第82話 次元神を書き換える最初の一歩
――神界到着後・初日――
神界へ到着してから、しばらく後。
滞在に使う部屋と必要な設備について説明を受けたはちは、アテナとフィナの案内で研究棟へ来ていた。
神界の中央区画から、光で形作られた橋を二つ渡った先。
幾つもの浮遊島の中でも少し離れた場所に、その研究棟は存在している。
白い石材で作られた外観だけを見れば、巨大な神殿のようだった。
しかし、内部へ足を踏み入れると、その印象は大きく変わる。
壁には複雑な術式と情報表示板が並び、透明な管の中を色の異なるエネルギーが流れている。広い通路の左右には幾つもの研究室があり、その一つ一つが強固な隔離障壁で守られていた。
「わふっ……」
はちは、灰色の瞳を輝かせながら周囲を見渡した。
「これは、想像していた以上ですねぇ……」
「珍しい設備ばかりですか?」
フィナが尋ねる。
「はい♪ 術式と機械技術が、無理にどちらかへ寄せられず、一つの仕組みとして組み込まれています。アルカディアの設備とも似ていますけど、基礎になっている考え方が違いますね」
はちは壁面を流れる光へ顔を近付けた。
情報を記録する術式。
出力の変化を読み取る観測装置。
異常を検知した瞬間、研究対象を別空間へ隔離する安全機構。
どれも、初めて見るものばかりだった。
「はちさん」
アテナが、少し後ろから呼び掛けた。
「設備をご覧になるのは構いませんが、今日は次元神プログラムの確認から始める予定でしたね」
「……わふっ」
「いろはさんからも、研究を始めると周りが見えなくなると伺っています」
「まだ研究棟へ入ったばかりですよ?」
「ですから、今のうちにお声を掛けました」
「アテナまで、いろはさん達と同じことを……」
はちが肩を落とす。
その隣で、ステラが小さく頷いた。
「……正しい判断」
「ステラまで!?」
フィナが堪え切れずに笑う。
緊張していたステラの表情も、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
神界へ入った直後は、懐かしい景色に戸惑っていた。
それでも、はちと共に研究棟を歩いているうちに、ここへ来た目的を改めて意識できたのだろう。
「こちらです」
アテナは、一つの扉の前で足を止めた。
扉の横へ手を添えると、表面へ金色の紋様が広がっていく。
『研究協力者――アテナ』
『同行者――フィナ』
『特別研究許可――安藤はち、ステラ』
順番に名前が表示された。
そのあと、幾重もの封印が解除され、重い扉が左右へ開く。
中にあったのは、円形の研究室だった。
中央には人が一人立てるほどの観測台。
その周囲を取り囲むように、複数の操作卓と記録装置が並んでいる。
さらに外側には透明な隔離壁があり、観測台で何か異常が発生した場合、研究室のほかの場所へ影響が及ばない構造になっていた。
「ここは、エネルギー構造と術式プログラムを調べるための部屋です」
アテナが説明する。
「次元神のように、複数の力が複雑に結び付いたものを扱うことも想定されています。はちさんとステラさんの構造を調べる間は、こちらを使わせていただくことになりました」
「なるほど……」
はちは観測台へ近付きながら、隔離壁の厚さを確認した。
「本体に異常が出る前に、外側の観測装置が流れを遮断するんですね」
「はい。ただし、設備が止めてくれるから安全だと思い込まないでください。次元神のすべてを想定して作られた設備ではありません」
「分かっています」
はちは、今度はふざけることなく頷いた。
左手首へ目を向ける。
そこには腕時計型デバイス――SIAが装着されている。
「シア」
『はい、ハチ様』
「これまでに解析した次元神プログラムと、全世界の知識から検索した改修方法を表示してください」
『承知しました』
――カシュッ。
SIA本体が、はちの左腕の外側へ展開する。
続いて青白い魔力ディスクが形成され、その上へ幾つもの立体画面が浮かび上がった。
カードを使うための展開ではない。
今回は記録と解析に使うため、シアの機能を研究室の装置へ接続しているのだ。
表示された画面には、次元神の力を構成する膨大な情報が並んでいた。
空間の認識。
次元座標の指定。
裂け目の形成。
転送先の固定。
攻撃を別空間へ逃がすための処理。
ディメンションボックスと接続するための経路。
そして、それらを動かす力を取り込むための根幹プログラム。
「……多いですね」
フィナが思わず呟く。
「これでも、今必要な部分だけに絞っています」
「これで、ですか?」
「次元神の能力を全部表示したら、この部屋だけでは足りないと思いますよ」
フィナの顔が引きつる。
アテナは驚きながらも、画面の一つへ目を向けた。
「こちらが、力を取り込む仕組みですね」
「はい」
はちは画面を拡大する。
複数の流路が、一本の中核へ繋がっていた。
「今の自分とステラが使っている次元神の力には、マイナスエネルギーを取り込む性質が残っています」
「……うん」
ステラが小さく頷く。
「ステラ自身が能力を使えないようにする封印とは、別の場所?」
「はい。今日は、その封印には触れません」
はちは、画面上の二つの領域を分けて表示した。
一方は、ステラ自身が単独で次元神の能力を発動できないようにする封印。
もう一方は、はちとステラがユニゾンした際に使用している、次元神のエネルギープログラム。
「書き換えるのはこちらです。自分とステラが一緒に使っている、力の取り込みと変換の仕組みです」
「……封印を、壊すわけではない?」
「壊しません。ステラが望んでいない部分へ、勝手に手を加えることもしませんよ」
「……分かった」
ステラの肩から、僅かに力が抜けた。
はちは、その様子を確認してから画面へ向き直る。
「当初は、先にプラスエネルギーの貯蔵庫を作ろうと考えていました」
「貯蔵庫を作り、それを新しい経路へ接続するお話でしたね」
アテナが以前の図面を広げる。
「はい。ですが、改めて次元神の構造を調べた結果、それでは完成しないことが分かりました」
はちは、貯蔵庫から次元神へ繋がる予定だった線を指差した。
「現在の次元神は、マイナスエネルギーを力の源として扱うように作られています。取り込み口だけをプラスエネルギー用に変えても、その先が受け付けてくれません」
画面上へ、簡単な試験構造を表示する。
プラスエネルギーが入り口を通過する。
しかし、中核へ近付いたところで流れが乱れ、赤い警告表示へ変わった。
「性質を判別する部分で拒絶される場合もあります。そこを通れたとしても、次はマイナスエネルギーを力へ変えるための変換処理で止まります」
「識別部分だけを変えても、十分ではないのですね」
「はい。さらに問題なのが、その先です」
はちは別の画面を開いた。
そこには、貯蔵庫と次元神の中核を接続する予定の構造が表示されている。
「貯蔵庫は、ただエネルギーを溜める箱ではありません。溜めたエネルギーを次元神の力として使える状態で保ち、必要なときに中核へ送る必要があります」
「……中身だけ、プラスにしても駄目?」
ステラが尋ねた。
「そういうことです」
はちは頷いた。
「現在の中核へプラスエネルギーを送っても、次元神の力として認識されません。最悪の場合、マイナスエネルギーとして動いている部分と反発します」
アテナの表情が僅かに曇る。
それは、ヘルカイザーに起きた暴走の仮説と同じだった。
膨大なマイナスエネルギー。
そこへ流れ込む、少量のプラスエネルギー。
双方を処理する仕組みがないために反発し、制御を失う。
同じ危険を、対策のために作る装置へ持ち込むわけにはいかない。
「ですから、順番を変えます」
はちは画面上の貯蔵庫を一度端へ移した。
「最初に、次元神の力の源をプラスエネルギーへ変更します」
「そのあとに、プラスエネルギーを蓄えられる貯蔵庫を作るのですね」
「はい。次元神側がプラスエネルギーを力として受け入れられなければ、貯蔵庫を完成させても接続できませんから」
アテナは、古い設計図と現在の画面を見比べた。
「取り込む性質、力へ変える処理、中核へ送る経路。そのすべてを先に整える必要があるのですね」
「無論、一度に本体を書き換えるつもりはありません」
はちは、シアへ顔を向ける。
「シア。現在の次元神プログラムを複製してください。実際に使っているものから切り離し、研究室の隔離領域へ展開します」
『承知しました。現在の構造を保護し、複製プログラムを生成します』
青白い光が魔力ディスクから研究室の中央へ伸びた。
観測台の上へ、巨大な球状の術式が形成される。
何重にも重なった光の輪。
その内側を走る、無数の文字列。
現在、はちとステラが使用している次元神プログラムを、安全な環境で再現したものだ。
「まずは、この複製へ変更を加えます」
「本体を残したまま、動きを確かめるのですね」
「はい。何か問題が起きても、こちらを停止すれば元へ戻せます」
はちは鞄から、神界へ来る前に作った資料を取り出した。
全世界の知識を使って見つけた、次元神プログラムの改修方法。
知識として存在していても、それをそのまま現在のプログラムへ当てはめられるわけではない。
構造の違い。
ステラとの接続。
はち自身の魔力経路。
今使っている能力を制御するシア。
すべてを確認しながら、変更する場所を決めなければならない。
「最初は、エネルギーの判別部分からですね」
はちは観測台の前へ座った。
「現在は、マイナスエネルギーを検知した場合に、取り込み経路を開くようになっています」
「プラスエネルギーを検知する条件へ、書き換えるのですか?」
「それだけではありません。性質を誤認しないための基準も必要です」
はちは複数の項目を並べる。
怨み。
憎しみ。
恐怖。
悲しみ。
それらから生じるマイナスエネルギー。
対して。
信頼。
思いやり。
安らぎ。
相手を大切に思う感情。
それらから生まれるプラスエネルギー。
ただし、感情の名前だけで判断できるほど単純ではない。
愛情に見えても、執着や支配欲が混じればマイナスへ傾くことがある。
悲しみの中にも、相手を大切に思う気持ちが残っていれば、プラスの性質が含まれることもある。
「名称ではなく、エネルギーそのものの性質を読み取る必要があります」
「人の感情を、勝手に善と悪へ分ける仕組みにはできませんね」
アテナが言った。
「はい。今回は感情を評価するのではなく、次元神が力として扱える波長を判別します」
はちは判別式の一部を書き換えた。
マイナスエネルギーへ向いていた基準を解除し、プラスエネルギーの特徴を読み取るための新しい条件を加える。
すぐに複製プログラムが反応した。
球状術式の一部が、紫色から白金色へ変化する。
「一つ目は、これで動くはずです」
「試験用のプラスエネルギーを用意します」
アテナが研究室の保管庫へ向かった。
取り出したのは、淡い金色の光を宿した小さな結晶だった。
「こちらは、魂を落ち着かせる術式を調整する際に使う、試験用のエネルギーです。誰かの感情から奪ったものではありません。神界の術式で、同じ性質を再現したものになります」
「量は?」
「最小単位に抑えてあります。異常が出た場合、すぐに供給を止められます」
「それなら、お願いします」
アテナは結晶を装置へ設置した。
フィナが隔離障壁の状態を確認する。
「全隔離障壁、正常です。緊急遮断術式も待機状態に入りました」
「シア。複製プログラムへ、試験用エネルギーを流してください」
『試験を開始します』
結晶から、一筋の金色の光が伸びる。
光は球状術式の外側へ触れ、最初の判別領域へ入った。
『プラスエネルギーを検知』
「通りました!」
フィナが声を上げる。
判別領域は警告を出していない。
プラスエネルギーを拒絶せず、次の経路へ送っている。
しかし。
『警告。変換領域で出力の乱れを検知』
「止めてください!」
『緊急遮断』
金色の光が途切れた。
球状術式の内側で、白金色と紫色の光が激しく明滅する。
隔離障壁が起動し、乱れた力を術式の中へ閉じ込めた。
数秒後。
すべての光が消え、研究室へ静けさが戻る。
「……失敗、ですか?」
フィナが不安そうに尋ねた。
「いいえ」
はちは、表示された記録を真剣に見つめていた。
「予想していた場所で止まってくれました。判別には成功しています」
「次の変換領域が、以前のままなのですね」
アテナが記録を確認する。
「はい。ここはマイナスエネルギーの波長を、次元神の力へ変換するように作られています」
はちは拡大した画面へ指を置いた。
「プラスエネルギーが来たことは認識できても、変換方法までは分かりません。そのため、以前の処理へ無理に当てはめようとして、流れが乱れました」
「……痛くない?」
ステラが、はちの顔を覗き込む。
「大丈夫ですよ。今のは複製プログラムですから、自分達の本体には繋がっていません」
「……よかった」
ステラは、ほっと息を吐いた。
はちは再び資料へ目を向ける。
「次は、変換処理です」
ここが、今回の改修で最も大切な部分だった。
プラスエネルギーを取り込めるだけでは意味がない。
それを次元神の力へ変え、ディメンションゲートやディメンションウォールを動かすための源にしなければならない。
「マイナスエネルギーは、強い偏りを持っています。その偏りを崩さず、出力へ変えるのが現在の処理です」
「プラスエネルギーでは、同じ方法を使えないのですか?」
「無理に圧縮すると、性質が変わってしまいます」
プラスエネルギーを作る思いやりや信頼は、力任せに押し固めればよいものではない。
強引に扱えば、守るための力が、束縛や支配へ近付いてしまう。
エネルギーとしても、同じことが起きる可能性があった。
「だから、圧縮ではなく循環させます」
「循環……」
「はい。一定の流れを保ちながら、次元神の力へ必要な分だけ変換するんです。残ったエネルギーは無理に使い切らず、貯蔵庫へ戻す」
はちは、まだ完成していない貯蔵庫の接続予定箇所を示した。
「これなら、貯蔵庫が完成したあとも、取り込んだプラスエネルギーを消耗品として一方的に使うだけではなく、循環させられます」
アテナは、その図をじっと見つめた。
「以前の貯蔵庫には、戻すための経路がありませんでした」
「はい。取り込み、溜め込み、必要なときに力として送り出す。流れは一方向でした」
「そのため、扱う方へエネルギーが流れ込み続けた……」
「同じ構造にはしません」
はちは、はっきりと言った。
「プラスエネルギーの貯蔵庫は、はち自身へ直接流し続けるものにはしません。必要な分だけ変換領域へ送り、使われなかったものは戻す構造にします」
「……私にも、流れ込まない?」
ステラが尋ねる。
「はい。ステラの中へ溜め込む仕組みにもしません」
その返事を聞き、アテナは静かに頷いた。
「では、その循環を前提として、変換処理を書き換える必要がありますね」
「手伝っていただけますか?」
「もちろんです」
アテナは、はちの隣へ座った。
かつてヘルカイザーと共に、マイナスエネルギーの貯蔵庫を研究していた知恵の女神。
そして今。
その研究を土台にしながら、以前とは異なる仕組みを作ろうとしている。
二人は古い資料と現在のプログラムを見比べ、一つずつ変更箇所を確認していった。
フィナは記録を取り、ステラも自分に関わる経路が表示されるたび、画面を覗き込む。
時間だけが、静かに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
「……こちらで、どうでしょうか」
最初の失敗から、およそ二時間後。
変換領域の複製が完成した。
プラスエネルギーを一度に圧縮せず、循環させながら必要量だけを次元神の力へ変える。
異なる性質が混ざった場合は、無理に処理せず流れを止める。
変換できなかったものは中核へ送らず、隔離経路へ戻す。
安全のための停止条件も加えられていた。
「シア。二度目の試験をお願いします」
『承知しました。試験用プラスエネルギーの供給を開始します』
再び、結晶から金色の光が伸びる。
『プラスエネルギーを検知』
判別領域を通過。
続いて、変換領域へ入る。
球状術式の内側へ、白金色の輪が一つずつ形成された。
一周。
二周。
三周。
循環するたびに、光の一部が透明な力へ変わっていく。
『変換処理、正常』
「成功です!」
フィナの声が研究室へ響いた。
だが、はちはまだ喜ばなかった。
「次は、中核への接続です」
変換できても、それが次元神の力として使えなければ意味がない。
「出力は最小。ディメンションゲートを完全には開かず、空間へ小さな波紋を作るだけにしてください」
『出力先を次元制御領域へ接続します』
透明な力が、球状術式の中心へ送られる。
研究室の観測台。
何もない空間へ、小さな波紋が浮かんだ。
――ぽちゃん。
水面へ一滴の雫が落ちたように、空間が揺れる。
普段の次元神が生み出す虹色の裂け目とは違う。
白金色の光を帯びた、穏やかな波紋だった。
「……開いた」
ステラが目を見開く。
波紋は裂け目へ変わる直前で止まり、そのまま静かに消えていった。
『試験出力、正常に終了しました』
「わふっ……」
はちは、そこでようやく息を吐いた。
「複製プログラム上では、プラスエネルギーを次元神の力として使えました」
「第一段階は成功ですね」
アテナが微笑む。
「はい。ですが、まだ本体へは反映していません」
はちは成功した記録を保存する。
複製の中で動いたからといって、はちとステラが同じように扱えるとは限らない。
実際のユニゾン状態では、二人の魔力と意思が次元神へ接続される。
そこで初めて現れる問題もある。
「一度、休憩しませんか?」
フィナが提案した。
「到着したばかりですし、ゼウス様からも無理をしないように言われています」
「まだ二時間ですよ?」
「二時間、ほとんど画面から目を離していませんでした」
「……はち、休む」
ステラが、はちの袖を掴む。
「でも、今ちょうど良いところで……」
「休む」
「……はい」
ステラに真っ直ぐ見つめられ、はちは素直に席を立った。
研究室の外に用意された休憩区画で、フィナが持ってきた軽食を食べる。
その間も、はちの視線は何度か研究室の扉へ向いていた。
アテナは、その様子に小さく笑う。
「研究が楽しいお気持ちは分かります」
「アテナも、早く続きを確認したいのでは?」
「否定はしません。ですが、急いで判断を誤れば、あとで確認することが増えてしまいます」
「……正論ですねぇ」
「それに、これから本体へ近い試験をするのでしょう?」
「はい」
はちは、手にしていた飲み物を机へ置いた。
「ただし、現在使っているプログラムへ直接上書きはしません。複製した新しい処理を、試験用の補助経路として一時的に接続します」
「問題があれば、補助経路だけを切り離すのですね」
「そうです」
「ステラさんは、それでよろしいですか?」
アテナが尋ねる。
ステラは、少し考えてから頷いた。
「……ハチと、一緒に見る。変だと思ったら、すぐ止める」
「約束します」
はちは、ステラへ小指を差し出した。
ステラは一瞬不思議そうに見つめたあと、自分の小指を絡める。
「……約束」
休憩を終えた四人は、再び研究室へ戻った。
◇ ◇ ◇
観測台の中央へ、はちとステラが並んで立つ。
周囲では、すべての隔離障壁が起動していた。
フィナは緊急遮断装置の前。
アテナは、プラスエネルギーの供給装置と、はち達の状態を確認できる位置に立っている。
「はちさん。少しでも異常を感じたら、試験を止めます」
「はい」
「成果を出すことより、二人が無事に試験を終えることを優先してください」
「分かりました」
はちは、ステラへ手を差し出した。
「ステラ。お願いします」
「……うん」
二人の周囲へ、淡い光が広がる。
「「ユニゾン・イン」」
光が重なり、ステラの姿がはちの中へ溶け込んだ。
はちの片目が金色へ変わり、灰色と金色のオッドアイになる。
黒を基調としたバリアジャケットが展開され、その周囲へ虹色を含んだ小さな次元の揺らぎが現れた。
『接続状態、正常です』
はちの内側から、ステラの声が聞こえる。
「シア。現在のプログラムを保護したまま、試験用の補助経路を接続してください」
『承知しました』
SIAから伸びた青白い光が、観測装置へ繋がる。
はちとステラが使っている次元神の中へ、複製したプラスエネルギー変換プログラムが一時的に接続された。
元のマイナスエネルギー経路は停止させない。
その代わり、試験中は遮断壁で分け、互いに混ざらないようにする。
『補助経路、接続完了』
「試験用プラスエネルギーを、最小量でお願いします」
アテナが供給装置へ手を添えた。
「供給を開始します」
金色の結晶から、ごく小さな光が放たれる。
その光が観測装置を通り、はちとステラへ繋がる補助経路へ入った。
「……っ」
はちの身体が、僅かに震えた。
「はちさん?」
「大丈夫です。痛みではありません」
これまで使っていた力とは、感触が違う。
冷たく重いものが流れ込む感覚ではない。
暖かな光が、身体の内側をゆっくり巡っていく。
『判別領域、正常』
シアの報告。
『変換領域、正常』
プラスエネルギーが次元神の力へ変わっていく。
しかし。
『警告。中核接続部で、微細な逆流を検知』
「供給を止めてください!」
はちが叫ぶ。
アテナは即座に装置を停止した。
フィナも緊急遮断術式を起動する。
補助経路が切り離され、はちの周囲から白金色の光が消えた。
「……ハチ」
ステラの声が、内側から響く。
「大丈夫です」
はちは何度か深呼吸した。
痛みはない。
意識も明瞭。
次元神の制御にも異常は出ていなかった。
「逆流は、どこからですか?」
『変換された力の一部が、停止中のマイナスエネルギー経路へ戻ろうとしました』
「遮断が足りなかった……」
はちは表示された記録を確認する。
原因は、次元神の力を各能力へ配る中核部分にあった。
そこには、現在のエネルギー源を常に確認し、不足した場合に元の経路へ戻るための仕組みが組み込まれている。
プラスエネルギーの出力が小さかったため、中核が力の不足と判断し、元のマイナスエネルギー経路を開こうとしたのだ。
「このままでは、二つの性質が混ざりますね」
アテナの声にも緊張が残っている。
「はい。出力が足りない場合、元の力で補う仕組みが残っています」
「削除するのですか?」
「いえ。試験中に削除するのは危険です」
元の経路は、現在のはちとステラが次元神を使うための大切な仕組みだ。
プラスエネルギーの貯蔵庫が完成していない今、それを完全に消せば、力を安定して使えなくなる可能性がある。
「切り替え式にします」
「切り替え式、ですか?」
「プラスエネルギーを使っている間は、元の経路へ戻らないようにする。出力が足りなければ、別の性質で補うのではなく、安全に停止するよう書き換えます」
「力を出し続けることより、混ざらないことを優先するのですね」
「はい。それに、最終的にはプラスエネルギーの貯蔵庫が補助をします。今は貯蔵庫がないので、供給が切れたら停止する方が安全です」
はちはユニゾンを一度解除した。
ステラが隣へ戻る。
「……もう一度、する?」
「修正して、確認してからです」
「……うん」
二人は観測台を下り、再び操作卓へ向かった。
中核の自動補充処理。
不足を検知する条件。
元の経路へ戻るための命令。
それらを一つずつ確認し、プラスエネルギー使用時には独立して停止できるよう変更する。
完全な切り替えではない。
まだ試験のための仮設処理だ。
けれど、この部分が完成しなければ、プラスエネルギーの貯蔵庫は接続できない。
「……できました」
はちが顔を上げた頃には、研究室の外が薄暗くなり始めていた。
神界の空に夜はない。
それでも、時間に合わせて浮遊島を照らす光が弱まり、休息の時刻を知らせる仕組みになっている。
「今日は、ここまでにしませんか?」
フィナが心配そうに言った。
「あと一度だけ、修正部分の動作を確認したいです」
「はちさん」
アテナも静かに名前を呼ぶ。
「本体へ接続する試験は、明日にしましょう。疲れた状態で行うべきではありません」
「……はい」
はちは少しだけ迷ったが、素直に頷いた。
いろは達と約束した。
食事と睡眠も、研究の一部として考えること。
焦って失敗すれば、ステラまで傷つけてしまう。
「では、今日は複製プログラム上で確認するところまでにします」
「その判断がよいと思います」
最後の試験が始まった。
プラスエネルギーを検知。
循環させながら変換。
中核へ送る。
供給量を意図的に下げる。
以前なら、元のマイナスエネルギー経路へ戻ろうとしていた場面。
しかし、今度は違った。
『プラスエネルギー不足を検知』
『ほかのエネルギー経路へ接続せず、安全停止へ移行します』
白金色の波紋が小さくなり、静かに消えていく。
反発は起きない。
逆流もない。
元の経路が開くこともなかった。
「成功です」
アテナが、ほっとしたように微笑んだ。
「はい……」
はちは画面へ表示された結果を見つめた。
まだ、次元神の力の源を書き換え終えたわけではない。
複製プログラムで、安全な切り替え方を見つけただけだ。
明日以降、はちとステラのユニゾン状態で再び試験し、問題がないことを確かめる必要がある。
それでも。
プラスエネルギーを次元神の力へ変える道は、確かに開かれた。
「これで、貯蔵庫へ進めますか?」
フィナが尋ねる。
「まだです」
はちは、未完成の貯蔵庫設計図を表示した。
「まず、このプログラムを自分とステラが安定して使える状態にします。次元神の力の源を、プラスエネルギーへ切り替えられることを確認する」
そして、設計図の中核へ一本の線を引く。
「そのあとで、ようやく貯蔵庫を作れます」
「貯蔵庫にプラスエネルギーを溜められても、使う側が受け入れられなければ完成とは呼べない……ということですね」
「はい。貯蔵庫と次元神は、別々の装置ではありません。力の流れとして繋がって、初めて完成します」
ステラが、画面の白金色の線へ指を伸ばした。
「……私とハチの力も、変わる?」
「変わります」
はちは、ステラの隣へ立った。
「ですが、ステラを別の存在へ変えるわけではありません。自分達が一緒に使う力の源を変えるんです」
「……マイナスから、プラスに」
「はい」
「……ハチと、一緒に?」
「一緒にです」
ステラは、白金色の線を見つめながら、小さく頷いた。
アテナも、古い設計図へ視線を落とす。
かつて、マイナスエネルギーを救済へ使おうとして始まった研究。
その仕組みは、長い時間の中でヘルカイザー本人を染め、取り込んだ力を自身へ流し続けるものになった。
今、はち達が作ろうとしているものは、その単純な反対ではない。
マイナスをプラスへ置き換えるだけでもない。
溜め込んだ力に支配されないようにする。
必要な分だけ循環させ、混ざれば無理に動かさず、異常が起きる前に止める。
以前の研究で足りなかったものを、一つずつ加えようとしている。
「はちさん」
アテナが呼び掛けた。
「今日の記録は、私にも写させていただけますか?」
「無論です。一緒に確認していただきたいですから」
「ありがとうございます」
アテナは記録媒体を取り出した。
「私の持っていた設計図にも、今日分かったことを書き加えます」
「アテナ様。私が試験の時間と供給量をまとめます」
フィナも記録端末を開く。
「お願いします」
四人は、その日の結果を整理した。
成功したこと。
失敗したこと。
逆流が起きた場所。
切り替え処理で変更した命令。
次に確認しなければならないこと。
どれも省かず、記録へ残していく。
やがて、シアがすべての保存を終えた。
『本日の研究記録を保存しました。複製プログラムは隔離状態を維持しています』
「ありがとうございます、シア」
『お疲れ様でした、ハチ様』
青白い魔力ディスクが消え、SIAが左手首の腕時計型へ戻る。
はちは研究室を出る前に、もう一度だけ観測台を振り返った。
何もない空間。
そこに先ほど、白金色の波紋が生まれた。
プラスエネルギーによって動いた、次元神の最初の反応。
「……最初の一歩ですね」
「はい」
アテナが答える。
「まだ先は長いですが、今日の試験で、進むべき順番は確認できました」
「次元神プログラムを書き換えて、力の源をプラスエネルギーへ変える」
はちは、鞄の中にある貯蔵庫の設計図へ触れた。
「それが終わってから、プラスエネルギーを蓄える貯蔵庫を完成させます」
順番を間違えてはならない。
貯蔵庫だけを作っても、次元神がその力を受け入れられなければ意味がない。
むしろ、異なる性質の力を無理に繋ぎ、ヘルカイザーと同じ暴走を招く危険がある。
だからこそ。
最初に変えるべきものは、力を蓄える器ではない。
その力を受け取り、扱い、次元神の能力へ変える根幹だった。
「明日も、続きをしましょう」
はちが言う。
「……うん」
ステラが隣へ並ぶ。
「でも今日は、休む」
「分かっていますよ」
「……本当に?」
「皆さん、自分を信用していませんねぇ」
「研究に関しては、少しだけ心配です」
フィナが笑う。
「わふっ……」
はちは頬を膨らませながらも、研究室へ戻ろうとはしなかった。
四人は照明の落ちた研究棟を歩き、滞在区画へ向かう。
その背後。
固く閉ざされた研究室の中では、隔離された複製プログラムが静かに保存されていた。
マイナスエネルギーを源としていた次元神。
その根幹へ初めて刻まれた、プラスエネルギーへ続く新しい経路。
貯蔵庫の製作へ進むための条件が、ようやく一つ整ったのだった。
――第82話・終――




