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僕は、捕らえられた男性に誘導されて、元いた場所から離れてはいるが徒歩で行ける範囲のマンションへ移動し、その四階の一室に足を踏み入れた。
逃げることも頭にあったけれども、この男性はやはりあいつのボディガードなのか、その手の心得がありそうで隙がまったくなく、また捕まってしまうイメージしかわかなかったのだ。
「座って」
指示された通りに、僕はソファーに腰を下ろした。
ここは、置かれている家具も、ちょっと面積はあるが広さも、一般的な住居用の部屋のリビングといった装いで、暴力団の事務所のようなところでなかったために恐怖が増しはしなかったものの、安心まではできるはずもない。
そこへ、例のヘビ顔の男もやってきた。
「ありがとうございました」
ヘビ男は男性におじぎをすると、続けて声を発した。
「二人だけで話したいので、貝塚さんは席を外していただきたいのですが」
「え? 大丈夫ですか?」
貝塚という名前のようである男性は、心配そうに尋ねた。
「問題ございません。この方、凶器は持ってらっしゃらないのですよね?」
「はい」
今のやりとりの通り、僕は素手で殴りかかったのみならず、武器となる道具を携えもしなかったのだ。そういったものは扱い慣れていないので、意に反して致命傷を負わせてしまうなど、うまくコントロールするのは困難と判断したからである。
「それでも……」
貝塚氏はなおも懸念の表情を浮かべている。
「何かあった場合はすぐに呼びますので。そのときはお願いします」
ヘビ顔の男は、最初からであるがとても礼儀正しく、彼に頼んだ。
「わかりました。では、外で待機しておりますので」
「ありがとうございます」
ヘビ男は再び頭を下げ、貝塚氏は僕たちを残して部屋から退出していった。
「さてと」
そうつぶやいた眼前の化け物は、僕の向かいに配置されている、同じ型のソファーに座った。
わざわざ腕に覚えがありそうな貝塚氏を離れていかせたのだから、少なくともいきなり僕を始末する気持ちはないようだが、どういうつもりで二人きりの会話を望んだのだろうか?
それと、こいつは、年齢はいくつなのだろう? しわや白髪が目立ったりはしていないので、そんなにはいってないと思うけれども、普通の人間の顔ではないために、皆目見当がつかない。
「どういうことか、説明してくださいませんか? 私、あなたに恨みを買うようなことをしましたでしょうか?」
冷静に、ヘビ男は訊いてきた。
黙っていても状況は良くならないだろう。変化がないならましで、怒らせて立場が悪化する可能性が大だ。
そのように考えて、僕は思いつきで言葉を紡ぐことにした。
「大変申し訳ございませんでした。とても紳士的な方で、どうやら私の勘違いだったようですが、あなたが悪い人間であるという情報をもとに、あのような振る舞いをしてしまいました」
僕は頭を下げた。
「なるほど。どういった情報なのか存じ上げませんが、私を悪人であると信じたのは納得できますよ。こんな顔ですから、年中、怖い方に威嚇されたりしますしね。ただ、もう少し詳しく事情を話してはいただけませんか?」
「……すみません、勘弁してください。まだあなたが完全に問題がない方であるとまでは判断しかねますので」
「そうですか。わかりました」
よかった。腹を立てるんじゃないかと不安だったが、落ち着いたままだ。
「しかし、いくら私が悪い男で、なんとか対処しなくてはならないとしても、暴力行為に及べば、反撃されることにより、あなたも危険な状態に陥るリスクがあると思うのですけれども。凶器を使用すれば一撃で仕留めるのも可能でしょうが、何も持たず私に向かってこられましたよね?」
「殺害してしまうのは、いくら善くない人間の制御という目的を果たせても、さすがに好ましくありませんからね。まあ、流れによってはそうなっても仕方がないとも考えていましたが。それに……」
「それに?」
「自分の人生を諦めた、自暴自棄に近い気分のところでもあったので、あなたの悪事を阻止するのと引き換えに、命を落とすことになっても構わないかなというのも多少はありました」
「ほう。何かおつらい出来事があったのですか?」
「ええ……」
僕は——世の中が平和になるようにずっと努めてきた。
だからといって、自分を善人とは思わない。戦争を経験した人の多くが、地獄のような苦しみを味わった過去を思いだしたくないなどの理由から、そのことをしゃべりたがらないと聞くが、僕は体験者である祖父に幼少の頃から嫌というくらい当時の話を聞かされたり、自宅に「はだしのゲン」の全巻があったりして、戦争や平和について興味を抱く環境に恵まれたに過ぎない。
ともかく、戦争が行われていたときが日々遠ざかっていくなかで、人々は平和のありがたさを感じなくなっていき、危険な時代が到来する確率が高いと考え、再び日本や世界が道を誤らないようにと、団体に所属したり、個人でも、平穏な世を維持するための活動に力を注いできた。企業に勤めればおそらく仕事に忙殺されると、定職には就かず、人生を賭けるくらいの気持ちで取り組んできたのだ。
ところが、どうだ、近頃の世の中の右傾化ときたら。ヨーロッパにおける極右政党の台頭は少し前から見られていたが、日本でも保守色が強い政党が選挙で得票を伸ばし、外国人を排斥するといった動きが顕著になってきた。
今まで自分がやってきたことは何だったのかと無力感にさいなまれていた、そのタイミングで、店で食事を摂っている最中に、近くから頭の悪そうなカップルによる、こんな会話が耳に届いてきた。
「私、世の中は絶対に平和になんかならないってわかっちゃったんだー」
「え? なんで? なんで? ならねえの?」
「だってー、普通、生物は、食料にするために別の動物を殺したり、逆に殺されないように一生懸命逃げたりして、毎日を過ごしてるでしょ。でも人間は無敵でそういう相手がいないから、言ってみれば退屈で、わざわざ自分たちで争って、殺し合うまでしてるわけ。だから、もし平和になったら、やることがなくなっちゃうじゃん。つまり、口では平和がいいってよく言うけど、人間は本音では、暇になるのが嫌で、そんなもの望んでないんだよ。ってことで、平和には絶対にならないの」
「なーる。お前、頭いいなー」
それを聞いた直後は、「バカなことを言うな」と思った。
しかし、僕も薄々気づいていたんだ。人間が完全に平和な社会を実現するのは不可能なのだと。
というのも、学生時代に僕自身「どうして人は、同じ動物同士で殺し合うのだろうか?」と考え、カップルの女性が口にしていたように人間には天敵が存在しないから、「他の生物に殺されるのはまれだから、数が増えすぎることで絶滅してしまう危険を回避するためなのだ」と結論づけていた。その記憶が蘇ったのだけれども、要するに僕も、人間が殺し合うのは必然で、世の中は完全には平和にならないと悟っていたわけだし、あのときのカップルを、「頭の悪そうな」と表現したように、見下していた愚かな自分にしばらくして気づき、「平和を成し遂げようと長年活動してきた男の本性がそれか。そりゃ争い事がなくなるはずはない」と、そこでも絶望した。
こうして、自殺をするとはいかないまでも、死んでもいいかと、自分の人生に対して投げやりな気分になっていたさなかに、よく見かける真面目で良い印象の女性に危機が迫っている雰囲気の場面に遭遇し、「せめて彼女を救って、結果、己の命を落としても本望だ」くらいの精神状態だったということなのである。
「そうですか」
じっと耳を傾けていた、角田氏はつぶやいた。
僕はどうやらこの人を見誤っていたようだ。時間が経過して容姿に慣れてくると、彼から邪気といった類の悪いものをまったく感じないのに気がついた。それどころか、かなりの善人である空気感が漂っている。
ゆえに、テキトーにしゃべるつもりが、つい途中から正直に、訊かれてもいない自分の過去までべらべら語ってしまった。
とはいえ、さすがに完璧に信用とまではいかないので、最後のあの彼女に関わるところだけは口にしないようになんとか踏みとどまったが。
「実は私も、平和について関心があって、よく考えるんですよ」
角田氏はそう述べて、話しだした。




