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裏回し  作者: 柿井優嬉


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7-1

「ハー」

 車が左右からビュンビュン行き交う、長くて幅も相当ある巨大な橋の歩道部分から、川を見下ろしていた僕は、ため息をついた。

 その川までの距離はかなりあるし、ここから飛び降りたら、死ねるかな? 即死とはいかなくても、流されているうちに息が絶えるんじゃないか? 暦じょうは春だけれども、まだ肌寒いから、体が冷えるだろうし。

 そんなことをずっと考えていた。

 でも、実際のところは、僕に死ぬ勇気なんてないから、現実を逃避する慰めみたいな行いだったのかもしれない。

 とにかく、どれくらいだろうか、けっこう長い時間、同じ状態でいたはずだ。

「すみません」

 背後から、そう声がした。

 振り返った僕は、はっとした。清楚な感じで非常に美しく、はっきり言えば好みのタイプの、おそらく二十代であろう若い女の人が、心配そうな表情でこっちに視線を向けていたのだ。

「どうかされたんですか? じっと川のほうを見ていらして、お顔を覗いたら、とてもつらそうでしたので、気になりまして」

「あ、いや、ちょっと……」

 僕は答えに窮した。

「体調が優れないのではなく、何か大変な思いをされてらっしゃるのですね。私で良ければ、お話をうかがいますけれども?」

「え……」

 ほんの一分くらい前まで、自殺さえ頭にあったくせに、綺麗な女性が話を聞いてくれるというだけで、それに甘えるなんて、みっともない、とは思いつつ、僕はこの幸運を手放したくない衝動に突き動かされた。

「あ、ありがとうございます。実は……」


「どうりで。鈴木さん、真面目そうなお方だなと思ったんですよ」

「ハハハ、そうですか?」

 目の前の素敵な女性に、しっかりした人間だと思っていたというその言葉を口にしてもらって、嬉しくて本気で照れた。ちんちくりんといった見た目で、容姿を馬鹿にされるときが少なくないので、社交辞令もあるにしてもそれだけでそう判断されて、なおのこと。

 ついあの場で話し始めてしまったが、長くなりそうだと我に返り、橋とその先の道の分岐点にある休憩できるスペースに移動してから、僕は、自分の名前と、東京二十三区内の役所で働く公務員であることを、彼女に教えたのだった。

「役所のお仕事って、ご苦労が多いでしょう? 社会や経済活動から取り残された人たちにとっては最後の砦で、どれだけ対処が難しい問題を抱えているとしても、そう簡単に見捨てるわけにはいかないですし、今は非正規の立場の方も大勢いるのに、安定した職業であぐらをかいているように住民に思われてしまっているであるとか」

 まさに!

「ほんっとに、その通りなんですよ。そんなにも理解してくださっていて、すごく嬉しいです」

 やらないけれども、できることならば、手を取って、感激を体で表したかった。

 彼女の名は、人見由紀恵さんだそうだ。ただ美人なだけじゃない、こんなに素晴らしい人と、とりわけ今のタイミングで出会えるなんて、神様が哀れな僕に手を差し伸べてくれたのかな。

「ただ、仕事がきついことは、就職する前に当然詳しく調べますから、わかっていたんです。それでも、困っている人の力になりたいという当初からの思いを貫いて、第一志望を民間企業に変えたりはしなかったんですが、僕はできない人間で、同僚たちに迷惑をかけっぱなしなんですよ。そのうえちょっと前に、数少ない親友の一人に、銀行にお金を預けるだけだと利子がついても物価がもっと上昇するぶん目減りして損にすらなるから、将来のためにニーサをやったほうが良いと勧めていたのですけれども、証券口座が乗っ取られる事件があったじゃないですか。その被害に親友も遭って、利用していた金融機関から半額しか補償してもらえず、『お前がニーサをやれって言ったせいだぞ!』と怒って、絶交されてしまいまして。助けるどころか、他人に邪魔なことばかりしている僕なんか、この世からいなくなったほうがいいんじゃないかと、悩んでいたというわけなんです」

 説明するのでしゃべっていて、また気持ちがへこんできた。

「そうだったんですか。本当につらい思いをされていたのですね」

 人見さんは心から同情してくれている表情で言った。

 や、優しい~。

「あの、初対面で差し出がましいと思いますが、ぜひ鈴木さんのお役に立ちたいんです。よろしいでしょうか?」

 え?

「と、申しますと?」

「もっとお話をさせていただきたいので、時間が大丈夫でしたら、私が使っている部屋に来てくださいませんか?」

「ええっ」

 あ、あなたの部屋に?

「安心してください。私の自宅ではなく、他にも大勢が出入りしている、事務所のようなところですので」

「……そうですか……」

 自宅のほうがいい、だなんて、はしたない考えか。

「ここでさよならとなってしまうと、鈴木さんのことが心配で、ずっと気になってしまうと思うので。駄目でしょうか?」

 彼女は、やはり親身な態度の、まっすぐな瞳で、僕に問いかけた。

「わ、わかりました。今日は日曜日ですし、僕は独り身でこの後予定もないですから、時間はまったく問題ありません。今、あなたに話を聞いていただいて、気持ちがずいぶん楽になりましたし、僕もこの場で別れるのはちょっと寂しいので」

「ありがとうございます」

 人見さんは頭を下げた。

 無関係でありながら僕のためを思ってしてくれているのに、お願いするという下の目線からの振る舞いで、本当にどこまで善い人なんだ!

「では……」

 彼女は辺りを見回し、こっちの方向に走ってくるタクシーを停めた。

「すみません——」

 身を乗りだして、運転手にどこか行き先を告げ、車は発進したのだった。


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