15.アルシェ公爵領の夜
その日はアルシェ公爵家に泊まることになっていた。
夕食後、客間に案内されて、わたくしとお義兄様は別々の部屋に入った。別々ではあるが隣り合っていて、ベランダは繋がっているようだった。
部屋の中は暖炉に火が点っていて温かい。
荷物を部屋に置いて、わたくしは部屋から出るとお義兄様の部屋のドアをノックした。
お義兄様はすぐに出てきてくれた。
「少しお話しできますか?」
「わたしもアデリーと話がしたいと思っていた」
アルシェ公爵家のティールームを借りて、わたくしはお義兄様と向かい合って座っていた。
テーブルの上には湯気の立つ温かい紅茶と、摘まめるように小さなチョコレート菓子が置いてある。チョコレート菓子を一つ摘まむと、ほろ苦く甘い味が口いっぱいに広がって、そこに紅茶を飲むと、紅茶とチョコレートの香りが混ざってとても美味しかった。
「ブランシュ嬢をオーギュストの被害者の女性たちに会わせるとなると、バロー伯爵夫妻の了承がなければいけませんよね」
「それはわたしも考えていた。バロー伯爵夫妻は娘の心の傷についてどう考えているのだろう」
ずっと触れないでいたようではあるが、娘が傷付けられたことに関して、バロー伯爵夫妻が無関心だったとは考えたくなかった。
お義兄様が言ったように、親であるからこそ、娘の傷に正面から向き合うことがつらいという現実もあるのかもしれない。
「わたくしは、ミレーヌ殿下に恋文の件を話すにしても、ブランシュ嬢と引き離してからの方がいいような気がするのです」
「それは私も同感だな。ブランシュ嬢がミレーヌ殿下にどんなことを吹き込んでいたのかも気になる」
わたくしの意見にお義兄様は賛同してくれる。
ブランシュ嬢が今回のわたくしへの嫌がらせの原因だとしたら、ミレーヌ殿下はブランシュ嬢がそばにいる限り、わたくしへの敵意を捨てないのではないだろうか。
それではミレーヌ殿下と腹を割って話すことができない。
「ブランシュ嬢以外に、ブランシュ嬢のサロンに参加している生徒はいるはずだよね。その生徒から話を聞けないかな」
「そうですね。それができれば、ミレーヌ殿下がブランシュ嬢になにを吹き込まれたのか分かるかもしれません」
少しは問題が解決に向かって進展しそうな気配にわたくしは紅茶を飲んで喉を潤す。
お義兄様も紅茶を飲んで、赤い水面に視線を落としていたが、ふっとわたくしを見て微笑んだ。
「こんな風に話していると、アデリーとクラリス夫人との婚約破棄を一緒に考えていたころを思い出すね」
「あのころはわたくしは小さかったですから、できることも限られていて、不自由でした」
「今も学生の身で、アデリーはよく頑張っているよ」
わたくしがお義兄様とクラリス夫人の婚約破棄のために奔走していた時期は、階段から落ちて死んでしまってから五歳に戻ってからだった。五歳の体は手首が安定しなくて文字を書くのも一苦労で、クラリス夫人とお義兄様の婚約を解消させようと思ってもできることが少なくて大変だった。
わたくしがお義兄様に協力を頼んで、ヴィクトル殿下も協力してくれるようになって、なんとかクラリス夫人との婚約解消にこぎつけて、わたくしとお義兄様が婚約できるようになったときの喜びは忘れていない。
「アデリーはあのころは勢いで突っ走ってしまうところがあったけれど、今回の件を見ていて、ミレーヌ殿下と話し合いの場を設けてもらったり、ブランシュ嬢がアデリーの万年筆を壊してもブランシュ嬢が救われる方法を考えたりしていて、アデリーの成長を感じているよ」
「ブランシュ嬢のことは、お義兄様が医学知識で被害者が加害者に共犯のような感情を持つことを教えてもらったからです。わたくしもお義兄様が助けてくださらなかったら、オーギュストの被害者になっていたのです。ブランシュ嬢のことは気の毒に思っています」
クラリス夫人のときには、わたくしはひたすらに婚約解消のことだけを考えていたが、ミレーヌ殿下とブランシュ嬢の嫌がらせについては、クラリス夫人のときのように簡単ではない。
クラリス夫人の婚約解消は、クラリス夫人が平民のジャンに懸想して無理やり迫っていて、婚約者であったお義兄様を蔑ろにしたという明らかな非があったが、ミレーヌ殿下とブランシュ嬢の場合にはもう少し問題が複雑だった。
「ミレーヌ殿下はブランシュ嬢になにか吹き込まれている様子です。ブランシュ嬢はオーギュストから受けた被害のせいで心に傷を負っていて、それで思考がねじ曲がっている気がします」
「ブランシュ嬢はオーギュストのことを愛していると思い込んでいて、オーギュストを断罪したわたしとアデリーが憎いのだろうね」
「おそらくはそうでしょうね」
ブランシュ嬢が断罪されたオーギュストの減刑を国王陛下に願っていたことからも、わたくしとお義兄様がブランシュ嬢に憎まれていることは明らかだった。
だからこそ、ブランシュ嬢にはオーギュストと会って、真実を突き付けなければいけない。
「クラリス夫人の不貞の証拠を掴んでいたころは、ヴィクトル殿下とわたしとアデリーで協力していたね」
「そうでしたね。ヴィクトル殿下がとてもよくしてくれました」
わたくしが言えば、お義兄様が苦笑している。
「アデリーがヴィクトル殿下をあまりに頼りにするから、わたしは少し妬けていたのだよ」
「え!? お義兄様が!?」
「わたしだって頼りになるところを見せたかった。わたしもまだ子どもだったからね」
お義兄様は体の成長は早かったが、クラリス夫人を断罪したときには、まだ十二歳だったのだ。子どもっぽく焼きもちを妬いてもおかしくはない年齢である。
それにしてもお義兄様にもそんなところがあっただなんてわたくしは驚いていた。
「お義兄様はいつも完璧で、格好よくて、大人っぽいと思っていました」
「わたしだって子どもだったよ。今もまだ、アデリーのことになると子どもっぽい考えを持ってしまいそうになる」
「そうなのですか? お義兄様は王立アカデミーに通われるようになって、冷静に物事を判断できるようになられたと尊敬していたところでした」
わたくしが言えば、お義兄様はため息をついて目を伏せる。長い睫毛がお義兄様の頬に影を作った。
「アデリーが万年筆を壊されて泣いていたとき、わたしはアデリーを泣かせた相手を許さないと思っていた。でも、すぐにわたしの怒りよりも、目の前で泣いているアデリーを慰めることを先にしなければいけないと思い直したのだよ」
「そうだったのですね」
「ブランシュ嬢に関しても、アデリーの万年筆を壊したことに関しては許していないよ。その上で、自分の傷を自覚して、反省できるようになったら、アデリーに正式に謝罪してもらおうと思っている」
お義兄様はそこまで考えてブランシュ嬢の治療を進めていたのだったのか。
お義兄様の深い考えにますますわたくしはお義兄様を尊敬する。
「お義兄様はやっぱり、格好いいです」
「アデリーにだけそう思われていたら嬉しいね」
他の相手なんてどうでもいい。
わたくしにだけ思われていたら嬉しい。
そう言うお義兄様に、わたくしは熱くなった頬を押さえて俯いた。
お義兄様とティールームで話をした後、わたくしは部屋に戻って、お風呂に入って暖炉の前で髪を乾かした。
長い髪を乾かしていると、オーギュストの顔が脳裏にちらつく。
――わたしはアルシェ家のオーギュスト。王宮を歩いていたらこんな可愛い妖精さんに出会えるとは思いませんでした。お嬢さん、少しお話をしてもいいですか?
――え、遠慮いたします。失礼します。
――待ってください。その蜂蜜色の長い髪、生まれたときから切っていないのではないですか。芳しい香りがしそうですね。
わたくしが王宮のお茶会でお手洗いに行ったとき、お手洗いの横で待っていたオーギュストは、わたくしと呼び止め、わたくしの体を壁に押し付けるようにして、わたくしの髪を一筋手に取り匂いを嗅いだのだ。
思い出すだけで鳥肌が立ちそうな記憶に、わたくしはゆっくりと息を吸って吐く。
ブランシュ嬢がオーギュストの被害者の女性たちと面会するときに、わたくしも同席しなければいけないだろう。
オーギュストの所業を聞くのかと思うと体が震えてくるが、目を閉じてお義兄様の姿を思い浮かべる。
長身で立派な体格のお義兄様。
「大丈夫……お義兄様が一緒ですから」
お義兄様がいてくれればきっと大丈夫だ。
わたくしは自分に言い聞かせていた。
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