第76話 二つ目の貯蔵庫
◇ ◇ ◇
「初めてお会いした頃から、あの方は研究のお好きな方でした」
アテナの声が、静かな部屋に落ちた。
はちは、机を挟んだ向かいに座っている。
すぐ隣にはステラ。その向こうには咲がいた。
フィナはアテナの隣で、膝の上に両手を重ねていた。
窓の外から届く街の音は、先ほどよりも遠く感じられる。
「神に似た力を持ちながら、人間であるとおっしゃる。最初は、私も警戒しました。ですが、お話しするうちに……次にお会いできる日が、楽しみになっていました」
アテナの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……説明するの、好きそうでしたね」
はちが呟くと、アテナは頷いた。
「ええ。こちらが分かるまで、付き合ってくださる方でした」
「今も、そこは変わっていないのね」
咲の言葉に、はちは小さく息をついた。
戦いの最中であっても、あの白い竜は自分の研究について語っていた。
こちらが怖がる様子さえ楽しみながら、仕組みを説明する。
似た振る舞いでも、その先にあるものは違う。
アテナも、その違いを知っているのだろう。
笑みを収め、机へ目を落とした。
「貯蔵庫を作り始めたのは、苦しんでいる魂のためでした」
「……魂のため?」
「亡くなっても、恨みや憎しみを手放せず、安らぐことのできない魂がいたのです」
アテナは、ゆっくりと言葉を選んだ。
苦しみを抱えた相手から、話を聞く。
その苦しみを取り除こうと考える。
けれど、大切な記憶や思いまで失わせてしまっては、救ったことにはならない。
「あの方も、その点を気にしていらっしゃいました。どうすれば、魂を傷つけずに負のエネルギーを分離できるのか。そのために、何度も検討を重ねたのです」
ステラは、黙って聞いていた。
はちはその横顔を一度確かめ、アテナへ視線を戻した。
「それが、マイナスエネルギーの貯蔵庫……」
「はい。分離したものを、別の空間へ移して蓄える装置でした」
「取り出した後の、置き場所も必要だったんですね」
「ええ。魂から離して終わりにはできませんでしたから」
はちは頷いた。
アテナが語るのは、誰かを苦しめるための研究ではない。
むしろ、苦しみから解放しようとした研究だった。
その装置と、今のヘルカイザーがつながっている。
「そして、装置は実際に魂を救いました」
アテナの声に、わずかな力がこもる。
「それは、本当です。処置を受けて、穏やかになった方がいらっしゃいました。長く抱えていた苦しみを、ようやく言葉にできるようになった方も……」
思い出しているのだろう。
彼女の目は、一瞬だけ、ここではない場所を見ていた。
「私も、嬉しかったのです」
短い言葉だった。
その先を続けるまでに、少しだけ間があった。
「……ですが、装置は、あの方ご自身の次元神の力と直接つながっていました」
はちの指先が止まる。
「独立した装置では、なかったんですか?」
「はい。空間を扱うために、あの方の力を使っていたのです。その経路から、蓄えられたマイナスエネルギーが、ご本人へ流れ込んでいました」
「少しずつ……?」
「最初は、ごくわずかだったようです」
はちは、目を伏せた。
装置が予定どおり働いていることと、使っている本人が安全であることは、同じではない。
「ヘルカイザーさんは、流れ込んでいることをご存じだったそうです。ただ、それが考え方へ及ぼす影響までは……」
アテナは、言葉を切った。
はちは、急かさなかった。
「長い時間をかけて、物事の捉え方が変わっていきました。苦しみを減らすことより、回収できるエネルギーの量を気にされるようになって……」
アテナの指が、膝の上で重なった。
「やがて、マイナスエネルギーをすべて自分に集めれば、争いのない世界になると考えるようになったのです」
「……全部、自分に」
はちは、小さく繰り返した。
◇ ◇ ◇
アテナは、二人の交流が途切れがちになった時期についても語った。
届けられなかったもの。
すれ違った面会。
信じていた相手が、預かった荷物を捨てていたこと。
それを知ったヘルカイザーが、その神へ何をしたのか。
詳しい様子を語ることはなかった。
それでも、咲の表情が険しくなるには十分だった。
「腹が立ったから、一時的に我を忘れた……という話ではなかったんですね」
はちの問いに、アテナは頷いた。
「ええ。あの方は、ご自身のしていることを正しいと考えていらっしゃいました」
止めてほしいと頼んでも、届かなかった。
そのとき、アテナは貯蔵庫の資料を調べ直したのだという。
「私は、流入を止めようとしました。けれど、あの方は受け入れてくださいませんでした」
「今の考え方も、ご本人にとっては研究の結果だったんですね」
「……はい」
はちは、それ以上、すぐに言葉を重ねなかった。
咲がアテナを見る。
「そのエネルギーを抜けば、昔に戻るというわけではないのね」
アテナの目が、わずかに揺れた。
けれど、答えは明瞭だった。
「以前の価値観へ戻す方法はありません」
部屋が静かになる。
「別の人格が、あの方に成り代わったわけではないのです。長い時間の中で、ご本人の判断の基準が変わってしまった……私は、そのように理解しています」
はちは、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
続いて語られたのは、神々による捜索と、命令の行き違いだった。
ゼウスが命じたのは、捕獲。
けれど、現場へ届いた言葉は、排除。
攻撃を受けたヘルカイザーは反撃した。
そして、その中で、人の恐怖や絶望から効率よくエネルギーを集める方法を見いだしてしまった。
「捕まえる話が、殺す話に変わったの……?」
咲が、低い声で尋ねた。
「はい。後から、誤りを正す通達も出されました。ですが、すでに起きてしまったことは、取り消せませんでした」
アテナは、膝の上の手を見下ろした。
「私も、あの方と戦いました」
はちは、彼女を見た。
「止めるために、ですか」
「……ええ」
アテナの説明は短かったが、その声には、今も消えない痛みがあった。
「けれど、あの方は、私を殺そうとはされませんでした」
はちは何も言わず、続きを待つ。
「戦った後、私は……あの方へ手を伸ばしました」
アテナは、自分の手をわずかに開いた。
誰かに触れようとして、途中で止めたような動きだった。
「すると、突然、苦しみ始めたのです。私には、なぜなのか分かりませんでした。傷つけるつもりも、術式を使ったつもりもなかったのに……」
「それが、プラスエネルギーだった」
「はい。今日、ようやく、その答えを聞けました」
フィナが、アテナへ目を向けた。
長く分からなかったことが、分かった。
けれど、それだけで、当時の後悔が消えるわけではない。
はちは、アテナの開かれた手を見ていた。
「……その時点では、暴走しなかったんですよね?」
問いに、アテナが顔を上げる。
「はい。痛みはありましたが、今回のようなことには……」
「ありがとうございます。続きをお願いします」
はちは、小さく頭を下げた。
その質問を、アテナは心の中へ残した。
◇ ◇ ◇
「あの方が姿を消してからのことは、長く分かりませんでした」
アテナは、今日の再会で聞いた話へ移った。
ガルデローベ社。
研究資金を求めて入った会社。
そこで出会ったマスター社長への忠誠。
そして、完成した貯蔵庫。
「……完成、ですか」
「本人は、そうおっしゃっていました。神界にいた頃の装置から、さらに改良を重ねたようです」
はちは、眉を寄せた。
初期の設計と、現在の仕組みは同じではない。
どこが変わったのかは、まだ分からない。
それでも、直接つながっているという点は、話の中に残っていた。
「その後、プラスエネルギーの流入で制御を失い……一つの世界を滅ぼしてしまったそうです」
咲の息が止まった。
はちも、すぐには返事ができなかった。
「……世界を、一つ?」
「はい」
アテナは頷いた。
「今日、あの方から聞きました。私も、それまでは知りませんでした」
はちは、視線を落とした。
アルカディアへ降り注いだ、あの砲撃。
あのとき、止まらなかったら。
彼が制御を取り戻せなかったら。
すぐ隣で、ステラがはちの袖へ触れた。
はちは、その指先を見て、静かに息を吐いた。
「……今回が、初めてではなかったんですね」
「二度目だと、おっしゃいました」
アテナの声が、少し掠れる。
「ここまでやるつもりはなかった、とも……」
咲の眉が動いた。
「そこまでやるつもりがなければ、済む話でもないわよね」
「ええ」
アテナは、その言葉を否定しなかった。
「ご本人も、今回の暴走を、ほかの誰かの判断だったとはおっしゃいませんでした」
はちは、窓の方を見た。
ここからは見えない場所で、復旧が続いている。
いろはたちも、傷を負っている。
「……それでも、制圧の仕事は続けるんですね」
「はい」
アテナの返事は、重かった。
「世界を救うという大義名分を、今の自分が掲げるのはおこがましい。そのようにも、おっしゃっていました」
はちは、アテナを見る。
かつては、苦しむ魂を救おうとしていた。
今は、その言葉を自分に許していない。
けれど、武器を置いたわけではない。
マスター社長のため。
会社のため。
自分の研究のため。
その意思で、今もこの世界を狙っている。
「……そうですか」
はちは、それだけ答えた。
はちは、しばらく黙っていた。
やがて、机へ置いていた指先を動かした。
「アテナさん。紙と、書くものをお借りしてもいいですか?」
◇ ◇ ◇
「……何か、思い付いたの?」
咲が尋ねた。
はちは、渡された紙を自分の前へ引き寄せる。
「まだ、疑問があるだけです」
紙の上へ、二つの丸を描いた。
一方には『貯蔵庫』、もう一方には『本人』と書き添える。
そして、二つを線で結んだ。
「まず、確認させてください。負のエネルギーを蓄える空間と、ヘルカイザーさんの力は、このようにつながっていたんですよね?」
アテナは、紙へ身を寄せた。
「概略としては、そのようになります。ただ、実際には、空間の制御や分離のための仕組みも……」
「はい。今は、流れだけを考えたいんです」
はちは、線へ矢印を加えた。
貯蔵庫から、本人へ。
「最初は少しずつ流れ込み、その後は、ご本人が流入を増やした」
「はい」
「そして、今は膨大な量が蓄えられている」
「……ええ」
はちは頷き、少し離れたところへ、小さな丸を描いた。
そこへ、『プラス』と書く。
「では、こちらは、どこから入るんでしょう?」
はちは、小さな丸から線を引こうとして、筆を止めた。
代わりに、点をいくつか並べる。
貯蔵庫へ向かう点。
本人へ向かう点。
「ここは、まだ分かりません。貯蔵庫へ入ったのか、身体の方へ入ったのか。それとも、共通の経路があるのか」
「……当初の装置には、魂から負のエネルギーを分離する仕組みがありました」
アテナは、記憶を辿った。
「けれど、プラスエネルギーを取り込むために作った、という説明は受けていません」
「なら、意図して取り込めるようにしたのかも、まだ不明なんですね」
「はい」
はちは、紙の端へ小さく書いた。
『何を選んで取り込むか』
続けて、その下へ。
『どこへ蓄えるか』
最後に。
『どこへ流れるか』
三つの項目が並んだ。
「自分たちは、マイナスエネルギーの貯蔵庫という名前から、取り込むものも、それだけだと思っていたのかもしれません」
「……名前から、ですか」
「ええ。でも、実際に違うものが入っているなら、その仕組みを調べる必要があります」
はちは、点で描いた線を指した。
「どうして、プラスエネルギーを取り込む要素が残っているのか。改良の途中でそうなったのか、次元神の力そのものと関係しているのか……」
そこで、筆を机へ置いた。
「もしかしたら、貯蔵庫には、まだ自分たちの知らない使い道があるんじゃないでしょうか」
◇ ◇ ◇
「本当の使い道、というのは……?」
フィナが、そっと尋ねた。
「マイナスエネルギー以外も、扱えるかもしれないということです」
はちは答えた。
「もちろん、ヘルカイザーさんが初めから考えていたかは分かりません。自分が、今、勝手に気になっているだけです」
「……ええ」
アテナは頷いた。
それでも、目は紙から離れない。
装置には、魂から何かを分離する仕組みがあった。
分離したものを、別の空間へ移す仕組みがあった。
そこへ蓄えておく仕組みもあった。
それらを、一つずつ考え直す。
「魂から切り離すところと、蓄えておくところを……別々に検討するのですね」
「はい。負のエネルギーを分離する方法を、そのまま使えるとは限りません。でも、蓄える空間の作り方や、流れを制御する仕組みは、参考になるかもしれません」
はちは、貯蔵庫を示す丸を指した。
「何が入っても、同じ扱いでいいはずはありませんから」
咲が、紙へ目を落とす。
「それで、今回の暴走も調べられると?」
「つながるかもしれません」
はちは、もう一枚、紙を取った。
今度は、大きな丸を描く。
その端へ、小さな丸を添えた。
「アテナさんの手に触れたときは、痛みが生じた。でも、世界を壊すような暴走には至らなかった」
「……はい」
「その後、貯蔵庫が完成して、膨大な量が蓄えられた。そして、プラスエネルギーが入ったときに、制御を失った」
はちは、大きな丸を指す。
「今は、こちらが大き過ぎるんじゃないでしょうか」
アテナは、顔を上げた。
「蓄えられたマイナスエネルギーが……?」
「はい。そこへ入ってくるプラスエネルギーは、量としては小さい。だから、うまく扱う前に、膨大なマイナスエネルギーと反発してしまう」
はちは、丸の接するところへ、短い線を幾つか描いた。
「プラスエネルギーが弱い、というのも、あくまで、そこにある量と比べてです。性質そのものが弱いと決まったわけではありません」
咲が頷く。
「釣り合いが取れていない、ということね」
「その可能性があります」
はちは、自分で描いた線を見つめた。
「小さな反応でも、つながっている先が大き過ぎれば、影響が広がる。制御が一度乱れた後、本人にも抑えきれなくなるのかもしれません」
アテナの胸に、今日聞いた言葉がよみがえった。
ここまでやるつもりはなかった。
ヘルカイザーは、自分で選んで攻撃していた。
けれど、その後には、自分でも望まない規模の破壊へ至った。
その二つを、はちは同じものとして片付けていない。
「……あの方の意思で行っていることと、制御できなくなったときのことを、調べ分けるのですね」
「はい。どちらも止めなければいけません。でも、止め方まで同じとは限りませんから」
はちは、アテナを見た。
「暴走したとき、周囲を壊してしまう仕組みが分かれば、次に起きる前に手を打てるかもしれません」
ステラが、小さく声を出した。
「……流れ、見るの?」
はちは、彼女へ向き直る。
「うん。何が、どこを通って、どこでぶつかるのか。まず、そこから」
ステラは、紙を見下ろした。
はちが描いた丸は、どれも単純だった。
けれど、一つひとつへ書かれた言葉を、確かめるように見つめていた。
「……まだ、決めない?」
「ええ。今は、そうかもしれないという段階です」
その返事を聞くと、ステラは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
「だとしたら……プラスエネルギーを増やせばいいの?」
咲が尋ねた。
はちは、すぐに首を振った。
「そのまま、ヘルカイザーさんへ流し込むのは怖いです」
「反発する量まで、増えるかもしれないから?」
「はい。どれだけあれば釣り合うのかも分かりませんし、そもそも、同じ場所へ入れていいのかも不明です」
はちは、大きな丸へ小さな丸を押し付けるように、指を動かした。
「これで、もっと大きな暴走を起こしてしまったら……」
最後まで言わなかった。
アテナにも、その先は分かった。
一つの世界が、すでに失われている。
今回も、アルカディアは深く傷ついた。
確かめるために、もう一度同じことを起こすわけにはいかない。
「だから、別に用意したいんです」
はちは、最初の紙を手元へ戻した。
マイナスエネルギーの貯蔵庫。
ヘルカイザー自身。
その二つを結ぶ線。
はちは、その隣へ、もう一つ丸を描いた。
しばらく考えてから、文字を書き添える。
『プラスエネルギーの貯蔵庫』
アテナの目が、大きく開かれた。
「……もう一つ、作るのですか?」
「はい」
はちは頷いた。
「マイナスエネルギーの貯蔵庫の設計を元に、逆の性質を扱うものを作れないでしょうか」
フィナが、紙と、はちの顔を交互に見る。
「プラスエネルギーを……蓄えておく場所を?」
「ええ。いきなりヘルカイザーさんの中へ送り込むのではなく、別の場所に蓄えて、扱えるようにするんです」
はちは、新しい丸へ指を置いた。
「そこからなら、量や流れを確かめられるかもしれません。反応が起きる場所も、調べられます」
「そして、暴走への対策を……」
アテナの言葉に、はちは頷いた。
「考えられると思います」
言い終えてから、はちは少しだけ眉を下げた。
「……とはいえ、言うだけなら簡単なんですけどね」
咲が、わずかに口元を緩めた。
「作れるかどうかは、これから?」
「はい。設計も、材料も、まだ分かりません」
「それでも、作ろうと思ったのね」
はちは、新しい丸へ視線を戻した。
「同じ仕組みで、逆の性質を扱えるなら……あの人の力へ対抗する方法も、増えるかもしれませんから」
アテナは、はちを見つめた。
はちの声に、勝利を確信した響きはなかった。
それでも、ただ疑問を並べているだけではなかった。
手を動かし、線を引き、今ある情報から、次に調べるものを選んでいる。その姿に、遠い研究室の光景が重なった。
図面へ向かう白い竜。
問いを重ねる自分。
分からないところへ、印を付ける手。
アテナは、息を吸った。
「……享司さん」
「はい」
「貯蔵庫を作ったとき、私も、図面を囲んでいました」
はちは、黙って彼女を見る。
「ですが、あの方の研究すべてを理解していたわけではありません。まして、今の完成した装置については……」
「初期の設計でいいんです」
はちは答えた。
「最初に何をしようとしていたのか。それが分かれば、どこを調べるべきか考えられます」
アテナの指が、紙の端へ触れた。
古い図面には、意味がある。
失ってしまった日々の記録としてだけでなく、今も、調べるために使える。
「神界には、初期の構造図と、当時の記録が残っています」
「……残っているんですか?」
「はい。手元にはありませんが、保管してあります」
はちの表情が変わった。
咲が、その顔を見て小さく笑う。
「研究の顔になったわね」
「……どんな顔ですか、それ」
「昔から、新しいものを思い付いたときにする顔よ」
はちは、少しだけ気まずそうに視線を戻した。
アテナも、そのやり取りに、かすかに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「ただ、使うなら、気を付けなければならない箇所があります」
アテナは、図の中央を指した。
貯蔵庫と、本人。
その間に引かれた線だった。
「ここです」
はちは頷いた。
「自分も、そう思います」
最初はわずかな流入だった。
研究を止めるほどの異常には見えなかった。
その判断を繰り返すうちに、流入の意味そのものが変わってしまった。
はちは、新しい貯蔵庫を示す丸から、自分へ線を引かなかった。
「蓄える場所と、使う人を、直接つなぎ続ける形は避けたいです」
「ええ……」
「操作するために接続が必要なら、どの部分が必要なのかを調べます。蓄えたものまで、自分へ流れてくる構造にはしたくありません」
はちは、紙の端へ書き加えた。
『操作する経路』
『エネルギーが通る経路』
二つの言葉の間に、縦の線を引く。
「同じにしなくても動かせるのか、まず、確かめたいです」
アテナは、その文字を見つめた。
神界で、自分が止めようとした接続。
止める必要はないと、友人が答えた流れ。
今度は、初めから、それを調べる。
「……私も、そこを確認したいです」
アテナが答えると、はちは頷いた。
「お願いします」
フィナが、少し身を乗り出した。
「私にも、できることはありますか?」
アテナが隣を見る。
フィナは、先ほどまでの遠慮がちな姿勢から、顔を上げていた。
「資料を持ってくるお手伝いでも、記録でも……私も、一緒に考えたいです」
はちは、アテナへ目を向けた。
神界に残る資料。
その保管場所も、持ち出してよい範囲も、はちには分からない。
アテナは、少し考えた。
「まず、必要な資料を整理しましょう。ゼウス様へも、何を調べたいのか、お伝えしなければなりません」
「はい」
フィナは頷いた。
できることが示されて、その声に少し張りが戻る。
咲は、はちの紙へ視線を落としていた。
「プラスエネルギーを集める方は、どうするの?」
「……そこも、これからです」
「みんなに、明るい気持ちになってくださいって頼む?」
はちは、一瞬考え、首を傾げた。
「それだけで、集められるなら楽なんですけどねぇ」
フィナが、思わず小さく笑った。
部屋の張り詰めた空気が、少し緩む。
はちは、紙の隅へ、また問いを書いた。
『何を、どう集めるか』
「ただ、誰かの大事な気持ちを奪ってまで、集めるものにはしたくありません」
そう言って、アテナを見る。
「さっきのお話にありましたよね。魂を楽にするために、大切なものまで失わせてはいけない、と」
「……はい」
「こちらも、同じだと思います」
アテナの胸が、わずかに熱くなった。
研究を始めた頃、何度も確かめたことだった。
成果を出すために、目の前の相手を忘れないこと。
はちは、その話を聞き流していなかった。
「温かい感情に結び付いて生じる力と、その感情そのものを、どこまで分けて考えられるか……調べる必要がありますね」
アテナが言うと、はちは頷いた。
「はい。自分も、そこを知りたいです」
すぐに集め始めるわけにはいかない。
けれど、何を調べるのかは、少しずつ見えてきた。
◇ ◇ ◇
「はち」
ステラが、紙の端へ触れた。
「……ステラの力も、使う?」
はちは、彼女へ顔を向ける。
小さな指は、新しく描いた貯蔵庫の丸を指していた。
「空間を扱うときには、相談すると思います。でも、まだ、どう作るかも決まっていません」
「……うん」
「それに、ステラ自身の封印を、無理にどうこうするつもりはありませんよ」
ステラは、はちを見上げた。
「今、できることを、一緒に確かめたいです」
しばらく、返事はなかった。
やがて、ステラが小さく頷く。
「……分かった」
アテナは、その二人を見ていた。
はちが次元神の力を持つことも、今日、初めて知った。
ステラと力を合わせて、その力を使っていることも。
同じ名で呼ばれる力が、ここにもある。
だから、できることがあるのかもしれない。
同時に、それだけで同じ設計が通用するとは限らない。
アテナは、その考えを口にした。
「貯蔵庫は、ヘルカイザーさんご自身の力に合わせて作られています。享司さんとステラさんの場合は、接続の仕方も違うでしょう」
「はい。そこは、そっくり真似しない方がよさそうですね」
はちは、最初の図へ目を戻した。
「参考にするところと、作り直すところを分けます」
咲が、机へ肘をつかず、少しだけ身を寄せた。
「大仕事になりそうね」
「……ですねぇ」
「でも、考え始めたら止まらないでしょう?」
はちは、返事をする前に、新しい紙へ目を向けた。
咲が、呆れたように笑う。
「ほら、もう次を描こうとしてる」
「わふっ。まだ、確認したいことがあるんですよ」
「分かってるわよ」
咲は、机の端へ置かれた茶器へ手を伸ばした。
すっかり冷めたお茶を見て、眉を下げる。
「ただ、全員、少しは休みながらにしましょうね」
その言葉に、アテナも初めて、自分の肩が強張っていたことに気付いた。
◇ ◇ ◇
お茶を飲みながら、アテナは、もう一度、二つの貯蔵庫を見比べた。
紙の上では、どちらも同じ丸だった。
だが、一方は、長い年月をかけて完成した装置だ。
もう一方は、今、名前を書かれたばかりの案だった。
「……この貯蔵庫が作れれば」
アテナは、言いかけて止まった。
はちは、湯飲みから目を上げる。
「はい?」
「暴走を防ぐ手掛かりに、なるかもしれないのですね」
はちは、ゆっくり頷いた。
「そう考えています」
アテナの指が、紙の上で止まる。
「けれど、それで、今のあの方の考えが変わるわけでは……」
「はい。そこは、さっきのお話を聞きましたから」
はちは、静かに答えた。
「貯蔵庫を作れても、マスター社長への忠誠がなくなるわけではないと思います。制圧を諦めてくれる保証もありません」
咲が、はちの横顔を見る。
はちは、アテナから視線を逸らさなかった。
「だから、戦いへの対策としても考えています。あの人が、こちらを攻撃し続けるなら、守る方法が必要です」
「……ええ」
「その上で、本人にも制御できない破壊まで止められるなら、その方がいい」
アテナは、ゆっくり息を吐いた。
「……あの方は、ご自身でも、原因を理解しています」
アテナは言った。
「それでも、対策を作らなかったのでしょうか」
はちは、少し考えた。
「分かりません。何か試しているかもしれませんし、自分たちが知らない事情があるのかもしれません」
紙へ目を落とす。
「ただ、あの人の研究を、あの人と同じ方向から考える必要はないと思います」
アテナが、顔を上げた。
「同じ方向……」
「マイナスエネルギーを、もっと集める。もっと蓄える。もっと使う。その研究を続けていたなら、逆のものを別に蓄える案は、後回しになっていたかもしれません」
はちは、小さな丸を指でなぞった。
「自分たちは、そこから考えてみたいんです」
まだ、何も作れていない。
答えを得たわけでもない。
けれど、アテナには、その丸が、先ほどとは違って見えた。
長く読み返してきた図面へ、新しい線が加わろうとしている。
◇ ◇ ◇
「アテナさん」
はちは、改めて姿勢を正した。
「貯蔵庫の資料を、調べさせてもらえませんか?」
アテナは、はちを見る。
「自分一人では、分からないことが多過ぎます。当時、一緒に研究されていたアテナさんにも、協力をお願いしたいです」
声は、真剣だった。
アテナは、すぐには答えなかった。
友人の作ったものを調べる。
その力へ対抗するために使う。
その重みは、分かっていた。
けれど、図面をしまい込んだままでは、何も変わらない。
自分が覚えていることを語るだけで、目の前の戦いが終わるわけでもない。
アテナは、紙へ目を落とした。
魂を傷つけない。
使う者へ、無造作に流入させない。
何を取り込み、どこへ蓄え、どこへ流すのか。
初めの研究室で、確かめるべきだったこと。
今、もう一度、確かめられること。
「……分かりました」
アテナは、顔を上げた。
「保管している資料を確認し、研究に必要なものを用意します。私の知っている範囲でしたら、構造の検討にも協力させてください」
はちの肩から、少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
「ただし、今の装置と、当時の装置には違いがあります。そこは、一緒に確かめていきましょう」
「はい」
フィナも、小さく頷いた。
「私も、資料の確認をお手伝いします」
咲は、二枚の紙を整えた。
「私は、あなたが一人で試し始めないか見ておくわ」
「……咲。信用がありませんねぇ」
「研究に夢中になるところは、昔から知っているもの」
はちは、反論しかけて、口を閉じた。
隣で、ステラが小さく頷いている。
「……ステラまで?」
「はち、休まないとき、ある」
「わふっ……」
アテナの口元が、少しだけ緩んだ。
アテナは、新しい紙を一枚、自分の前へ引いた。
「最初に、私が覚えている接続の位置を描いてもよろしいですか?」
はちが、すぐに顔を上げる。
「お願いします」
「正確な寸法や術式は、資料で確認し直す必要があります。ですが、大まかな流れなら……」
「はい。分からない箇所は、印を付けておきましょう」
アテナは、筆を取った。
アテナは、紙へ最初の線を引いた。
はちが、その線の先を目で追う。
ステラも、身を寄せた。
咲が、机の上の茶器を少し端へ動かす。
フィナは、新しい記録用の紙を用意した。
机の上には、二つの貯蔵庫が並んでいる。
膨大なマイナスエネルギーを蓄える、今ある装置。
そして、プラスエネルギーを蓄えるための、まだ形のない案。
はちは、その間へ線を引こうとして、手を止めた。
「……ここを、どうするかですね」
アテナは頷いた。
「ええ。まずは、それぞれを確かめましょう」
はちは、未完成の図を見つめた。
あの白い竜へ、届かなかった攻撃。
崩れていく理性。
街へ向けられた、無数の銃口。
そこへ立ち向かう方法を、力の大きさだけで考え続ける必要はない。
作られた仕組みなら、調べられる。
流れがあるなら、辿るところから始められる。
はちは、紙の上へ新しい問いを書き込んだ。
「……作ってみましょう。もう一つの貯蔵庫を」
アテナは、静かに頷いた。
窓の向こうで、街の音が続いていた。
その街を守るための研究が、小さな机の上で始まろうとしていた。
――第76話・了――




