危険というイメージもあって、期待値は低くなる傾向のなか、いざ政権を担えば、こちらも支持を失いたくないし現実的に物事に当たらなければならないために、困っている人に配慮するといったまともな言動を行うケースが多い結果、『思ったより悪くないし、むしろ上出来じゃないか』と、好意的な反応を得られやすい。そういった過去の印象が影響しているのかもしれないね。それと、今述べたように現実はうまくいかないことがいっぱいあって、好き好んでではなく、背に腹は替えられないというので、善くない行為をしている人も少なくないから、『左派は綺麗事ばかり言って、しゃくに障る』『右派は正直で信用できる』と思われていたりだとか」
「ふーん」
「他にも挙げるとすると、右派は対立をあおることが多いから、当事者で損をする立場でなければ、その行方にドキドキ感があって面白いし、口にしにくいことや自分も感じていたことをよくぞ言ったと、頼もしく感じてすっきりする人もいる。かたや、左派のやることはだいたい予想がついて、つまらないし、弱腰で情けなく、結果もたかが知れているなどと思われているのもあるんじゃないかな。たかが知れてるといっても、それなりの安全や平和を維持するのもけっこう大変なのだけれどね。あと、人は不安になると、とにかく強いものにすがりつきたくなるから、現在のように問題が山積して先が見通せず、誰もが多大なストレスを抱える時代は、理屈抜きで、威勢のいい発言をする保守色の強い右派が支持されるんだと思うよ」
「なるほどー」
そっか。完全にとまではいかないものの、だいぶしっくりきた。思いきって訊いてよかったな。
「ありがとうございました」
私はおじぎをした。
「いえいえ、ご丁寧に。お役に立てたのなら嬉しいですよ」
「では……あ、そうだ」
去りかけた私は、再び角田さんのほうに体を向けた。
「最後にもう一つだけ、質問してもいいですか?」
「何だい?」
「角田さんは、平瀬知子さんのことが好きなんですか?」
すると、角田さんは少し驚いた感じになった。
「それはねえ、内緒だよ」
そう言うと、元々ずっと笑ったような表情をしていたけれども、おそらく本当に笑みを浮かべた。
「じゃあ、帰ります。改めて、ありがとうございました」
私はもう一度頭を下げた。
えっ!
顔を上げると、角田さんが横に目をやって、恐ろしい顔つきになっていた。
「ど、どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもないよ」
ちょっと慌てた様子で、私に優しく返事をした。
「帰るんだっけ?」
「はい」
「じゃあ、さようなら。気をつけて家まで行くんだよ」
「わかりました。さようなら」
角田さんは手を振って、小走りで去っていく私を見送った。
お母さんが話していた怪しい人というのは、あの角田さんだろうな。服装はちゃんとしているけれど、顔がヘビのようで人間離れしているし、我が家の近くでよく見かけるから、絶対当たっているに違いない。
近づいちゃ駄目だと言われたが、以前たまたま目が合ったときにわかったんだ。彼は私に何の興味もないから大丈夫だって。
そして、どうやら知子さんを気にかけていて、それでうちのアパートの周辺に頻繁に足を運んでいると思うので、確かめようとリアクションを見るために単刀直入に好きなのか尋ねたわけだけれども、あれは好意を寄せているわね。
少なくとも私に対しては問題がなく、賢いだろうという予感も正解だったが、恋は人を狂わせるって言うし、何があったのかわからないけれども最後の殺気立った怖い一面なんかも考えると、知子さん、危なくないかなあ?
まあ、でも、そのことをお母さんとかに伝えても、相手にされないか、反対に、実際はまったく心配ないのに角田さんだと警察に通報されたりしちゃうから、私には手の打ちようがないよな。
「ゆめちゃーん、どこにいるのー?」
あ、お母さんだ。不安にさせると悪いから、早く行かなきゃ。
「はーい。ここだよー」
私はあどけない振る舞いをして向かっていった。




