第81話 神界へ至る道、白き研究者の視線
アテナから神界の施設を使う許可が下りたと知らされた翌朝。
はちは、いろは達と共にAEGIS本部の転移区画へ来ていた。
足元には幾重もの術式が刻まれた円形の床が広がり、淡い光が一定の間隔で明滅している。普段は次元航行艦への移動や、緊急時の転送に使われる場所だ。
けれど、今日ここから向かう先は、通常の次元座標には存在しない。
神々が暮らす世界――神界。
そのため、はちが作ったポータブルゲートを使うことはできなかった。
「本当に、ポータブルゲートでは行けないんですねぇ……」
出発用の荷物を背負ったはちが、少し残念そうに呟く。
いつもの研究道具に加え、シアへ保存した解析記録、ステラの構造を調べた資料、着替えや日用品も入っているため、鞄は普段より少し膨らんでいた。
「神界は、ただ遠くにある世界ではありません」
アテナは転移区画の中央へ進みながら答えた。
「幾つもの次元層から切り離された領域にあり、神界側の門を通らなければ辿り着けません。はちさんのディメンションゲートでしたら、いつかは座標そのものへ手を伸ばせるかもしれませんが、今は無理に突破しない方がよいでしょう」
「神界の防壁に、侵入者だと勘違いされてしまうかもしれませんからね」
フィナが困ったように笑う。
「わふっ……それは嫌ですねぇ」
「今回は正式な許可をいただいています。私とフィナがご案内しますので、心配はいりません」
「はい♪」
はちは素直に頷いた。
そのすぐ隣には、ステラが立っている。
いつもと変わらない静かな表情だったが、胸元で重ねた両手には、ほんの少しだけ力が入っていた。
かつてアイリスと呼ばれていた少女にとって、神界は遠い過去の故郷でもある。
しかし、そこに残る記憶は、決して穏やかなものばかりではない。
「ステラ」
はちが小さく名前を呼ぶ。
「……うん?」
「無理に思い出そうとしなくてもいいですからね」
「……分かってる」
ステラは、はちを見つめた。
「でも……ハチと一緒なら、大丈夫だと思う」
「それなら、自分も一緒に行きます♪」
「……最初から、一緒に行く予定」
「そうでしたねぇ」
二人のやり取りを見て、フィナが柔らかく微笑む。
少し離れた場所では、いろは、レイ、かえで、咲が出発を見送りに来ていた。
ヴィリノは家を出る前に、はちへ何度も「ちゃんと帰ってきてね」と念を押している。最後には小さな指を差し出し、帰ってきたら一緒に遊ぶという指切りまで交わした。
その約束を思い出したのか、はちは無意識に自分の小指へ触れた。
「ハチちゃん」
いろはが、その前へ歩み出る。
「向こうに着いたら、まず連絡してね。神界から通信が届くかは分からないけど……何か方法があるんだよね?」
「はい。神界側の通信設備を通せば、短い連絡でしたら送れます」
アテナが答えると、いろはは安心したように息を吐いた。
「よかった……。研究が大事なのは分かってるけど、着いたばかりで無理をしちゃ駄目だよ?」
「わふっ。分かっていますよ♪」
「その返事をするハチちゃんは、研究を始めると時間を忘れるんだよね」
「……わふっ?」
「自覚がないみたいだね」
レイが苦笑しながら、はちの鞄の肩紐を整えた。
「食事と睡眠。どちらも研究の一部だと思って、ちゃんと取ること。ステラも、ハチが無茶をしそうになったら止めてね」
「……任せて」
「ステラ!?」
「私もフィナさんも見ていますから、大丈夫です」
フィナまで加わり、はちは味方を求めるように咲へ視線を向ける。
しかし、咲は腕を組んだまま、にっこりと笑った。
「私も皆さんと同じ意見よ。享――ハチは、何かに夢中になると本当に周りが見えなくなるもの」
「咲まで……」
「私はこっちで、必要な情報を整理しておくわ。向こうで足りない資料が出たら、すぐに言いなさい」
「……ありがとうございます」
咲は同行しない。
今すぐ神界へ行きたいという気持ちがなかったわけではない。けれど、神界で何をするのかも決めず、勢いだけでついていくことはしないと、自分で決めたのだ。
その代わり、アルカディア側で過去の戦闘記録や、ヘルカイザーが使った次元神の能力を整理する役目を引き受けていた。
かえでも、はちへ一枚の通信票を差し出す。
「AEGISから神界へ正式に協力を頼むための書類や。研究で必要になったら、アテナさんかゼウス様に見せてな」
「はい」
「こっちのことは任せとき。せやけど、何か見つけても一人で抱え込んだらあかんで」
「……分かりました」
はちは通信票を丁寧に鞄へしまった。
今度の返事には、いつもの軽い調子がなかった。
ヘルカイザーの暴走を抑える方法へ近付けるかもしれない。
だが、それは同時に、次元神の力を作り替える研究でもある。
一つ間違えれば、ステラを傷つけるだけでは済まない。
はちは、その重さを理解していた。
「では、門を開きます」
アテナが転移区画の中央で立ち止まった。
「はちさんとステラさんは、私たちから離れないでください。途中で何が見えても、勝手に道の外へ出ないようにしてくださいね」
「何が見えるんですか?」
「人によって違います。過去の記憶を見る方もいれば、まだ起きていない可能性を見る方もいます。何も見えない方もいます」
「それを先に言われると、余計に気になりますねぇ……」
「だからこそ、道から外れないようにしてください」
アテナは苦笑したあと、表情を引き締めた。
右手を前へ伸ばす。
その指先から金色の光が零れ、空中へ幾つもの線を描き始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
複雑な紋様が重なり、巨大な円環へ変わる。
フィナもアテナの隣へ立ち、背中の翼を広げた。
白い羽根から放たれた光が、金色の円環へ溶け込んでいく。
やがて。
――コォォォン……。
遠くで鐘を鳴らしたような音が、転移区画全体へ響いた。
円環の中心が、ゆっくりと左右へ開いていく。
その向こうに現れたのは、眩い光に満たされた一本の道だった。
床があるように見えるのに、足元のさらに下には、星々のような光が流れている。左右には壁も手すりもなく、果てのない空間が広がっていた。
「……綺麗」
ステラの口から、自然と言葉が零れた。
「これが、神界へ続く道ですか……」
はちも灰色の瞳を大きく見開く。
光の道を見た瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
以前にも、似たような光を見たことがある。
金城享司としての生を終え、次に目を開けたとき。
アテナとフィナに出会い、転生を告げられた場所。
あの日の眩しさが、記憶の底から蘇る。
「……ハチ?」
ステラが心配そうに見上げた。
「大丈夫です」
はちは、そっと首を横へ振った。
「少しだけ、昔を思い出しただけですよ」
フィナも、その言葉の意味に気付いたようだった。
「今回は、あのときとは違います」
「はい」
「命を終えたあとに運ばれる道ではありません。研究をするために向かって、終わったら帰ってくる道です」
「……そうですね」
はちは後ろを振り返った。
いろは達がいる。
自分の帰りを待ってくれる家族と仲間が、そこにいる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、ハチちゃん」
いろはが笑う。
「気を付けてね」
レイも頷く。
「帰ってきたら、研究の話を聞かせてな」
「途中で分からなくなったら連絡しなさいよ」
かえでと咲の声も続いた。
「はい♪」
はちは、今度こそ笑顔で返事をした。
そして、ステラと手を繋ぐ。
先頭を歩くアテナに続き、フィナと共に光の道へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
門を越えた直後、背後の音が遠ざかった。
いろは達の姿はまだ見えている。
だが、まるで厚いガラスの向こうにいるように、声だけが届かない。
アテナが一歩進むたび、足元の光が波紋のように広がっていく。
はちとステラも、そのあとに続いた。
「わふっ……」
見渡す限り、光の海だった。
星のように見えたものは、近くを通ると無数の映像へ姿を変える。
誰かが生まれる光景。
知らない街で笑い合う人々。
滅びた文明の残した記録。
まだ形にもなっていない、曖昧な世界の可能性。
それらが現れては消え、決して同じ場所に留まらない。
「これは……世界の記録ですか?」
「正確には、次元の境界へ零れた情報の断片です」
アテナは前を向いたまま答えた。
「すべてが真実とは限りません。過去と可能性が混ざっています。触れようとすれば、その情報に引かれて道を失うこともあります」
「なるほど……」
はちは興味深そうに周囲を見回したものの、足を止めなかった。
今は観察することより、無事に神界へ着く方が先だ。
その隣で、ステラが突然、小さく息を呑んだ。
「……あれ」
視線の先。
光の海の中に、翼を持つ少女の姿が映っていた。
大勢の天使に囲まれ、穏やかに笑っている。
まだアイリスと呼ばれていた頃の、遠い日の姿だった。
「ステラ」
はちが繋いだ手に力を込める。
「……うん」
ステラは少しだけ立ち止まりそうになった。
しかし、光の中の少女へ手を伸ばすことはしなかった。
「今は……行く」
そう呟き、再び歩き始める。
映像はすぐに遠ざかり、無数の光へ溶けて消えた。
フィナが振り返り、ほっとした表情を見せる。
「もう少しです」
その言葉どおり、前方に大きな門が見え始めた。
白い柱に支えられた、重厚な門。
その中央には、アテナが開いたものと同じ紋様が刻まれている。
四人が近付くと、門の表面へ光の文字が浮かんだ。
まず、アテナ。
続いて、フィナ。
二人の名が確認される。
そして。
『安藤はち――入界許可を確認』
『ステラ――研究協力者としての入界許可を確認』
澄んだ声が響いた。
「……自分達の名前が出ましたねぇ」
「ゼウス様が、正式に登録してくださったのでしょう」
アテナは門へ手を触れた。
「神界へようこそ。はちさん、ステラさん」
巨大な門が、音もなく開いていく。
その先から、柔らかな風が吹き込んだ。
はちの長い灰黒色の髪が、ふわりと揺れる。
二人は眩しさに目を細めながら、門の向こうへ足を踏み出した。
そこに広がっていたのは、アルカディアとはまったく違う景色だった。
空には幾つもの光の輪が浮かび、その間を白い鳥のような生き物が飛んでいる。
雲の上には大小さまざまな島が浮かび、光でできた橋によって繋がれていた。
遠くには、白と金を基調とした建物が連なっている。
古い神殿のような建物もあれば、巨大な研究塔のような施設もあった。神秘だけで形作られた場所ではない。長い歴史の中で積み重ねられた技術と知識が、街の至る所に息づいている。
「ここが……神界……」
はちは、しばらく言葉を失っていた。
全世界の知識を与えられていても、実際に目にする景色の驚きまで失われるわけではない。
「……懐かしい」
ステラが、かすかな声で呟いた。
「覚えているのですか?」
「全部ではないけど……空の光は、覚えてる気がする」
ステラの視線は、浮遊島の間を流れる光の帯へ向けられていた。
懐かしさ。
不安。
悲しみ。
いくつもの感情が混ざり合っている。
はちは急かさず、隣に立っていた。
「ここで少し休みますか?」
アテナが尋ねる。
「……ううん。大丈夫」
「無理はしないでください。研究施設へ行く前に、ゼウス様へ到着をご報告します。そこで休憩も取れます」
「はい」
四人が門から続く広場へ下りると、周囲にいた神々や天使達が、珍しそうにはち達へ視線を向けた。
人間の少女。
かつて封印された次元神の核を宿すデバイス。
その二人が神界へ来るという話は、すでに一部へ伝わっているのだろう。
けれど、露骨に道を塞ぐ者はいなかった。
アテナとフィナが同行していることもあり、皆、一定の距離を保ったまま見守っている。
「注目されていますねぇ……」
「人間が正式な研究協力者として入ることは、珍しいですから」
フィナが小声で説明する。
「気にしなくて大丈夫ですよ」
「そう言われると、余計に気になります」
「ハチ……少し耳が赤い」
「わふっ!?」
ステラに指摘され、はちは慌てて両手で耳を隠した。
その様子を見て、フィナがくすりと笑う。
アテナも緊張を和らげるように微笑み、先へ進んだ。
広場の奥。
白い階段を上った先に、ゼウスが待っていた。
神々の最高責任者。
圧倒的な力を持つ存在でありながら、その表情は厳しいものではない。
ゼウスは、はちとステラが階段を上り切るまで静かに待ち、それからゆっくりと口を開いた。
「よく来たのう、安藤はち。そして、ステラ」
「初めまして、ゼウス様」
はちは丁寧に頭を下げた。
「この度は、研究施設を使う許可をいただき、ありがとうございます」
「……ありがとう、ございます」
ステラも、はちに続いて頭を下げる。
「うむ。顔を上げるがよい」
ゼウスの声は穏やかだった。
「そなたが、今は安藤はちとして生きていることも聞いておる。ここで過去の名を無理に背負う必要はない」
「……はい」
「そして、ステラ。そなたをかつての名だけで呼び戻すつもりもない。アイリスであった記憶を持ちながら、今はステラとして歩いておるのじゃろう」
「……うん」
ステラは僅かに目を見開いたあと、はっきりと頷いた。
「私は……ステラ。ハチがくれた名前」
「ならば、その名を大切にするとよい」
ゼウスは二人を見渡した。
「研究施設の使用準備は進めさせておる。じゃが、まずは神界の環境へ身体を慣らすことじゃ。焦ってステラの構造へ手を加えることは許さん」
「無論です」
はちは真剣な表情で答えた。
「最初に現行構造と古い設計図を照合します。書き換えは、ステラ本人の同意と、安全を確認してからです」
「うむ。それでよい」
ゼウスは満足そうに頷いた。
「アテナ。フィナ。二人を滞在場所へ案内したあと、研究棟を見せてやるとよい。今日は設備の確認までじゃ」
「承知しました」
「はい」
アテナとフィナが返事をする。
はちは、研究棟という言葉に瞳を輝かせた。
「神界の研究設備……楽しみですねぇ♪」
「ハチちゃん」
どこからともなく、いろはの声が聞こえたような気がした。
「……わふっ」
はちは咳払いを一つする。
「今日は確認までにして、ちゃんと休みます」
「まだ誰も何も言っておらんがのう」
ゼウスが愉快そうに笑った。
こうして、はちとステラは神界へ辿り着いた。
次元神の力を書き換え、新たなプラスエネルギーの貯蔵庫を作るために。
そして、暴走を繰り返すヘルカイザーへ対抗する方法を形にするために。
まだ研究は始まっていない。
けれど、確かな一歩は踏み出された。
◇ ◇ ◇
その頃。
アルカディアの人里から遠く離れた場所にある、ガルデローベ社の一時拠点。
窓のない部屋の中で、ヘルカイザーは静かにエクリプス達の様子を見ていた。
セリシア。
リュミナ。
ヴェルシア。
三人は、いろは達との戦いに敗れてから、ほとんど部屋を出ていない。
身体の傷は、すでに治療を終えている。
問題は、そこではなかった。
セリシアは端末へ向かい、戦闘記録を何度も再生していた。
自分が放った攻撃。
相手の防御。
僅かに生じた判断の遅れ。
最後に押し負けた瞬間。
同じ場面を繰り返し表示しては、停止する。
分析をしているように見える。
しかし、記録を書き込む手は、長い間止まったままだった。
リュミナは、普段の明るさが嘘のように静かだった。
長椅子の端へ座り、膝を抱えている。
時折、何かを言おうと口を開く。
それでも言葉は出てこず、すぐに顔を伏せてしまう。
ヴェルシアは二人から少し離れた場所で、腕を組んだまま壁へ背を預けていた。
表情だけなら、いつもと変わらない。
だが、握り締めた指先が白くなるほど力が入っている。
三人の中で最も強く、二人を率いる立場だと自負していた。
それだけに、自分達を勝利へ導けなかったことが許せないのだろう。
「…………」
ヘルカイザーは、扉の近くで何も言わずに立っていた。
慰めの言葉を掛けることは簡単だ。
敗北など気にする必要はない。
次は勝てばいい。
そう言えば、少しは気が楽になるかもしれない。
だが、今の三人に軽い言葉を投げても、傷ついた誇りを余計に刺激するだけだった。
失敗した実験へ、原因を調べる前から「問題ない」と書き込む研究者はいない。
戦いも同じだ。
敗北したという事実は消えない。
必要なのは、それを無理に隠すことではなく、三人が自分の意志でもう一度立ち上がることだった。
「ヘルカイザー……」
最初に気付いたのは、セリシアだった。
端末から顔を上げ、扉の方を見る。
リュミナとヴェルシアも、ゆっくりと視線を向けた。
「何か……次の命令?」
リュミナの声には、いつもの勢いがない。
「いいえ♪」
ヘルカイザーは穏やかに答えた。
「今の貴女達へ新しい作戦を任せるつもりはありません」
「……私達が負けたから?」
リュミナの肩が、僅かに震える。
ヘルカイザーは否定しなかった。
「ええ。敗北した直後の状態で再び戦場へ出しても、同じ結果を繰り返す可能性が高いですからねぇ」
「……随分、はっきり言うではないか」
ヴェルシアが低い声を漏らした。
「事実を曖昧にしても意味がありませんので♪」
「ならば、我らはもう不要か?」
その問いに、リュミナが顔を上げた。
セリシアも端末から手を離し、ヘルカイザーを見る。
ヘルカイザーは三人の表情を順に確認した。
そして。
「敗北しただけで廃棄するほど、自分は短気ではありませんよ」
「…………」
「今回は、いろはさん達が貴女達より僅かに上回った。それだけです。結果は結果として受け入れ、次に何を変えるか考えれば良い」
ヴェルシアの眉が僅かに動く。
「慰めているつもりか?」
「まさか♪」
ヘルカイザーは笑顔のまま首を横へ振った。
「戦力として立ち直っていただかないと、自分が困るのですよ。ガルデローベ社から預かった仕事は、まだ終わっていませんからねぇ」
優しい言葉ではない。
だが、見限られたわけでもない。
三人は、その意味をそれぞれ受け止めた。
「今すぐ元気になれとは言いません」
ヘルカイザーは続ける。
「好きなだけ悔しがりなさい。自分達の敗北を見つめることも、必要な時間です。ですが――」
紫色の瞳が、三人を真っ直ぐに捉えた。
「立ち直ると決めたのなら、自分のところへ来てください。そのときは、次の行動を始めましょう♪」
「次の……行動……」
セリシアが小さく呟く。
「ええ。制圧を諦めたわけではありませんので」
ヘルカイザーの笑みは、いつものままだった。
いろは達が勝利したからといって、彼が敵である事実は変わらない。
ただ、今は急がないだけだ。
三年という期限は、まだ十分に残されている。
傷ついた三人を無理に動かし、戦力を失う必要はなかった。
「では、ごゆっくり♪」
ヘルカイザーはそれだけ告げ、部屋を出た。
三人の表情が、すぐに明るくなることはない。
セリシアは再び戦闘記録へ向き直った。
リュミナは膝を抱えたまま、けれど先ほどより少しだけ顔を上げている。
ヴェルシアは目を閉じ、長い息を吐いた。
立ち直るには、まだ時間が必要だ。
ヘルカイザーも、それを理解していた。
◇ ◇ ◇
自分の作業室へ戻ったヘルカイザーは、机の上へ小型端末を置いた。
「さて……」
エクリプス達が動けない間、彼まで何もせず待っているつもりはない。
次の襲撃を始めるには早い。
ならば、その時間を調査へ使えば良い。
端末を起動すると、空中へ半透明の画面が浮かび上がった。
ヘルカイザーは前脚を動かし、新しい調査記録を作成する。
入力した名前は――。
『天城いろは』
「…………」
その名を眺めた瞬間、ヘルカイザーの脳裏へ、初めて出会った日の光景が蘇った。
犯罪魔導師をいたぶっていた自分へ、彼女は迷わず声を掛けた。
『ガーディアンです! 直ちに攻撃を中止してください!』
相手が何者なのかも分からない。
どれほどの力を持っているのかも知らない。
それでも、目の前で起きていることを見過ごさず、真っ直ぐに飛び込んできた。
ヘルカイザーの行為を問い、やり過ぎだと告げた。
そして、世界を制圧すると宣言した彼へ、真正面から立ち向かった。
「天城いろは……」
ヘルカイザーは、もう一度その名を口にした。
不思議な人だった。
強い者なら、他にもいる。
勇敢な者も珍しくはない。
正義を語る者など、これまで嫌というほど見てきた。
だが、いろはは少し違っていた。
彼の残酷な行為を目にしながら、最初から怪物と決め付けるのではなく、その理由を聞いた。
制圧を宣言した敵へ怒りを向けながらも、瞳の奥まで憎しみだけで染めることはなかった。
恐怖を覚えていなかったわけではない。
むしろ、怖かったはずだ。
それでも目を逸らさず、ヘルカイザーの行動を見つめ、問い掛けてきた。
「貴女は、一体どのような人なのでしょうねぇ……」
声に甘さはない。
胸が高鳴ることもなければ、頬が熱くなることもない。
これは恋愛感情ではなかった。
ヘルカイザーがいろはへ向けているものは、研究者が未知の現象を見つけたときに抱く、純粋な知的好奇心だ。
なぜ、あの場で前へ出られたのか。
何を基準に善悪を判断しているのか。
敵と認識した相手を、どこまで一人の人間として見ようとするのか。
守るべきものを前にしたとき、どのような選択をするのか。
そして――どこまで追い詰められても、その真っ直ぐな瞳を失わずにいられるのか。
言ってしまえば。
今のヘルカイザーにとって、天城いろはは研究材料に近い存在だった。
無論、すぐに捕らえて解剖しようという意味ではない。
未知の現象は、壊してしまえば一度しか観察できない。
まずは自然な状態で、どのように考え、どのように動くのかを知る必要がある。
ヘルカイザーは空中の画面へ、覚えている情報を書き込んでいった。
AEGIS所属のガーディアン。
高出力の砲撃魔法を扱う。
周囲への被害を抑えながら戦う傾向が強い。
敵の攻撃から他者を守ることを優先する。
感情的に見えて、戦闘中の判断は冷静。
そして、エクリプスとの戦いでは、大技同士がぶつかる極限の状況でも退かなかった。
「ふむ……」
そこまで入力したところで、ヘルカイザーは前脚を止めた。
記録だけでは足りない。
戦闘能力を調べるだけなら、映像を分析すれば済む。
彼が知りたいのは、天城いろはという人物そのものだった。
「公開されている活動記録から調べますか」
ガーディアンとしてどのような事件へ関わってきたのか。
市民から、どのように見られているのか。
仲間といるとき、どんな表情をするのか。
任務以外では、何を大切にしているのか。
そこまで調べれば、彼女の判断を形作っているものが見えてくるかもしれない。
ただし、今すぐ本人へ接触するつもりはなかった。
一度目の出会いで、ヘルカイザーは侵略者だと名乗っている。
正面から近付けば、警戒されるのは当然だ。
それでは、普段の姿を観察できない。
「まずは、距離を置いて調べるとしましょう♪」
ヘルカイザーは楽しそうに微笑んだ。
エクリプス達が敗北から立ち直るまでの時間。
その間に、天城いろはについて可能な限り情報を集める。
そして、再び会ったとき。
彼女が何を見て、何を守り、何を選ぶのか。
今度は、もう少し近くで確かめる。
「楽しみですねぇ……」
端末の画面には、天城いろはの名と、まだ僅かな調査項目だけが並んでいる。
白い小さな竜の姿をした研究者は、その画面を興味深そうに見つめ続けていた。
彼の関心は、好意ではない。
ましてや、恋でもない。
未知のものを理解し、仕組みを解き明かし、自分の知識へ変えたいという研究者の欲求。
その視線が今、天城いろはへ向けられたのだ。
一方。
そのヘルカイザーへ対抗するため、はちとステラは神界へ到着した。
片方は、暴走を防ぐための新たな仕組みを作ろうとしている。
もう片方は、次の行動へ移る前に、一人のガーディアンを知ろうとしている。
まだ互いの動きは交わっていない。
だが、それぞれの選択は確実に、次の衝突へ向かって進み始めていた。
――第81話・終――




