8.壊された万年筆
その日からミレーヌ殿下とブランシュ嬢の嫌がらせは続いていたが、ミレーヌ殿下のお育ちがいいせいか、嫌がらせがとても分かりやすく、ダメージも少ないのである。
二年生のわたくしと四年生のミレーヌ殿下とブランシュ嬢が出会うのは廊下が多いのだが、そこですれ違いざまに、「バルテルミー家の養子の令嬢が来ましたわ」とかひそひそと言い合うだけで実害がない。
これが物を隠されたとか、物を取られたとか、物を壊されたとかだったら、わたくしも黙ってはいないのだが、お上品に陰口を叩くくらいなので大したことはないと気にしていなかった。
わたくしが全く気にしていないのでマノンお姉様もダヴィド殿下も出る幕がない。
ミレーヌ殿下はヴィクトル殿下に嫌な印象を持たれたくないのか、わたくしの件は伝えていないようなので、ヴィクトル殿下からお義兄様に嫌がらせのことが伝わることもなかった。
わたくしはミレーヌ殿下は嫌がらせまで上品でダメージが少ないことをされるのだなぁと思いながら、いつも通りに学園生活を過ごしていた。
お昼にはバルテルミー公爵家のタウンハウスからお弁当を持って行けるようになったので、わたくしは食べにくいサンドイッチから解放された。
一口サイズの食べやすいサンドイッチが何種類も入っているお弁当は、目にも楽しく、食べるのも幸せだ。
「お義兄様のサンドイッチは大きめなのですね」
「わたしは体が大きいからね。アデリーはそれだけで足りるの?」
「はい、十分です」
ハムとキュウリのサンドイッチ、サラミとチーズのサンドイッチ、卵のサンドイッチ、デザートにはジャムを挟んだサンドイッチもあって、わたくしは少しずつのサンドイッチをたくさん味わえて幸せだった。
昼食を終えると、お義兄様を王立アカデミーと学園を繋ぐ長い階段の下まで見送って、授業棟に戻るのだが、その途中でわたくしはミレーヌ殿下とブランシュ嬢に出会ってしまった。
ミレーヌ殿下とブランシュ嬢もヴィクトル殿下をお見送りに来ていたようだ。
お義兄様は先に上がって行ってしまったし、お義兄様に気付いてヴィクトル殿下もその背中を追いかけて足早に階段を上がっていく。
「マックス、教室まで一緒に行こう」
「いいですよ」
お義兄様とヴィクトル殿下が見えなくなると、ブランシュ嬢がわたくしを睨み付けてきた。
わたくしがブランシュ嬢とミレーヌ殿下に一礼して授業棟に向かおうとすると、ブランシュ嬢がわざとわたくしの体に体をぶつけてくる。
悲しいことに、わたくしの体はやや小柄である。ブランシュ嬢にぶつかられて、持っていたカバンを落としてしまった。
カバンの中から教科書やノート、それに万年筆の入った革のケースが転がり出る。
「これは失礼しました、アデライド嬢」
全く謝っているような顔をしていないブランシュ嬢が言うのに、わたくしが膝をかがめて教科書やノートを拾い集めていると、ブランシュ嬢の靴の爪先が万年筆の入った革のケースに当たる。
ミレーヌ殿下はブランシュ嬢に「やりすぎではないですか?」と言っているが、ブランシュ嬢は止まらなかった。
「あら、失礼」
口では謝りながらも、明らかに足を持ち上げてブランシュ嬢は万年筆の入った革のケースを踏みつけた。
べきっと破壊音が鳴って、わたくしは地面に膝をついてブランシュ嬢の足を持ち上げて、皮のケースを取り上げていた。
中身を確認すると、お義兄様とお揃いの万年筆の軸が折れて曲がっている。中からは入れておいたインクが零れて、わたくしの手を汚していた。
「ブランシュ嬢、今、わざとわたくしの万年筆を踏みましたね?」
「何のことでしょう? 落ちていたのに気付きませんでした」
「この万年筆は、お義兄様と色違いのお揃いの、大切なもので……」
わたくしは喉が詰まって、それ以上言葉が出なくなってしまう。
わたくしがこの程度は大丈夫だろうと判断して、ブランシュ嬢を増長させてしまったのかもしれない。わたくしの反応があまりにも希薄だったために、ブランシュ嬢はエスカレートしてしまった。
挙句に、わたくしの大事な万年筆を踏みつけて壊してしまった。
この万年筆はお義兄様と色違いのお揃いで買って、お義兄様もわたくしも自分の名前を刻印して大事に使っていたものである。それが無残にも踏み躙られたことで、わたくしはショックを受けていた。
泣きたくなどないのに、涙が零れてきそうになる。
「ブランシュ嬢、やりすぎたのでは……」
「わ、わたくしは、わざと踏んだのではありませんわ。落ちていたから、踏んでしまっただけなのです。そう、うっかりと」
わたくしの涙に動揺しているミレーヌ殿下は、ブランシュ嬢がここまでするとは思っていなかったのかもしれない。わたくしはブランシュ嬢の言い訳をこれ以上聞いていたくなくて、折れた万年筆を大事にハンカチで包んで、零れた涙もそのままに午後の授業に向かった。
授業棟に行くまでには涙は止まっていたが、わたくしはハンカチに包まれた壊れた万年筆を握って、とても悲しい気持ちになっていた。
お義兄様は万年筆を色違いで買おうと言ったときに、あんなに喜んでくれた。それをブランシュ嬢に踏み躙られてしまった。
午後の授業が終わってお茶の時間にサロンに行くと、マノンお姉様とダヴィド殿下がわたくしを待っていてくれた。
お二人はブランシュ嬢がわたくしの万年筆を壊したことを知っていた。
「アデライドが泣くだなんて、ブランシュ嬢はなんということをしたのでしょう」
「アデライド嬢、大丈夫ですか?」
もうすっかり涙も止まっていたが、気持ちが落ち着いたわけではない。ハンカチに包まれた壊れた万年筆と、洗っても取れなかった万年筆のインクが付いた手を見て、ため息をつくわたくしに、マノンお姉様もダヴィド殿下も我慢ができなくなった様子だった。
「もう許してはおけません。このことを伯父様と伯母様とマクシミリアンお兄様に伝えましょう」
「兄上にもです。ブランシュ嬢とミレーヌ殿下はしてはならない領域に踏み込みました」
我がことのように怒ってくれるマノンお姉様とダヴィド殿下に、わたくしは何とか微笑むことができた。
「お義兄様とお義父様とお義母様にはわたくしから話します」
「ついていなくて平気ですか?」
「ありがとうございます、マノンお姉様。わたくし、一人で平気です」
「兄上にはわたしから伝えますね」
「お願いします、ダヴィド殿下」
さすがに大事な万年筆を壊されてまでミレーヌ殿下とブランシュ嬢を野放しにすることはできなかった。
わたくしがお義父様とお義母様とお義兄様にこの件を報告する決意を固めていると、マノンお姉様が拳を握り締めている。
「わたくしがニコラのように剣が使えたら、決闘を申し込んでブランシュ嬢を叩きのめしてやるのに!」
マノンお姉様は軍人の多い辺境伯領の出身で、兄のエタンお兄様は士官学校を卒業しているし、双子のニコラお兄様も士官学校で軍人になるために勉強している。マノンお姉様は女性だったので一人、王都の学園に通うようになったのだ。
「わたしは剣術も習っています。わたしが決闘を申し込みましょうか? ……いえ、マックスが聞いたら、マックスが申し込みそうですね」
「血生臭い話はやめてください。ミレーヌ殿下はブランシュ嬢を止めていて、ブランシュ嬢が暴走していたように見えました」
「それでも、ミレーヌ殿下の存在がブランシュ嬢に無謀なことをさせたのだったら、二人とも裁かれなければいけません」
ダヴィド殿下も拳を握り締めて怒りを表現している。
大事にはしたくなかったので、わたくしはダヴィド殿下にもマノンお姉様にも怒りをおさめてくれるようにお願いした。
学園から戻ると、わたくしはお義父様とお義母様に話があるとバズレールさんに伝えてもらった。
夕食は家族で食べることになったけれど、夕食の前に王立アカデミーから帰ってきたお義兄様を見ると、わたくしの涙腺が崩壊した。
ぽろぽろと涙を流すわたくしに、お義兄様が何ごとかと驚いて、わたくしを軽々と抱き上げてティールームに連れて行った。ティールームで紅茶を入れてもらって、飲みながらわたくしはお義兄様と話すことになった。
「実は、新学期に入ってから、ミレーヌ殿下とブランシュ嬢に嫌がらせを受けていたのです」
「その話は聞いていたよ。アデライドが誤魔化して話したくなさそうだったので、話してくれるまで待とうと思っていた」
わたくしがサンドイッチの話で誤魔化したとき、お義兄様は既にミレーヌ殿下とブランシュ嬢の嫌がらせに気付いていたようだった。気付いていながら、お義兄様はわたくしを信頼して、わたくしが話し出すまで待っていてくれた。
インクで汚れたハンカチを取り出し、わたくしはその中に入っている折れて壊れた万年筆をお義兄様に見せた。
「嫌味を言われる分には実害がなかったので放っておいたのですが、それでブランシュ嬢を増長させてしまったようなのです。今日、ぶつかられて、カバンから教科書やノートと一緒に万年筆の入った革のケースが落ちて、ブランシュ嬢がそれを踏んで……」
「アデリー、それで泣いていたのか」
「ごめんなさい。わたくし、お義兄様と色違いでお揃いの万年筆、ずっと大事に使おうと思っていたのに、壊されてしまった……。わ、わたくし……」
涙が出て来て止まらなくなったわたくしを、お義兄様が椅子から立ち上がって優しく抱き締め、髪を撫でてくれる。涙を必死に堪えていると、お義兄様が体を離し、わたくしの手の上に乗っている壊れた万年筆を確認した。
「軸は壊れているが、ペン先は無事なようだね」
「ペン先は無事?」
「万年筆で一番大事なのはペン先なんだ。これが一番手間がかかっている。ここが無事なら、軸を取り替えて修理することができるよ」
「修理できるのですか?」
「アデリーが望むなら、すぐにでも修理に出そう」
「お願いします、お義兄様」
お義兄様と色違いでお揃いの万年筆が修理できる。その話を聞いてわたくしはほっと胸を撫で下ろした。お義兄様が万年筆を大切にわたくしの手から取って、侍女に修理に出すように命じている。
お義兄様と色違いでお揃いの万年筆を壊してしまったという罪悪感と悲しみでいっぱいだった胸の中が、少し明るくなった気がした。
夕食の席で、わたくしはブランシュ嬢とミレーヌ殿下にされたことをお義父様とお義母様に報告した。
お義父様もお義母様も真剣に聞いてくれた。
「わたくしが養子なのは確かですし、口で何か言われるのくらいは平気だと放置していたのがいけなかったのかもしれません。ぶつかってきて、物を壊すようなことをしてくるとは思いませんでした」
「これは由々しき問題だ」
「バロー伯爵家にも、隣国にも伝えなければいけませんね」
お義父様もお義母様もことを重大に受け止めてくれたようだった。
「わたくし、分からないのです。ブランシュ嬢とミレーヌ殿下がどうしてわたくしのことをそんなに嫌うのか。お義父様、お義母様、今回のことは厳重注意ということにして、もう少しわたくしに学園で情報を集めさせてくれませんか?」
「兄上に言って、本人に聞けばいいのではないか?」
「いえ、それでは本当の気持ちは分からないでしょう。本当のことを言うとも限りません。もう少しわたくしに時間をください」
万年筆を壊されてしまったのはショックだったが、万年筆は修理ができるということで、わたくしの気持ちも少し落ち着いてきていた。
わたくしはブランシュ嬢とミレーヌ殿下の気持ちが知りたい。
ミレーヌ殿下はブランシュ嬢の暴走を止めようとしていた。
もしかするとミレーヌ殿下とは分かり合えるなにかがあるのかもしれないとわたくしは希望を失っていなかった。
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