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「例えば、日本国憲法の象徴的な条文である戦争放棄を、まるでお花畑のような感覚だと評されるときがありますね。『夢見心地もいいところで、まったく現実的ではない』という意味合いで。それも、今しがたあなたがおっしゃられたのと同じように、人間は戦争をする生き物で、避けられないのだと主張したいのでしょう。しかし、では人間はなぜモラルなんてものを生みだしたのでしょうか? 人が、殺し合うなど、自らの都合や感情の赴くままに、争うのが必然で、どうしようもないのであれば、そんな役に立たない概念を所持する必要なんてないではありませんか」
……言われてみると、そうか。
「人間は、身を守るために己に危害を加える者や、ストレスで健康を害しますから気に食わない程度の者なども、自分から遠ざけようとします。結果、ずっと離れた場所にいてくれれば良いですが、またいつやってきて平穏な暮らしを破壊されるとも限らない。相手が死ねば、確実にそうなるにはいっそのこと殺せば、安らぎが訪れます。けれどもその場合、自分が殺してよいとなると、反対に相手方に殺害されるリスクも発生してしまう。腕力や戦力で圧倒していても、睡眠を取らなければならなかったりと、百パーセント盤石にはならないですからね。すると、安全を手に入れる最も適した方法は、お互いに殺してはならないと約束することだと気づくはずです。そうして、各々の利益のために、暴力を振るうのは禁止にしようという流れで、モラルは誕生したのだと思います。日本国憲法をはじめとする平和を実現しようとする取り組みは、『世の中に戦争や争い事がないのは美しいから』といった理想ではなく、現実的な思考に基づいているわけです」
……。
「ですが、自分がいくら暴力的な行為をしないほうが良いのだと考えて実行し、相手に呼びかけて説得しても、応じてくれないかもしれませんよね?」
「ええ。たとえ約束を交わすところまでこぎつけても、向こうが裏切る可能性もありますしね。それでも、やはり安全や安心があるのが望ましいですから、なんとか現実にしようと、人間は法律を作ったり警察を組織したりとコツコツ積み上げて、現代は殺人を犯すなどの悪事を働くことは善い行いをするよりも遥かにデメリットやリスクを負うようになり、だいぶ平和は実現したのではありませんか?」
「……しかし、それでもなお、人を殺す者もいれば、戦争もなくなっていません」
「おっしゃる通り。その理由は、暴力には速効性があることが大きいと思います。例えば、お金を必要としているときに、労働をするよりも、盗んだり奪ったりするほうが素早く入手できますよね。人間は、いつ命を落とすかわからず、しかも賢いために今は万全な状態でも死はすぐに訪れ得るものであると理解しているので、早い成果を欲しがってしまいがちです。けれども、盗んだり奪ったりすれば、逮捕されたり信用を失ったりと、長期的に見れば損にしかならず、働いて稼ぐといった清い方法を選択するほうが断然得です。この短期的な利益と長期的な利益で人間の心は揺らぐことが少なくないですが、すぐに死ぬほうが確率的に低いので、穏健な手段を採用するケースが多く、人間社会は少しずつ平和に近づいてきたのでしょう。それが現在、世界各国で暴力的な言動をする極右勢力が台頭しているのは、気候変動などで先の見通しが立たず、明るい未来がやってくる感覚を抱けないので、目先さえ良ければいいという心理が人々に生まれてしまっているからなのだと思います」
なるほど。
「とはいえ、状況がどうだからではなく、そもそも将来のために今は我慢をするというやり方自体が良くなかったのかもしれません。くり返しになりますけれども人間はいつ死ぬかわからないですし、過去や未来をまったく考慮しないのは好ましくありませんが、現在を最も重視するのは正しい在り方なのですから。平和的に物事を行うほうが短期的にもメリットがあると実感できる方向に持っていければ、解決するのではないか、そのように私は考えるに至りました。で、ええと、唐突ですみませんが、お名前をうかがってよろしいでしょうか?」
「……真田と申します」
迷ったが、僕は偽らずに答えた。
「真田さん。それを実現できるように、私と一緒に行動なさいませんか? あなたをここへ連れてこられた貝塚さんも、私の理念に共感して、私の身を守ってくださったりしているのです」
「そうですか……」
「真田さんは先ほど、人間が殺し合うのはそうしないと増えすぎてしまうからだとおっしゃいましたが、よく考えてみてください。先進国と呼ばれる国はどこも少子化で頭を悩ませていますよ。経済的に豊かになると、人は自然と子どもの数を抑えるようにできているようです。つまり、平和的に問題を解決できる道はあるということを示しているのであり、現在は武力によって平和を成し遂げようとする試みが多いですけれども、平和的な方法によって平和な世の中を構築することも可能だと私は信じています」
……。
「それを実行するうえで、政治家などでも無理ではないでしょうが、そういった権力があったり目立つ立場だと、いろいろと面倒もつきまとって、小回りが利かないでしょう。できるだけ自由なほうがスムーズに運ぶでしょうから、隠れてやるくらいが良い。真田さん、テレビは観られますか?」
ん?
「ええ、世代的にも、よく観るほうだと思いますけれども」
「トーク中心のバラエティーで、通常は司会者がやる進行を、脇にいるタレントが別の出演者たちに話を振ったり場をつなぐコメントをしたりして、視聴者にはわからないほどさりげなく番組が円滑に進むようアシストすることを『裏回し』と言うらしいですが、そのようなかたちで」
……裏回しか。面白い表現だ。
「ただ、スムーズにといっても、急がないことですね。述べましたように平和的なやり方はすぐに成果は出ないものです。世の中が良くなっていく過程がゆっくりであるがゆえに長く楽しめるというのも、短期的なメリットと捉えてはどうかと私は考えております。いかがでしょう?」
「わかりました。協力させていただきます」
僕は、角田氏といた部屋を後にし、今、自宅を目指して歩いている。
話を聞いて、心に刺さり、誘いに乗ったが、果たしてあの人を信用して正解だったのだろうか? 彼の女性に対する振る舞いが何だったのかはわかっていないわけで、邪気がなかったのはこちらに悪人ではないと思わせて取り込むための罠であり、やっぱり見た目通りの人間なのだとしたら……。
まあ、いい。どうせこれまでの僕のやり方ではまったく世の中を平和にできなかったのだし、折り返しは過ぎたであろう人生、元々定職に就かなかったりと平和な世の実現のためにこの命を賭けてきたのだから、今さら失敗を恐れることはない。
もし彼がイカサマで、ストーカー行為をしているような悪党だと判明したら、あの世へ道連れにするだけだ。




