第75話 ステラという名前、アイリスという記憶
――アルカディア――
「……大丈夫ですよ、はちさん」
そう答えたアテナは、膝の上で重ねた手を動かさなかった。
はちは、少し不思議そうにしながらも頷いている。
その隣では、咲がまだ笑いをこらえていた。
ようやく落ち着いて話ができそうだ。
はちがそう思ったところで、そばから小さな声がした。
「……はち」
聞き慣れた声だった。
はちは、すぐにそちらへ顔を向ける。
「ああ、ステラ。ごめんね。少し、お話が長くなってしまいましたね」
「……ううん」
ステラは小さく首を振った。
「知らない声が、聞こえたから……」
そこで、言葉が止まる。
彼女の視線が、向かい側に座る二人へ向いた。
アテナ。
その隣には、フィナ。
ステラが二人を見つめる。
そして、二人もまた、彼女から目を離せなくなっていた。
最初に椅子から立ち上がったのは、フィナだった。
「……アイリス?」
その名を聞いて、はちは顔を上げた。
「……え?」
ステラも、すぐには返事をしなかった。
フィナの唇が、わずかに震えている。
「アイリス……なの?」
アテナが、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどまでの戸惑いや、咲にからかわれていた表情は消えていた。
目の前の存在を、何度も確かめるように見つめている。
「……あなた……」
ステラが、フィナへ目を向けた。
それから、アテナを見る。
「……フィナ……?」
小さな声。
フィナが、息を呑んだ。
「……うん。私です」
返事をした途端、声が詰まる。
ステラは、もう一人へ顔を向けた。
「アテナ……?」
「……ええ」
アテナが頷いた。
近付こうとした足が、途中で止まる。
驚かせないようにと考えたのか、それとも、自分の方がうまく動けなかったのか。
はちには分からなかった。
ただ、二人とも、本当に驚いている。
先ほど自分を見たときとも違う。
知っているはずの相手が、思いも寄らない場所にいた。
そんな顔だった。
「……皆さん、お知り合いなんですか?」
はちが尋ねると、アテナの視線がこちらへ戻った。
返事までに、少し時間がかかった。
「……はい」
彼女は、もう一度ステラを見る。
「神界にいた頃の……知り合いです」
はちは、その言葉を静かに受け止めた。
神界。
ステラが、何かを封じられた場所。
彼女自身にも、よく覚えていないという過去がある。
その過去を知る人たちが、いま目の前にいる。
はちは、すぐに次の質問を重ねなかった。
ステラの顔を、先に見た。
◇ ◇ ◇
「……アイリス」
フィナが、もう一度呼んだ。
ステラはその声を聞き、少しだけ目を伏せた。
「……久しぶり」
短い返事だった。
それでも、フィナは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「本当に……あなたなんですね」
アテナの声も、少し揺れていた。
ステラが頷く。
長い説明はなかった。
どうしてここにいるのか、何があったのか。
まだ、誰も聞こうとしない。
アテナとフィナは、ただ、そこにいることを確かめていた。
咲が、静かに椅子を引いた。
「……座って話しませんか」
その声で、二人はようやく周囲へ意識を戻した。
「あ……はい」
アテナが腰を下ろす。
フィナも、少し遅れて椅子へ戻った。
はちはステラへ手を差し出した。
「こちらへ。急がなくていいですからね」
ステラが、そばへ寄る。
その動きを、アテナが見つめていた。
はちへ向ける視線。
彼の声に答えるときの、小さな頷き。
その間にある自然なやり取りが、彼女の表情をわずかに変えた。
「……今は、こちらに……?」
アテナが尋ねる。
ステラは頷き、はちへ顔を向けた。
「……はちと、一緒」
「そう、なのですね……」
アテナが息を吐く。
その声へ、はちは少しだけ言葉を添えた。
「自分の、相棒です」
ステラが、こちらを見上げる。
はちは、微笑んだ。
彼女自身の過去について、知らないことは多い。
これまで、聞いても答えられなかったこともある。
だけど、今の関係を説明する言葉まで迷う必要はなかった。
「いつも、助けてもらっています」
アテナは、その言葉を聞いて目を細めた。
フィナも、少しだけ口元を和らげる。
「……そうですか」
ステラは、視線を落とした。
困っているのではない。
どう返せばいいのか、少し照れているように見えた。
その様子を見てから、アテナが静かに尋ねた。
「先ほど、はちさんは……あなたを、ステラと呼んでいらっしゃいましたね」
ステラが顔を上げる。
「……うん」
「今は、そのお名前なのですか?」
はちは、アテナへ向き直った。
「はい。ステラという名前は、自分が付けました」
アテナが、わずかに瞬きをする。
その隣で、フィナもこちらを見た。
「……はちさんが?」
「ええ」
はちは頷いた。
「一緒に過ごすようになって、そのときに」
そう説明してから、ステラへ目を向ける。
彼女は、小さく頷いていた。
「……ステラは、ステラ」
少し間を置いて、言葉が続いた。
「はちが、くれた名前……」
アテナは、しばらく黙っていた。
昔の名を聞いて、ここにいる相手を確かめた。
けれど、いま本人が口にした名前は違う。
その名を、そばにいる相手から受け取ったという。
「……分かりました」
アテナは、静かに微笑んだ。
「では、今は……ステラさん、と」
ステラが顔を上げる。
フィナも、少しだけ身を乗り出した。
「私も、そう呼んでもいいですか?」
「……うん」
小さな返事だった。
けれど、はっきりと頷いた。
はちは、そのやり取りを見守っていた。
アイリスという名前を、今日初めて聞いた。
彼女には、自分と会う前からの時間がある。
それが、急に目の前へ現れた。
だからといって、自分が付けた名前で呼んでほしいと先に言うつもりはなかった。
どちらも、ステラ自身の話だ。
その本人が、自分の名を静かに告げた。
はちは、それを少し嬉しく思った。
◇ ◇ ◇
アテナは、改めてステラを見つめた。
懐かしいと思うだけでは、済まなかった。
ここで彼女に会うとは、想像していなかった。
はちの相棒として、同じ部屋にいることも。
そして、もう一つ。
先ほど姿を現したときから、気になっているものがあった。
アテナの視線が、ステラからはちへ動く。
はちは、その変化に気付いた。
「……どうしました?」
アテナはすぐに答えず、もう一度ステラを見た。
「……ステラさん」
「……なに?」
「あなたは、今……はちさんへ、力を貸しているのですか」
部屋の空気が、少し変わった。
咲も、アテナへ目を向けた。
はちは、自分の左手首へ一度視線を落とす。
それから、彼女を見た。
隠して驚かせたい話ではなかった。
かといって、相手が何を察したのかも確かめたい。
「……どの力のことでしょうか」
穏やかに、聞き返す。
アテナは、はちを見つめた。
「次元神の力、です」
フィナが、小さく息を呑んだ。
はちは、すぐには返事をしなかった。
アテナは、視線を逸らさずに続ける。
「先ほどまでは、はっきり分かりませんでした。ですが、彼女が現れて……」
言葉を、一度切った。
「あなたとステラさんの間にあるものを感じて、もしかしたら、と」
はちは、ステラへ目を向ける。
彼女は、静かにこちらを見ていた。
隠さなければいけないと怯える様子はない。
けれど、勝手にすべてを話してしまってよいとも思わなかった。
短く視線を交わしてから、はちは頷く。
「……はい。自分は、次元神の力を使います」
アテナの手が、膝の上で止まった。
フィナは、目を見開いている。
「……享司さんが……?」
こぼれた以前の名前へ、フィナ自身がすぐに気付いた。
「す、すみません。はちさんが、その力を……?」
「ええ」
はちは、短く答えた。
それから、ステラへ顔を向ける。
「ステラとユニゾンして、支えてもらっています」
アテナは、息を吸った。
転生させた青年。
思いがけず少女の姿になっていた、いまの彼。
その彼が、次元神の力を持っている。
そして、そのそばにいるのがアイリス――今はステラと名乗る彼女だった。
話が、あまりにも一度に繋がっていく。
けれど、アテナは慌てて立ち上がることはしなかった。
「……ステラさんご自身は」
慎重に、言葉を選ぶ。
「今も、その力を使えないままなのですか」
ステラの視線が、少し下がった。
「……うん。ステラ自身では、使えない」
小さな声。
「封印されているから……」
はちは、その言葉を黙って聞いた。
以前、研究室で尋ねたときと同じ答えだった。
あのときは、なぜ封じられたのかと尋ねた。
ステラは、よく覚えていないと言った。
その先を、無理に聞かなかった。
今も、そのつもりは変わらない。
アテナが次の言葉を探しているのを見て、はちは静かに口を開いた。
「……詳しいことは、ステラにも、よく分からないところがあるそうです」
アテナがこちらを見る。
「自分も、すべてを聞いているわけではありません」
ステラの顔を、一度確かめる。
「ですから、その話をするのであれば、ステラの気持ちも聞いてからにしたいです」
拒絶する言い方ではなかった。
アテナは、その意図を理解して頷いた。
「……はい。失礼しました」
ステラが、はちへ寄る。
はちは、何も急かさなかった。
目の前の相手が昔を知っている。
それだけで、その場で過去をすべて聞き出してよいわけではない。
フィナも、静かに口を閉じた。
ただ、彼女の目には、別の驚きが残っていた。
はちとステラ。
この二人が一緒にいることを、まだ確かめているようだった。
◇ ◇ ◇
「……少し、驚きました」
アテナが、ようやく言った。
「こちらへ来てから、知らなかったことばかりです」
はちは、少し困ったように笑う。
「自分も、今日初めて知ったことがありますから。ステラのお名前のこととか……」
ステラが、わずかに顔を上げた。
アテナは、彼女を見つめる。
「……神界で知っていたお名前と、今のお名前。その両方を、あなたが持っていらっしゃるのですね」
ステラは少し考えてから、頷いた。
フィナが、そっと声を掛ける。
「覚えていないことは、無理に思い出さなくても……」
「……うん」
「私たちのことも、すぐに全部思い出せなくても大丈夫ですから」
ステラは、フィナを見た。
懐かしいと感じるものは、確かにあった。
名前を呼ばれて、顔を見て、返せた言葉もある。
でも、どんなことを話したのか。
いつ、どこで一緒にいたのか。
すべてが順に並ぶわけではなかった。
ステラは、小さく口を開く。
「……フィナの声は、覚えてる」
フィナの表情が、揺れた。
「……本当ですか」
「……うん」
それから、アテナを見る。
「アテナも……」
言葉が、そこで止まった。
続きを探すように、少しだけ眉が寄る。
アテナは、微笑んで首を振った。
「今は、それだけで十分です」
ステラは、彼女を見つめた。
足りないものを責める声ではなかった。
分からないところを、すぐに埋めようとする声でもない。
はちが、そばから静かに言う。
「今日は、急にお知り合いが増えましたからねぇ。疲れたら、言ってください」
「……大丈夫」
「それなら、いいんですけど」
はちは頷いた。
咲は、そんな二人を黙って見ていた。
次元神の力を使える。
彼女は、その事実を知っている。
模擬戦で、自分の攻撃が届かなかったことも。
その力が、どれほど厄介なのかも。
けれど、いま交わされているのは、能力を確かめる会話だけではない。
はちのそばにいるステラが、かつての知り合いと再会している。
咲は、口を挟まずに待った。
やがて、アテナの視線が、再びはちへ向いた。
「……こちらの世界で、その力を使っていらっしゃるのですね」
「はい」
はちは、少しだけ表情を変えた。
ここまで、話の流れで頷いてきた。
だけど、彼女が次元神という言葉を知っている。
ステラの過去も、少なくとも一部は知っている。
だったら。
胸の中に、以前から残っていた名前が浮かぶ。
白い小さな竜。
自分と似た力を、それ以上に自在に使う相手。
はちは、一度だけ咲を見た。
咲は何も言わず、こちらへ視線を返した。
尋ねたいことがあるのだと、分かったらしい。
はちは、アテナへ向き直る。
「……アテナさん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
彼女は、静かに頷いた。
はちは、その顔を真っ直ぐに見た。
「ヘルカイザーという名前に、心当たりはありますか」
◇ ◇ ◇
アテナの指が、止まった。
フィナも、はちへ顔を向ける。
その反応を見て、はちは答えを聞く前に何かを察した。
知らない名前では、ない。
彼女たちは、この世界へ来た。
そして、自分に会う前にも、何か用があったと言っていた。
ただの偶然なのか。
それとも。
アテナは、少し間を置いて答えた。
「……はい。知っています」
はちは、黙って頷く。
ステラも、アテナを見ていた。
ヘルカイザーという名は、この部屋の中でただ一人だけの疑問ではない。
咲にも、ステラにも、関わる話だった。
「……自分たちは、あの人と戦いました」
はちは、静かに告げた。
アテナの瞳が、わずかに動く。
「ガーディアンを制圧すると言って、こちらへ来ています。いろはさんたちも、巻き込まれました」
「……そう、でしたか」
声は、小さかった。
驚きだけではない。
すでに何かを聞いていた者が、新しい側からその事実を受け取った。
はちには、そう聞こえた。
「アテナさんは、あの人と、どういうお知り合いなんですか」
責めるための問いではなかった。
だが、笑って流せる話でもない。
はちは、そのまま返事を待った。
アテナは、フィナへ一度視線を向ける。
彼女は、黙って頷いた。
アテナが、顔を戻す。
「……かつて、神界で知り合いました」
はちの目が、少し細くなる。
「研究のお話をしたり、一緒に考えたり……そういう時間を過ごした相手です」
そこで、言葉が止まった。
どこまで、どう説明するか。
迷っているのだと分かった。
はちは続きを急かさなかった。
やがて、アテナは、静かに告げた。
「私は、友人だと思っています」
咲が、わずかに姿勢を変えた。
ステラは、はちへ目を向ける。
はちは、すぐには答えなかった。
友人。
自分たちへ攻撃を向け、世界を制圧すると笑った相手。
その相手を、目の前の女神は、そう呼んでいる。
意外ではあった。
けれど、それだけで彼女が敵だと決め付けるつもりもない。
知らなければならないことが、まだあった。
「……今も、会っているんですか」
アテナの表情が、少し変わった。
「長く、消息が分かりませんでした」
はちは、頷く。
「ですが……今日、こちらの世界で再会しました」
今度は、はちの方が言葉を止めた。
◇ ◇ ◇
「……今日?」
「はい」
「自分たちと会う前に、ですか?」
「……はい」
アテナは、目を逸らさなかった。
フィナも、黙って座っている。
咲が、ゆっくりと口を開いた。
「……こちらの世界に用があったというのは、そのことだったんですね」
「ええ」
アテナは頷いた。
「神界で、あの方の気配を感じました。それで、ゼウス様へ報告し、許しをいただいて来たのです」
はちは、その説明を聞いていた。
ヘルカイザーは、エクリプスの三人を回収して去った。
その後、どこへ行ったかは知らない。
そこへ、アテナたちが会いに行った。
時間の流れが、少しだけ繋がる。
「……何を、話されたんですか」
アテナは、少し息を整えた。
「今のお仕事のことを。それから……こちらの世界で起きたことを、あの方から伺いました」
はちは、表情を引き締めた。
「暴走のことも、ですか」
アテナが、静かに頷く。
「……はい」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
フィナの顔に、先ほどまでとは違う緊張が浮かんでいる。
はちは、彼女の様子も見た。
あの話を、聞いた。
だから、知っている。
ただ、自分たちはその場にいた。
降り続ける攻撃を、止めようとしていた。
同じ出来事を知っていても、その位置は違う。
「……いろはさんたちは、今も手当てを受けています」
はちは告げた。
「今日は、その後にエクリプスの三人とも戦いました。勝ちましたけど、余裕があったわけではありません」
アテナは、黙って聞いていた。
「自分にとって、ヘルカイザーは敵です」
言葉を、はっきりさせる。
「アテナさんのお知り合いだとしても、それは変わりません」
「……はい」
アテナの返事は、静かだった。
「私も、それを変えていただくために、咲さんへ案内をお願いしたわけではありません」
はちは、彼女を見つめた。
「あなたが無事に暮らしているか、知りたかったのです。はちさんがあの方と戦っていたことは、こちらへ来て、いま初めて伺いました」
アテナは、ステラへ目を向ける。
「次元神の力をお持ちだと知ったのも、つい先ほどです」
はちは、少しだけ息を吐いた。
知っていて、何も言わずに近付いたのではない。
少なくとも、彼女はそう説明している。
その言葉と、ここまでの反応は、食い違っていなかった。
◇ ◇ ◇
「……あの人は、次元神について詳しいです」
はちは、少し間を置いて話し始めた。
「詳しいどころでは、ないかもしれませんね」
左手首へ目を落とす。
そこに、シアがある。
そして、すぐそばにはステラがいる。
どちらも、これまでの戦いを支えてくれた相棒だ。
ヘルカイザーは、その力を見ても驚かなかった。
こちらが何をするかを読み、対処した。
自分が知りたいと思っていたことにも、先に答えを持っているような相手だった。
「次元神を作ったと、あの人は言いました」
アテナの目が、わずかに動く。
はちは、その反応を確かめながら続けた。
「自分も、戦っていて、力の扱いが違うと感じました。だから……どういう人なのか、知りたいんです」
ステラの手が、はちのそばで少し動いた。
はちは、その気配に目を向ける。
彼女も聞いている。
それを確かめてから、アテナへ顔を戻した。
「アテナさんが何かをご存じなら、お話しできるところだけでも」
アテナは、少し黙っていた。
自分の中にある、昔の記憶。
今日、本人から聞いたばかりの言葉。
それを一度に並べれば、この部屋の者たちにも何かは伝わるだろう。
けれど、昔の姿を示すことで、いま受けた被害を軽くしてはいけない。
彼らは、友人として彼を見ていない。
敵として、向き合わなければならない。
アテナは、そのことを確かめてから口を開いた。
「……自分自身の身体を変え、神に近い力を持つ存在となった方です」
はちは、黙って聞いた。
「神界でお会いしたときから、研究を続けていらっしゃいました。何かを作り、試し、仕組みを考えることを、とても楽しんでいた方でした」
「……今も、その辺りは変わっていないみたいですね」
はちが、小さく言った。
アテナは頷く。
「ええ。その点は、今日お話ししていても感じました」
そこで、言葉を区切った。
「ですが、私が昔を知っているからといって、今の行動をすべて説明できるわけではありません」
はちは、アテナを見る。
「今日、再会して初めて聞いたことも、多くあります」
「……会社のこととか?」
「はい。ガルデローベ社に勤めていらっしゃることも、マスター社長へ自ら忠誠を誓ったことも」
咲が、わずかに眉を寄せた。
アテナは、静かに続ける。
「研究費が必要だったことが、入社のきっかけだそうです。ただ、今は資金だけのためではないと……ご自身で仰っていました」
はちは、黙って頷いた。
利用されているだけなのか。
従わされているのか。
そういった可能性を、都合よく残してよい話ではない。
本人が、自分で選んだと言っている。
「……制圧をやめると、言っていましたか」
はちは尋ねた。
アテナは、首を振った。
「いいえ」
その答えは、短かった。
「忠誠を変えるつもりはないと、はっきり仰っていました」
はちは、小さく息を吐いた。
「……そうですか」
期待していたわけではない。
それでも、知っておくべき答えだった。
◇ ◇ ◇
ステラが、静かにアテナを見ていた。
次元神を作った者。
その言葉は、彼女自身の中にも残っている。
はちと一緒に聞き、受け止めようとした話だった。
アテナは、その視線に気付いた。
「……ステラさん」
名前を呼ぶと、彼女が顔を上げる。
アテナは少し考えてから、続けた。
「無理に、この話を聞き続けなくてもよいのですよ」
ステラは、すぐには答えなかった。
はちを見る。
それから、自分の手元へ視線を落とす。
「……聞きたい」
小さな声だった。
「分からないこと、あるから……」
アテナは頷いた。
「……分かりました」
それだけ答え、話を先へ急がせなかった。
フィナが、そっとステラへ声を掛ける。
「途中で休みたくなったら、言ってくださいね」
「……うん」
はちは、そのやり取りを見ていた。
神界での知り合い。
その言葉だけでは、どのような関係だったかまでは分からない。
それでも、今、二人がステラを気に掛けていることは分かった。
何かの力としてではなく、昔、知っていた相手として。
そのことに、少しだけ安堵した。
そして、アテナへ視線を戻す。
「……自分には、まだ分からないことが多いです」
そう切り出した。
「あの人が、どうして今のようになったのか。どこまでが仕事で、どこからが本人の興味なのか」
アテナは、黙って聞く。
「だからといって、それが分かれば、すぐにどうにかできるとも思っていません」
咲が、小さく頷いた。
はちは、続けた。
「ただ、何も知らないまま向き合うよりは、知っていたいんです」
その言葉に、アテナはゆっくり頷いた。
「……はい」
神界で、自分がゼウスへ告げたことと、どこか似ていた。
けれど、同じではない。
自分は、会いたかった。
はちは、戦わなければならなかった。
その違いを、忘れないようにする。
「私に分かることでしたら、お話しします」
アテナが告げた。
「ただ、分からないことまで、知っているように答えることはできません」
「……ええ。それで、お願いします」
はちは、少しだけ表情を緩めた。
都合のよい答えがほしいわけではない。
何でも知っていると、言ってほしいわけでもない。
分かることと、分からないこと。
その両方を確かめたかった。
◇ ◇ ◇
「……プラスエネルギーについても、ご存じですか」
はちが尋ねると、アテナの手が、わずかに止まった。
その反応を見て、はちは言葉を付け足す。
「今回の暴走について、関わりがあったと聞いています」
アテナは、静かに頷いた。
「……今日、あの方から伺いました」
フィナも、はちを見る。
「私たちも、以前、何が起きたのか分からなかったことがありました。それが、プラスエネルギーによるものだったと……」
アテナは、そこで一度言葉を切った。
はちは、返事を待つ。
「今は、あの方ご自身も、その正体を理解していらっしゃいます」
「……はい」
はちは頷いた。
それは、今回の戦いでも伝わってきたことだった。
彼は、何が自分に起きているか、知らずにいたわけではない。
「では、以前にも、似た反応があったんですね」
「……はい」
アテナの声が、少し低くなる。
「ですが、その話をするなら、私が見たことと、今日聞いたことを、分けてお伝えしなければなりません」
はちは、彼女を見た。
アテナは、視線を逸らさずに続けた。
「私がそばで見ていた時期のこともあります。けれど、長く消息が分からなかった間のことは、本人から聞くまで知りませんでした」
「……分かりました」
はちは、短く答えた。
その声で、アテナも少しだけ息を整える。
すぐに結論を出そうとしていない。
質問を重ねて、自分の望む答えへ導こうともしていない。
ただ、話を聞こうとしている。
ならば、自分も、記憶を取り違えないように話さなければ。
フィナが、姿勢を正した。
咲も、もう笑ってはいなかった。
先ほどまでの対面の騒ぎとは、空気が変わっている。
けれど、重くなったからといって、誰かが立ち去ることもなかった。
ステラが、はちの隣で小さく身じろぎした。
はちは、彼女へ顔を向ける。
「……大丈夫?」
「……うん」
返事を確かめてから、はちはアテナへ向き直った。
聞きたいことは、まだある。
けれど、一つ聞くたびに、相手の知らない時間へ足を踏み入れることになる。
それは、ステラにも、アテナにも、ヘルカイザーにもある時間だった。
知らないからといって、勝手に埋めない。
分かったつもりで、次の言葉を決めない。
はちは、静かに口を開いた。
「……アテナさんが知っている、あの人のお話を聞かせてください」
アテナは、頷いた。
「……はい」
その隣で、フィナがステラへ一度目を向ける。
神界で知っていた、アイリス。
今は、はちから受け取った名で呼ばれる、ステラ。
彼女がここにいることと、はちが次元神の力を持つこと。
それもまた、今日、初めて知ったことだった。
アテナは、その二人を見た。
ヘルカイザーを辿って、この世界へ来た。
そして、享司に会おうとして、咲へ案内を頼んだ。
その先で、再び出会った存在がいる。
偶然だという一言で済ませるには、胸に残るものが多かった。
けれど、いまは目の前の相手へ答えるときだ。
アテナは、呼吸を整えた。
はちは、黙って待っていた。
そのすぐそばで、ステラもまた、彼女を見つめている。
昔の名を知る者と、新しい名を与えた者。
二つの時間に挟まれながら、ステラは、はちの隣にいた。
窓の外では、アルカディアの日常の音が続いている。
その音を遠くに聞きながら、五人は同じ部屋で、一人の研究者について語り始めようとしていた。
――第75話・了――
この話の内容は知恵の女神と偽りの次元神になります




