第78話 名前の向こうにいた自分
通信の向こうで、かえでが一度、瞬きをした。
『……神界?』
「はい」
はちは、机の上へ広げた資料を見下ろした。
「ヘルカイザーさんへの対策について、分かったことがあります。ただ、通信だけでは説明しづらいので……皆さんに、直接お話しする時間をいただけませんか」
かえでは、すぐには問いを重ねなかった。
画面の中のはちは、いつものように丁寧に話している。
けれど、その手元には何枚もの紙があり、隣には咲とステラがいた。
さらに、見覚えのない二人がいる。
『そちらの方も、今回のお話に関係してはるんやね?』
「はい。アテナさんと、フィナさんです」
はちは、二人へ目を向けた。
「お二人にも、一緒に説明していただきたいんです」
アテナが静かに頷いた。
「私からも、お伝えしたいことがあります」
かえでは、その声を聞いて、姿勢を正した。
『分かった。いろはちゃんとレイちゃんにも、声を掛けるわ』
その二つの名前が出たとき、はちの指先が、かすかに止まった。
『……はちちゃん?』
「……いえ。ありがとうございます」
はちは顔を上げた。
「すぐに、そちらへ向かいます」
通信が閉じた。
青白い表示が、記録用の画面へ戻る。
咲は、重ねた資料をはちへ渡した。
受け取ろうとする手が、少し遅れる。
「……緊張してる?」
小さな声で尋ねると、はちは困ったように笑った。
「神界へ行きたいなんて、突然言われても驚きますよねぇ」
「それだけ?」
はちは、紙へ視線を落とした。
咲は、続けて聞かなかった。
アテナとフィナも、静かに待っている。
やがて、はちは資料を持ち直した。
「……今回、ちゃんと話そうと思います」
「うん」
咲が頷く。
「自分が、何者なのかも」
フィナの表情が変わった。
はちは、その顔を見て、先に言葉を添えた。
「自分から、お話しします。分からないところだけ、補ってもらえますか」
「……はい」
フィナは、両手を重ねて頷いた。
アテナも、はちへ向き直る。
「分かりました」
はちは、小さく息を吐いた。
ずっと、言わずにいた名前がある。
この世界へ来る前の、自分の名前。
それを呼ぶ人が、今は、そばにいる。
ならば、いろはたちにだけ隠し続けることは、もうしたくなかった。
◇ ◇ ◇
案内された部屋には、かえでと、いろは、レイが待っていた。
いろはは椅子に腰掛けている。
レイも、その隣に座っていた。
二人とも、戦いの後の疲労を残している。
こうして話せるからといって、傷まで消えたわけではない。
はちは、扉のところで足を止めた。
「お疲れのところ、すみません」
「大丈夫だよ。座ってお話しするくらいなら、平気だから」
いろはは、いつものように微笑んだ。
その笑顔を見て、はちの胸が少しだけ苦しくなる。
「それより、対策が見つかったんだって?」
レイが声を掛けた。
「……はい。まだ、作り始めたわけではないんですけど」
「うん。まず、聞かせてもらおうか」
レイも、急かす様子はなかった。
かえでが、向かい側の席を示す。
「皆さんも、どうぞ」
アテナとフィナが、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。アテナと申します」
「フィナと申します。お時間をいただき、ありがとうございます」
かえでたちも、それぞれ名乗った。
アテナは、三人の顔を見た。
天城いろは。
レイ・シルビア。
かえで。
ヘルカイザーと対立し、この世界を守ろうとしている者たち。
そして、はちが、大切な人として話していた相手だった。
はちは、資料を机へ置いた。
咲が、その隣へ座る。
ステラは、はちのすぐそばにいた。
かえでは、アテナとフィナへ視線を向けた。
「最初に、お二人のお立場を伺ってもええですか?」
アテナが頷く。
「私は、神界から参りました。知恵を司る女神です」
空気が、一瞬だけ止まった。
いろはが、アテナを見る。
レイも、隣のフィナへ目を移した。
フィナは、少し緊張しながら続ける。
「私は、天使です。アテナ様に同行して、この世界へ来ました」
「……神界から、本当に」
かえでが、ゆっくりと言った。
はちは、そっと頷く。
「はい。今回の研究に、お二人にも協力していただいています」
いろはは、はちへ顔を向けた。
「はちちゃんは、お二人と知り合いだったの?」
その問いに、はちは少しだけ息を止めた。
答えを待ついろはの目には、疑いはなかった。
ただ、知らない出来事を尋ねている。
「……はい」
はちは答えた。
「そのことも、今日、お話しします」
◇ ◇ ◇
まず、はちは、貯蔵庫について説明した。
ヘルカイザーが、膨大なマイナスエネルギーを蓄えていること。
プラスエネルギーとの反応が、暴走へつながっていること。
アテナから聞いた初期の装置の構造と、現在までの変化についても、必要な範囲を伝える。
いろはは、両手を膝の上へ置いて聞いていた。
「……あの人も、最初は、人を助けるために作っていたんだね」
アテナは、静かに頷いた。
「はい。それは、私も見ていました」
いろはの視線が、机の上の図へ落ちる。
あの白い竜が、苦しむ相手へ手を差し伸べていた。
今の姿だけを知っていると、簡単には思い描けなかった。
それでも、アテナの言葉を遮ろうとは思わなかった。
レイが、はちの示した線を見つめる。
「それで、別にプラスエネルギーを蓄えるものを作ろうとしているんだね」
「はい。そのためには、自分とステラが使っている次元神の取り込みプログラムも、改修する必要があります」
はちは、二つの図を並べた。
今ある仕組み。
変更するために、見つけた知識。
「負のエネルギーを取り込む性質が残っているので、そのまま新しい貯蔵庫へつなぐわけにはいきません」
かえでが、眉を寄せた。
「……はちちゃん自身にも、関わる改修になるんやね」
「はい。だから、貯蔵庫の製作と合わせて、確認していきたいです」
「それを、神界で?」
「ええ」
はちは、製作条件を書いた紙を前へ出した。
「全世界の知識で検索したところ、書き換えの方法も、貯蔵庫の設計も見つかりました。ただ、製作する場所が、神界になるんです」
レイが、文字を追った。
いろはも、その隣から覗き込む。
「こっちの技術室では、作れないんだ……」
「設計どおりに作るには、神界で作業する必要があります」
はちは頷いた。
「ですので、自分は、そのために神界へ行きたいと思っています」
かえでは、資料から目を上げた。
すぐに賛成とも、反対とも言わない。
はちの隣にいるステラを見て、アテナへ視線を移す。
「向こうへ行くお話は、もう決まってるんですか?」
「いいえ。これから、ゼウス様へ事情をお伝えします」
アテナが答えた。
「その前に、享司さんは、皆様へ直接お話ししたいと……」
言葉が止まった。
アテナの目が、はちへ向く。
いろはは、聞き慣れない名前を、小さく繰り返した。
「……享司さん?」
はちは、資料の端へ置いていた指を引いた。
アテナが口を開きかける。
けれど、はちは、その前に静かに頷いた。
「大丈夫です。自分から、お話しするつもりでしたから」
咲は、何も言わず、隣にいた。
はちは、顔を上げた。
「……神界へ行く話を進める前に、皆さんへ、もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
◇ ◇ ◇
いろはの表情が、少しだけ変わった。
研究について説明していたときとは、声が違う。
はちは、何度か言葉を選び直すように唇を動かした。
机の上へ目を落とし、それから、もう一度三人を見る。
「これまで、自分は、別の世界から来たとお話ししていました」
かえでは頷いた。
「うん」
「それは、本当です。ただ……来る前のことを、全部お話ししていたわけではありません」
いろはは、口を挟まなかった。
レイも、はちから視線を逸らさずにいる。
「自分は、この姿のまま、元の世界で暮らしていたわけではないんです」
はちの手が、膝の上で重なった。
小さな手。
この世界へ来てから、ずっと自分のものとして使ってきた身体。
はちは、その感触を確かめるように指を動かした。
「前の世界での名前は……金城享司です」
声が、部屋の中へ落ちた。
咲だけが、その名前を聞いて、少し目を伏せた。
「そして、自分は、男性でした」
いろはの目が見開かれた。
レイも、一度、瞬きをする。
かえでの視線が、はちの顔から、隣の二人へ移った。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
はちは、それを確かめるのが怖くて、ほんの少し視線を下げた。
「……驚きますよね」
自分で言って、困ったように口元を動かす。
「今の姿からは、想像しづらいと思いますけど……」
そこで、言葉が続かなくなった。
咲が、横から、そっと声を掛けた。
「はち。ゆっくりでいいわ」
その声に、はちは息を吸い直す。
「……はい」
顔を上げると、いろはが、まだこちらを見ていた。
驚いている。
けれど、話を聞くのをやめた顔ではなかった。
はちは、それを確かめてから続けた。
「自分は、前の世界で、一度、亡くなっています」
今度は、レイの手が、わずかに動いた。
「……亡くなった?」
「はい。その後、アテナさんとフィナさんに会いました」
はちは、二人へ視線を向けた。
アテナは静かに頷く。
フィナは、膝の上の手を握り締めていた。
「そこで、新しい人生を歩むことになったんです。この、科学と魔法がある世界で」
はちは、言葉を途切れさせずに話した。
神界で目を開けたこと。
そこで、自分が死んだと知らされたこと。
この世界へ転生するために、希望を尋ねられたこと。
「全世界の知識は、そのとき、自分からお願いしたものです」
かえでは、資料へ一度目を落とした。
はちの持っている知識。
いくつもの発明を作り上げてきた、その力。
知っていたものの始まりが、今日、初めて別の時間へつながった。
「精霊カードは、アテナさんからいただきました」
はちは、右手の中指へ目を向けた。
指輪型のカードケース。
今も、そこにある。
「初めは、箱の形だったんですけど……あのとき、精霊たちにも意思があるから、大切にしてほしいと教えてもらいました」
アテナは、その指輪を見つめた。
神界で差し出した、小さなケース。
それを受け取った者は、今、違う姿で、目の前に座っている。
「……そのお話は、覚えています」
はちは、アテナへ小さく頷いた。
そして、いろはたちへ向き直る。
「自分は、そうして、この世界へ来ました。金城享司としての記憶を持ったまま、今の身体で」
◇ ◇ ◇
いろはは、しばらく、はちを見つめていた。
聞いた言葉を、頭の中で一つずつ受け止める。
前の名前。
男性だったこと。
一度、亡くなったこと。
そして、転生してきたこと。
驚いているのは、自分でも分かった。
けれど、それより気になったのは、はちの表情だった。
言葉を返されるのを、待っている。
その間にも、小さな手へ力が入っていく。
「……はちちゃん」
呼ぶと、はちの肩がわずかに揺れた。
「はい」
返事は、いつもより小さかった。
いろはが続けるより先に、はちは頭を下げた。
「今まで、隠していて、すみませんでした」
机の上に、長い髪が垂れる。
「もっと早く、お話しするべきだったと思います。でも……どう説明すればいいのか、分からなくて」
声が、少しだけ詰まった。
「この姿になる前のことを知ったら、皆さんが、自分をどう思うか……」
最後まで言い切れなかった。
咲は、机の下で、そっと自分の手を握った。
再会した日、はちは前の名前を呼ばないでほしいと頼んだ。
あのときは、その願いを受け入れた。
今、はちは、その名前を自分から明かしている。
代わりに説明してしまうのは違うと思った。
だから、咲は隣で待った。
「……はちちゃん。顔を上げて?」
いろはの声がした。
はちは、すぐには動かなかった。
いろはは、もう一度、穏やかに呼ぶ。
「お願い。お顔を見て、お話ししたいな」
ゆっくりと、はちが顔を上げた。
いろはの表情は、先ほどまでと変わっていた。
驚きは、まだ残っている。
けれど、怒ってはいなかった。
「話してくれて、ありがとう」
はちの唇が、かすかに動いた。
「……え?」
「大事なことを、聞かせてくれたんだよね」
いろはは、はちを見つめて言った。
「私、怒ってないよ」
はちは、何も答えなかった。
レイが、その隣から静かに続ける。
「私も。どう打ち明ければいいか、迷っていたんだね」
「……はい」
はちの返事が、少し遅れて落ちた。
かえでも、資料から手を離した。
「驚いてへん、とは言われへんよ。正直、まだ頭の中で整理してるところや」
はちが、かえでを見る。
「でも、それと、怒ることは別やから」
かえでは、ゆっくり言葉を続けた。
「言うの、怖かったんやね」
はちの目が、わずかに揺れた。
「……自分でも、どうしたらよかったのか、分からなかったんです」
「うん」
「皆さんと暮らしているうちに、話す機会はあったはずなのに……」
はちは、膝の上へ視線を落とした。
「今さら言ったら、今までのことまで、全部、違って見えるんじゃないかと思って」
いろはは、その言葉を聞いて、胸の奥が痛くなった。
目の前の子は、話さないまま過ごした時間も数えていた。
その時間が増えるほど、言い出すのが難しくなったのかもしれない。
いろはは、椅子を少しだけ寄せた。
「はちちゃんが、今まで一緒にいてくれたことは、なくならないよ」
はちが顔を上げる。
「一緒にご飯を食べたことも、お話ししたことも、困ったときに助けてくれたことも……全部、はちちゃんと過ごした時間だもの」
はちは、いろはを見つめた。
「前の名前を聞いても、その時間まで別のものにはならないよ」
◇ ◇ ◇
レイは、はちの小さな手を見ていた。
今の身体になる前には、別の暮らしがあった。
自分たちの知らない名前で呼ばれ、知らない場所を歩いていた。
その人が、死を経験して、ここへ来た。
説明の中で、はちは、ほとんど淡々と話した。
けれど、淡々と話せたことと、何も感じなかったことは違う。
「……一度、亡くなったと聞いたのも、驚いたよ」
レイが言うと、はちは瞬きをした。
「前の世界に、残してきた人もいたんだよね」
はちの視線が、咲へ動く。
咲も、こちらを見ていた。
「……はい」
はちは頷いた。
「咲にも、もう会えないと思っていました」
咲は、少しだけ口元を引き結んだ。
「私もよ」
短い返事だった。
それだけで、いろはたちには、二人の再会が持つ意味が、今までより深く伝わった。
別の世界から来た幼馴染。
その説明の中には、一度、永遠に別れたと思った時間があった。
「……咲さんも、知っていたんだね」
レイが尋ねる。
咲は頷いた。
「はい。私は、前の世界の享司を知っています。再会したときに、本人だと分かりました」
「姿が変わっていても?」
「ええ」
咲は、はちへ目を向けた。
「話していると、昔と同じところが、いくらでもありましたから」
はちは、困ったように眉を下げた。
「……その話は、ほどほどにお願いしますね」
「今は、からかわないわよ」
咲の声は、優しかった。
レイも、かすかに微笑む。
「そうなんだね」
それから、はちへ向き直った。
「はちが話したくなったことは、これからも聞かせてほしい。でも、今日、全部を話し切らなきゃいけないとは思わなくていいよ」
はちは、言葉を探した。
隠していたのだから、何を聞かれても答えなければならない。
どこかで、そんなふうに身構えていた。
レイは、そこへ踏み込んでこなかった。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
かえでは、その返事を聞いてから、アテナたちへ顔を向けた。
「お二人は、転生される前のはちちゃんをご存じなんですね」
「はい」
アテナが答えた。
「金城享司さんとして、お会いしました。今、お話しされた経緯は、私も、その場で見聞きしています」
フィナも、顔を上げる。
「私が、この世界への転生を担当しました」
その声は、少し震えていた。
かえでは頷いた。
誰かを問い詰めるためではなく、話のつながりを確かめる。
はちが一人で、信じてもらえるかどうかを背負わなくて済むように。
「ありがとうございます。お話、分かりました」
かえでが答えると、アテナは、わずかに息をついた。
◇ ◇ ◇
「……あの」
フィナが、改めて声を出した。
はちは、その顔を見た。
両手が、膝の上で固く重なっている。
自分へ向けられた視線には、今日、何度も見た後悔があった。
「転生の経緯について、私からも、説明させてください」
はちは、少し考えてから頷いた。
「……お願いします」
フィナは、いろはたちへ向き直った。
「享司さんが亡くなった原因には、私の失敗が関わっています」
いろはの表情が変わる。
レイも、フィナを見つめた。
フィナは、起きた事故と、自分の過失について話した。
はちは、途中で遮らなかった。
細かな説明を聞く間、右手を膝の上へ置いていた。
話し終えたフィナが、頭を下げる。
「……申し訳ありませんでした」
部屋が静かになった。
いろはは、フィナと、はちを交互に見た。
はちに怒っていないことと、この事故について何も感じないことは違う。
それでも、今、本人を飛び越えて言葉を重ねたくはなかった。
はちが、ゆっくり口を開く。
「そのことは、前にもお話ししました」
フィナが、少しだけ顔を上げた。
「事故だったことは、分かっています。驚きましたし、元の世界に戻れないと知ったときは、寂しかったですけど……」
はちは、咲へ一度目を向けた。
「今、ここで暮らしていることまで、なかったことにしたいわけではありません」
フィナの目が揺れる。
はちは、そのまま続けた。
「ただ、皆さんには、経緯を知ってもらいたかったんです。自分が、どうしてこの世界にいるのか」
いろはは、静かに頷いた。
「……うん」
はちは、その返事を聞いて、少し息を吐いた。
フィナも、顔を上げる。
「ありがとうございます……」
声が、また掠れた。
アテナは、隣の天使へ、そっと視線を向けた。
その後で、いろはたちを見る。
「そして、転生するときの姿についても、本人の希望と違う結果になっていました」
「……希望と違う?」
レイが聞き返した。
はちの肩が、ぴくりと動く。
「アテナさん。その辺りは、簡潔にお願いします」
「……はい」
アテナは、少しだけ困った顔になった。
「享司さんは、男性の姿を希望していました。ですが、転生後は、今の少女の姿になっていたのです」
いろはが、はちを見た。
はちは、目を逸らさず、こくりと頷いた。
「はい。自分も、最初から女の子になるつもりだったわけではないんです」
かえでの視線が、フィナへ移った。
フィナは、もう一度、小さく頭を下げる。
「……私の手違いです」
「……なるほど」
かえでは、ゆっくり息を吐いた。
驚くことが、一度に増えた。
どの話から返せばよいか、考える間が必要だった。
はちは、その沈黙を見て、わずかに身を縮める。
すると、いろはが尋ねた。
「身体が変わって、困ったことも、たくさんあったんだよね?」
はちは、一瞬、返事を忘れた。
予想していた質問と、違っていた。
「……まあ、それは、色々と」
「そうだったんだ……」
いろはの声は、責めるものではなかった。
はちは、少しだけ肩の力を抜いた。
「今は、だいぶ慣れましたけどね」
「慣れるまで、言いづらいこともあったんだね」
レイが言った。
はちは、頷くことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「……一つ、確認してもええ?」
かえでが声を掛けた。
はちは、顔を上げる。
「はい」
「これから、何て呼んだらええかな」
はちの目が、少し大きくなった。
かえでは、穏やかに続ける。
「金城享司さんという名前も、今、教えてもろたから。本人が、どう呼ばれたいか聞いときたいんよ」
はちは、しばらく考えた。
金城享司。
前の世界で、ずっと使っていた名前。
自分が自分だと分かる、その名前を、捨てたつもりはなかった。
けれど、この世界で呼ばれるようになった名前も、すでに、いくつもの声と結び付いている。
いろはの声。
レイの声。
かえでの声。
ヴィリノが駆け寄ってくるときの声。
「……今までどおり、はちでお願いします」
はちは答えた。
「安藤はちという名前も、自分で選びましたから」
いろはの表情が、柔らかくなった。
「うん。はちちゃん」
聞き慣れた呼び方だった。
ただ、その響きが、少しだけ違って聞こえた。
前の名前を知らないから、そう呼んでいるのではない。
知った上で、今の自分が望んだ名を呼んでくれている。
レイも頷いた。
「分かった。はち」
かえでも、小さく微笑む。
「ほな、これからも、はちちゃんやね」
はちは、三人を順に見た。
喉の奥が、少し詰まった。
「……はい」
返事をすると、隣で咲が静かに息を吐いた。
長く気を張っていたのは、はちだけではなかったらしい。
はちは、その横顔を見た。
「……咲」
「何?」
「ありがとう」
咲は、ほんの少し目を細めた。
「自分で話せたでしょう」
「……うん」
今度は、短く答えられた。
◇ ◇ ◇
「……まだ、気になることがある?」
いろはが尋ねた。
はちは、顔を上げる。
何も言わずにいたつもりだった。
けれど、いろはには、表情に残った迷いが伝わったらしい。
「……今までどおりで、いいんでしょうか」
自分でも、曖昧な聞き方だと思った。
いろはは、すぐに答えを決めず、続きを待った。
はちは、言葉を探す。
「皆さんは、自分を、小さな女の子だと思っていたわけですから。その……前は男性だったと知ったら、接し方も変わるかと思って」
レイが、わずかに頷いた。
「知らなかった事情は、これから知っていきたいと思うよ」
はちは、彼女を見る。
「嫌なことや、困ることがあれば、教えてほしい。今まで気付けなかったことも、あると思うから」
「……はい」
「でも、家族として一緒にいたい気持ちは変わらないよ」
はちの指先が止まった。
いろはも、そっと頷く。
「私も、同じだよ」
はちは、二人を見つめた。
怖がっていた答えは、返ってこなかった。
その代わり、聞き慣れた声が、これからの話をしている。
「……家族で、いいんですか」
思わず、確かめてしまった。
いろはは、少しだけ眉を下げた。
「もちろんだよ」
言い切ってから、いろはは手を伸ばしかけた。
けれど、途中で止める。
「……手、握ってもいい?」
はちは、その手を見た。
返事の代わりに、自分から、少しだけ手を差し出す。
いろはの手が、そっと重なった。
温かかった。
はちは、握り返すまでに、少し時間がかかった。
「……隠してて、すみませんでした」
もう一度、言葉がこぼれた。
いろはは、手を離さなかった。
「うん。聞いたよ」
その返事に、はちの唇がかすかに動いた。
「だから、何度も謝らなくて大丈夫」
いろはは、はちの顔を見る。
「話すの、勇気がいったよね。ありがとう」
はちは、目を伏せた。
顔が熱い。
泣くつもりではなかった。
それでも、息を整えようとすると、うまくいかなかった。
レイは、何も言わず、机の端のティッシュを近付けた。
咲も、からかわなかった。
ステラが、反対側から、はちの袖をそっとつまむ。
「……はち」
呼ばれて、はちは小さく頷いた。
この部屋では、誰も、自分が顔を上げるのを急かさなかった。
◇ ◇ ◇
少しして、はちは、ようやく顔を上げた。
「……お待たせしました」
「待ったうちに入らへんよ」
かえでが、いつもの調子で答えた。
はちは、少しだけ笑った。
その顔を見て、フィナも、胸の前で重ねていた手を下ろす。
アテナは、ずっと、静かに見守っていた。
自分が転生を見送った相手は、この世界で、居場所を得ている。
そのことを、今日、目の前で確かめた気がした。
「……皆様」
アテナが口を開いた。
いろはたちが顔を向ける。
「はちさんのお話を、聞いてくださって、ありがとうございます」
その呼び方に、はちが目を向けた。
アテナは、穏やかに頷く。
今、本人が望んだ名前を、自分も使おうと思ったのだろう。
いろはは、小さく首を振った。
「私たちも、知らなかったことを聞かせてもらいましたから」
それから、はちへ目を向ける。
「一人で考えていたことが、少しでも減っていたら、嬉しいです」
はちは、静かに頷いた。
「……減りました」
短い答えだった。
けれど、今までのどの説明より、素直に言えた。
咲が、微かに笑う。
「それなら、話してよかったわね」
「……はい」
はちは頷き、机の上の資料へ目を戻した。
研究の図。
神界という文字。
ここへ来たときは、その話の先にある告白が怖くて、紙を持つ手に力が入っていた。
今は、紙を置いたまま、皆の顔を見られる。
「それで……神界へ行く話なんですけど」
はちが切り出すと、かえでが頷いた。
「うん。そちらも、ちゃんと聞かせてもらおうか」
◇ ◇ ◇
「行く必要があることは、資料で分かったわ」
かえでは、製作条件を指した。
「ただ、向こうで何をするのかと、こちらを留守にする間のことは、相談しときたい」
「はい」
はちは、頷いた。
レイが、図を見比べる。
「ステラと一緒に、取り込みの仕組みを書き換えて、貯蔵庫を作る。そのための準備から始めるんだよね」
「ええ。今の段階では、方法と設計が見つかったところです。作業場所や設備を確認してから、進めます」
いろはは、その言葉を聞いて、少し息をついた。
「行ったら、すぐに力を変えるわけじゃないんだね」
「はい。今の仕組みを残して、どこを変えるか確認します。ステラにも、一緒に見てもらいます」
ステラが、小さく頷いた。
「……一緒に、見る」
いろはは、ステラへ微笑んだ。
「そっか。ありがとう、ステラちゃん」
アテナが、資料の一枚を手元へ寄せた。
「私からは、ゼウス様へ研究の目的と、神界で製作する必要があることを報告します。保管している初期の資料についても、確認してまいります」
「受け入れていただけるかは、その後なんですね」
レイの問いに、アテナは頷いた。
「はい。今、この場で、お約束はできません」
「分かりました」
レイは答えた。
はちは、三人の顔を見た。
「自分は、勝手に出発するつもりはありません。行けることになったら、もう一度、予定を相談します」
かえでが頷く。
「うん。それでお願い」
いろはは、はちの資料へ視線を落とした。
あのヘルカイザーへ対抗するための研究。
力をぶつけ合うだけでは、止められなかった相手だ。
違う方法を探せるなら、探したい。
けれど、はち自身とステラの力を扱う研究でもある。
期待だけで、送り出すことはできなかった。
「……心配はすると思う」
いろはが言った。
はちは、顔を上げる。
「神界が、どんなところかも、まだ知らないし。はちちゃんたちの力を変えるって聞いたら、やっぱり気になるから」
「……はい」
「だから、分かったことを、また教えてね」
はちは頷いた。
反対されたわけではない。
平気だと、無理に言われたわけでもない。
心配していることを、そのまま伝えてくれた。
「ちゃんと、お話しします」
はちは答えた。
「今日みたいに、分かったことから」
いろはは、安心したように微笑んだ。
◇ ◇ ◇
話が一区切りついたとき、フィナが、そっとはちへ声を掛けた。
「はちさん。……私も、神界でできることを確認します」
はちは、その顔を見た。
先ほどまでのように、ひたすら俯いているわけではない。
まだ緊張は残っているが、今できることを考えようとしていた。
「お願いします」
はちは頷いた。
「必要な資料のことも、アテナさんと相談してもらえると助かります」
「はい」
フィナの返事に、少し力が戻った。
かえでが、そのやり取りを見て、小さく息を吐く。
「……今日は、本当に、色々聞かせてもろたね」
「すみません。一度に、話が増えてしまって」
はちが言うと、かえでは首を振った。
「謝らんでええよ。整理する時間は要るけど、聞けてよかったと思ってる」
レイも頷いた。
「私たちも、すぐに全部を理解できたわけではないから、また聞くことはあると思う」
「はい。そのときは、答えます」
はちは、そう言ってから、少しだけ迷った。
「……ただ、前の世界での恥ずかしい話は、咲に聞かないでくださいね」
咲が、目を丸くした。
「私、今、何も言ってないでしょう?」
「先に、お願いしておこうと思いまして」
「そんなに信用ないの?」
はちは、じっと咲を見た。
咲は、その視線を受けて、少しだけ口元を緩める。
「……今日は、言わないわよ」
「今日は、なんですね?」
いろはが、思わず笑った。
レイも、口元を押さえる。
かえでは、肩の力を抜いて、二人の掛け合いを見ていた。
フィナも、つられるように小さく笑った。
はちは、その音を聞いた。
正体を明かしても、会話は続いている。
咲がからかい、自分が返し、それを見て、いろはたちが笑う。
先ほどまで怖がっていた明日の中に、こんな時間があるとは、うまく想像できていなかった。
はちは、資料を重ねた。
その手元を、いろはが見ている。
「……はちちゃん」
「はい?」
「帰ったら、一緒にご飯、食べようね」
はちは、一度、瞬きをした。
何か特別な話をされたわけではない。
けれど、その何でもない約束が、胸へゆっくり染み込んできた。
「……はい」
はちは、少しだけ笑った。
「自分も、一緒に食べたいです」
◇ ◇ ◇
部屋を出る前に、はちは、もう一度振り返った。
いろはと、レイ。
そのそばで、資料をまとめているかえで。
三人とも、こちらへ顔を向けた。
「……今日は、聞いてくださって、ありがとうございました」
今度は、謝罪ではなかった。
はちは、自分の言葉で礼を言った。
いろはは、柔らかく頷く。
「うん。また、後でね」
レイも、いつもの声で呼んだ。
「はち。研究の準備も、休みながらね」
「はい」
かえでが、一枚の資料を持ち上げる。
「こっちは、私も確認させてもらうわ。神界側のお返事が来たら、また相談しよう」
「お願いします」
はちは頭を下げ、扉へ向き直った。
廊下へ出ると、咲が隣へ並んだ。
「……どう?」
短い問いだった。
はちは、少し考える。
胸の奥には、まだ、話し終えた後の熱が残っている。
今まで隠していたことを口にした、気恥ずかしさもある。
けれど、息がしやすかった。
「……話して、よかったです」
そう答えると、咲は笑った。
「そうね」
ステラが、はちのすぐそばを歩いている。
少し後ろには、アテナとフィナがいた。
アテナは、部屋の扉へ、一度だけ目を向けた。
その向こうに、はちの帰る場所がある。
神界へ連れていくことになっても、この世界から切り離すためではない。
研究をして、必要なものを作り、また戻ってくる。
自分がゼウスへ伝えるべき話にも、そのことを添えようと思った。
「はちさん」
呼ばれて、はちが振り向く。
「神界での受け入れについて、私から、きちんとお話ししてまいります」
「……はい。よろしくお願いします」
はちは、少しだけ目を細めた。
金城享司だった自分。
安藤はちとして、この世界で暮らしている自分。
どちらも話した上で、いろはたちは、今までの名を呼んでくれた。
神界へ向かう理由は、敵への対策を作るためだ。
けれど、その先で帰ってきたい場所は、さっき、もう一度、確かめられた。
はちは、右手に持った資料を、そっと抱え直した。
扉の向こうから、いろはとレイの話す声が聞こえる。
その声を背中に受けながら、はちは、皆と一緒に歩き出した。
――第78話・了――




