第74話 会いたかった人は、小さな少女
――アルカディア――
街の音が、少しずつ近付いてきた。
ヘルカイザーと別れた後、アテナとフィナは並んで歩いていた。
会話は、ほとんどなかった。
聞いたばかりの言葉が、まだ胸に残っている。
ガルデローベ社。
マスター社長への忠誠。
プラスエネルギーと、二度の暴走。
そして、世界を一つ滅ぼしたという告白。
どれか一つだけを取り出しても、すぐに答えを出せる話ではなかった。
歩きながら考えても、最後には、彼が静かに言った言葉へ戻ってしまう。
それが、今の自分です。
アテナは、足元へ落としていた視線を上げた。
彼の言葉を聞くために来た。
ならば、その答えが自分の望むものではなかったからといって、聞かなかったことにはできない。
ただ、それを考える時間は必要だった。
「……アテナ様」
隣から、フィナが声を掛けた。
「少し、お休みになりますか」
アテナは、彼女へ顔を向ける。
フィナの表情にも、疲れが残っていた。
それでも、自分のことより先に、こちらを気遣っている。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
答えてから、アテナは少しだけ歩調を緩めた。
「あなたも、無理をしないでくださいね」
「はい」
フィナが頷く。
道の先では、人々が行き交っていた。
遠くの作業の音とは違う、日々の暮らしの音。
その中へ、二人は入っていく。
ここで過ごしている者がいる。
自分たちの知らない毎日を、続けている者が。
アテナの胸に、別の名前が浮かんだ。
「……享司さん」
小さく呟くと、フィナがこちらを見た。
「会いに、行かれますか」
「……ええ」
アテナは、静かに答えた。
「あの方が、今どのように暮らしているのかも、確かめておきたいですから」
ヘルカイザーが、この世界にいる。
そのことを、享司は知っているのだろうか。
会ったのかもしれない。
あるいは、まだ何も知らないのかもしれない。
考えるだけでは、分からない。
ただ、彼を捜すにも、手掛かりが必要だった。
「……咲さんに、お会いできればよいのですが」
アテナが口にすると、フィナも頷いた。
彼女も、享司と同じ世界を望んだ。
再会できていれば、居場所を知っているかもしれない。
アテナは、行き交う人々へ目を向けた。
神界で会った少女の顔を、思い出す。
享司が生きていると聞いたときの、あの表情も。
どうか、再会できていますように。
そう願った、そのときだった。
「……あれ?」
先に足を止めたのは、フィナだった。
少し離れた通りの向こう。
金色の髪を揺らしながら、一人の少女が歩いている。
アテナも、そちらを見た。
少女は何かを考えている様子で、こちらにはまだ気付いていない。
けれど、その顔には見覚えがあった。
「……咲さん?」
呼び掛けると、少女の足が止まった。
◇ ◇ ◇
――新里咲視点――
聞き覚えのある声だった。
だけど、こんな場所で聞くはずがない声でもあった。
「……え?」
私は、振り返った。
そこに立っている二人を見て、足が止まる。
長い髪の女性。
その隣には、もう一人。
忘れられるはずがない。
あの白い場所で、私に事情を説明した二人だった。
「……アテナさん? フィナさんまで……?」
「お久しぶりです、咲さん」
アテナさんが、静かに微笑んだ。
フィナさんも、少し緊張した様子で頭を下げる。
私は、二人を交互に見た。
似ている別人、ということではなさそうね。
「……どうして、こちらに?」
尋ねると、アテナさんは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「こちらの世界へ、用がありまして。その途中で、あなたのお姿を見掛けたのです」
「……そう、なんですか」
何だろう。
また何か、転生のときの説明に抜けでもあったのかしら。
思わずフィナさんへ視線を向けてしまった。
彼女が、少しだけ肩を縮める。
「……今回は、咲さんに何かあったというお話ではありません」
アテナさんが補足した。
私が何を考えたのか、分かったらしい。
「それなら、いいんですけど……」
私は、改めて二人を見た。
神界にいた人たちが、アルカディアの通りに立っている。
それだけでも、少し不思議な気分だった。
だけど、こうして会話ができている。
なら、いつまでも驚いているだけでは仕方ない。
「こちらで何か、捜していらっしゃるんですか?」
「ええ。咲さんに、一つお願いがありまして」
アテナさんが、私へ向き直った。
お願い。
その言葉に、私は小さく首を傾げる。
「……何でしょう?」
アテナさんは、周囲へ一度目を向けた。
それから、少しだけ声を落とす。
「金城享司さんに、会わせていただけませんか」
私は、瞬きをした。
享司。
そう来たか。
「……あの方とは、再会できましたか?」
続けて尋ねられ、私は頷いた。
「ええ。会えました」
アテナさんの表情が、少し和らぐ。
フィナさんも、ほっとしたように息を吐いた。
「……よかった」
その声を聞いて、私はあの白い場所を思い出した。
生きていると教えられたとき。
同じ世界へ行きたいと、迷わず答えたとき。
あの頃には想像していなかった形だったけれど、ちゃんと再会できた。
だから、その点については、私も素直に頷ける。
「……はい。本当に」
答えてから、少し考えた。
この二人は、享司の転生に関わった人たち。
今の彼を捜している。
だったら、案内すること自体は問題ないはず。
ただし。
私は、アテナさんへ目を向けた。
「一つだけ、先にお伝えしておきますね」
「はい」
「この世界では、別の名前で暮らしています。以前の名前は、人前で出さないでほしいそうなんです」
アテナさんが、真剣な顔で頷いた。
「分かりました。ご本人のご事情を、尊重します」
「ありがとうございます」
私は返事をしてから、フィナさんも見た。
彼女も、しっかり頷いている。
……うん。
とりあえず、それなら大丈夫でしょう。
問題は、その先なんだけど。
今の享司の姿を見たら、どんな顔をするのかしら。
私は、二人の表情を改めて確かめた。
アテナさんは、静かに待っている。
フィナさんにも、妙な含みはない。
……あれ?
もしかして。
いや、まさか。
転生させた当人たちなんだから、知っているはずよね?
「……今のあの子に会うのは、初めてなんですか?」
「転生後に直接お会いするのは、初めてです」
アテナさんが答えた。
なるほど。
私は、小さく息を吐いた。
だったら、会ってもらう方が早いか。
「分かりました。案内します」
そう言って、私は二人へ進む方向を示した。
◇ ◇ ◇
――アルカディアの通り――
三人は、人通りの多い道を離れて歩き始めた。
咲は先頭に立ちながら、ときどき後ろを確かめる。
二人とも、問題なくついてきていた。
「享司さんは、お元気ですか」
歩きながら、アテナが尋ねた。
咲は、少しだけ笑った。
「ええ。相変わらずですよ」
「相変わらず……」
「困っている人を見ると、放っておけないし。自分のことになると、妙に適当なところがありますし」
アテナの口元が、わずかに緩む。
咲は、その表情を横目で見た。
彼女たちが享司の何を知っているのか、詳しくは知らない。
ただ、いまの言葉で、何か通じるものがあったらしい。
「……それから、色々作っています」
「作っている?」
「便利なものとか、こちらが驚くようなものとか」
咲は少し考え、続けた。
「本人にとっては、普通のことみたいなんですけどね」
「……そうですか」
アテナの返事が、小さくなる。
咲は振り向きかけて、やめた。
先ほどから、この人には何か考え込んでいる様子がある。
享司に会いたいという話だけではないのかもしれない。
けれど、いまここで無理に尋ねることではなかった。
「今なら、少し話せると思います。いろはさんたちのことも気にしていましたけど……」
「いろはさん……?」
アテナが、顔を上げた。
咲は、彼女へ視線を向ける。
「知っているんですか?」
「……お名前を、伺いました」
「そうなんですね」
咲は、それ以上掘り下げなかった。
最近は、考えなければならないことが多い。
それでも、はちが自分の事情を話す相手くらいは、自分で選べばいい。
今は、対面の場所を作る。
咲は、そう決めて歩いた。
◇ ◇ ◇
落ち着いて話のできる部屋で待ってもらい、咲ははちを呼びに行った。
アテナは、椅子へ腰を下ろした。
隣には、フィナがいる。
通りを歩いていたときとは違い、周囲の音が静かになった。
そのせいで、ヘルカイザーとの会話が、また胸の内へ戻ってくる。
けれど、いまは別の相手へ会うために待っている。
アテナは、膝の上へ置いた手を整えた。
「……元気に暮らしていらっしゃるようですね」
フィナが、小さく声を掛ける。
「ええ」
アテナは頷いた。
相変わらず。
咲が笑いながら話した、その言い方が心に残った。
幼馴染だからこそ分かる、変わらないところ。
それを、こちらの世界でも見つけられたのだろう。
会わせてほしいと頼んだときの咲の返事には、迷いがなかった。
ちゃんと、再会できた。
それを知れたことは、嬉しかった。
「……享司さんも、驚かれるでしょうか」
フィナが、そう尋ねた。
「そうですね。突然、私たちが訪ねてくるとは、思っていらっしゃらないでしょうから」
アテナは答えた。
今の暮らしを、邪魔しないように。
以前の名前を、人前で口にしないように。
咲から頼まれたことを、もう一度確かめる。
会えたら、まずは挨拶をしよう。
その後、今の名前を教えてもらえばいい。
そう考えたところで、廊下から足音が聞こえた。
「……連れてきたわよ」
扉の向こうで、咲の声がした。
◇ ◇ ◇
――安藤はちの訪問――
「咲、お客さんって……どなたですか?」
声がした。
アテナは顔を上げる。
扉が開き、最初に咲が入ってきた。
その後ろから、もう一人が姿を現す。
小さな少女だった。
腰まで届く、灰黒色の長い髪。
こちらへ向けられた、灰色の瞳。
見たところ、まだ十歳ほどだろうか。
咲よりも低い位置にある顔が、不思議そうに室内を見渡している。
「……わふっ?」
少女の足が、止まった。
灰色の瞳が、まっすぐフィナへ向く。
その顔から、驚きが消えた。
代わりに浮かんだのは、あまりにも綺麗な笑顔だった。
「……フィナさん」
名前を呼ばれ、フィナが瞬きをする。
「はい。そうですが……」
少女は、にっこりと笑った。
「やっと、お会いできましたねぇ♪」
「……え?」
フィナの肩が、理由も分からないまま小さく跳ねた。
笑顔なのに、何故か背中が冷える。
「あの……どちら様でしょうか?」
「いやですねぇ。忘れてしまったんですか?」
少女が一歩、部屋へ入る。
フィナが一歩、椅子の後ろへ下がった。
「自分ですよ。貴女に『転生するならイケメンの姿で』と、確かにお願いした――」
そこで、少女は笑顔を深めた。
「金城享司です♪」
「…………あっ」
フィナの口から、短い声が落ちた。
「『あっ』ではありませんよぉぉぉっ!!」
少女――はちの叫びが、部屋を揺らした。
「わ、わああっ! ごめんなさぁぁぁい!!」
フィナは反射的にアテナの後ろへ逃げ込んだ。
アテナは、突然自分の背へ隠れた天使と、目の前で怒っている小さな少女を交互に見る。
「えっ……? 享司さん……?」
「はい! 今は安藤はちと名乗っていますけど、中身は正真正銘の金城享司ですよ!」
はちは、勢いよく左腕を持ち上げた。
――カシュッ!
左手首のSIAが左外側へ展開し、青白い魔力ディスクが形成される。
カードは一枚も差し込まれていない。
それでも、フィナの顔から血の気が引くには十分だった。
「どうしてイケメンをお願いした自分が、お風呂で下を見たら女の子になっていたんですかぁぁぁっ!?」
「手違いですぅぅぅっ!!」
「手違いで性別まで変わりますか普通ぅぅぅっ!?」
「本当にごめんなさぁぁぁい!!」
フィナはアテナの背後で、両手を合わせて何度も頭を下げる。
けれど、はちの足は止まらない。
「今日は逃がしませんからねぇ、フィナさん♪」
「ひっ……!」
「自分がこの姿でどれだけ大変な目に遭ったか、フィナさんがお星さまになる勢いで、じっくりお話ししましょうねぇ♪」
「それ、お話だけで済ませる顔じゃないよね!?」
フィナの悲鳴と同時に、はちの身体がふわりと浮いた。
「……わふっ!?」
背後から咲が、はちの両脇へ手を入れて持ち上げていた。
足が床から離れ、長い髪が揺れる。
「放してください、咲! 自分はフィナさんと、とても大切なお話があるんです!」
「駄目よ。その青白い物を出しながら言っても、まったく説得力がないもの」
「カードは入れていません!」
「入れる前に止めているの!」
はちは空中で手足を動かした。
けれど、咲は慣れた様子で離さない。
「咲ぃぃぃっ! 自分はこの日のために、聞きたいことを山ほど溜めてきたんですよぉぉぉっ!」
「聞くことは止めないわ。でも、フィナを本当に星にする勢いで迫るのはやめなさい」
「勢いだけです! たぶん!」
「最後の一言で余計に放せなくなったわ」
アテナは、口を挟むこともできずに三人を見ていた。
咲に抱え上げられた小さな少女。
自分の後ろに隠れたフィナ。
少女の左腕で回り続ける、青白い魔力ディスク。
そして、先ほど少女が名乗った名前。
「……待ってください」
ようやく、声が出た。
「本当に……享司さんなのですか?」
はちが動きを止め、アテナを見る。
怒りで上がっていた眉が、わずかに下がった。
「はい。アテナさん」
咲に持ち上げられたまま、はちは答えた。
「お手紙では、お世話になりました。今は安藤はちと名乗っています」
その言葉の運び方。
少し困ったように相手の反応を確かめる仕草。
姿も、声も、何もかも違う。
けれど、目の前の少女が嘘をついているようには見えなかった。
アテナは、咲へ視線を向けた。
「この子が、私の幼馴染だった金城享司です」
咲が、はっきりと告げる。
「私も最初は信じられませんでした。でも、間違いありません」
アテナは、もう一度はちを見る。
灰黒色の長い髪。灰色の瞳。十歳ほどにしか見えない、小さな身体。
覚えている享司の姿とは、あまりにも違った。
「……あなたは、転生後のお姿について、希望を伝えていらっしゃいましたよね」
「伝えました」
はちの返事は、今度は低かった。
「イケメンでお願いします、と。性別を変えてほしいなんて、一言も頼んでいません」
アテナは、ゆっくりフィナへ顔を向けた。
背後から覗いていたフィナが、びくりと震える。
「……フィナ」
「……はい……」
「どういうことですか?」
アテナの声は静かだった。
はちの叫びよりも、その静けさの方が怖かったのか、フィナの背筋が伸びる。
「その……転生の処理をしたときに……姿を指定する術式の一部を、取り違えてしまいまして……」
「取り違えた結果が、この姿ですか?」
「……はい」
フィナが小さくなる。
アテナは目を閉じかけた。
転生先は合っている。本人もここにいる。咲とも再会できている。
けれど、姿が違う。
希望と違うどころか、性別まで変わっている。
「……どうして、こうなるのですか……」
アテナは、とうとう両手で頭を抱えた。
その瞬間、はちの左腕に展開されていた青白い魔力ディスクが消えた。
咲も、ようやくはちを床へ下ろした。
◇ ◇ ◇
はちは、しばらく黙ってアテナを見ていた。
フィナへ聞きたいことは、山ほどある。
呆れているし、怒ってもいる。
自分の知らないところで姿を決められ、その後の苦労まで全部笑って済ませられるほど、軽い話ではなかった。
けれど、今はアテナが両手で頭を抱えている。
フィナの代わりに責任を感じていることは、見れば分かった。
さっきまでの勢いが途切れ、はちは小さく首を傾げる。
(……大丈夫でしょうか)
怒りが消えたわけではない。
ただ、目の前で具合が悪そうにしている人を、そのままにもできなかった。
「……あの」
はちは、アテナのそばへ一歩寄った。
彼女は、まだ顔を上げない。
「アテナさん?」
もう一度呼ぶ。
すると、ようやく彼女の視線が下りてきた。
立っているはちは、座るアテナの近くから、少し顔を上げていた。
灰色の瞳が、心配そうに覗き込む。
「……大丈夫ですか? 頭、痛いんですか?」
アテナの動きが、止まった。
はちは、さらに少しだけ首を傾げる。
長い髪が、肩からさらりと滑った。
「気分が悪いのでしたら、少し休んだ方が……」
言い終わる前に、アテナの手が額から離れた。
「…………」
何も言わず、こちらを見ている。
はちは、瞬きをした。
……あれ?
さっきまでとは、違う顔をしている。
困っているような。
何かを我慢しているような。
その変化を、先に理解したのは咲だった。
「……あ」
短い声が漏れる。
はちは、そちらへ顔を向けかけた。
その瞬間だった。
「……すみません」
アテナの声が、すぐそばで聞こえた。
「……わふ?」
「少しだけ……!」
ふわりと、腕が伸びる。
次の瞬間、はちはアテナに抱き寄せられていた。
「……わふっ!?」
◇ ◇ ◇
抱き締めてから、アテナは自分の行動に気付いた。
気付いたのに、腕をすぐには解けなかった。
さっきまで頭を抱えていた。
希望と違う姿になっていることへ、どう対処すればいいのか考えていた。
なのに。
下から、心配そうに見上げられた。
大丈夫ですか、と。
自分のことで困っている相手を、本人が心配してくれた。
その顔を見た瞬間、考えていた言葉が、綺麗に抜け落ちたのだ。
「……アテナさん?」
腕の中から、戸惑った声がする。
アテナは、ようやく少しだけ力を緩めた。
「す、すみません……」
「いえ、その……どうしました?」
はちが見上げてくる。
もう一度、近くから。
アテナは、息を詰めた。
駄目だ。
その顔で尋ねられると、説明する方が難しくなる。
「……可愛らしくて……つい……」
小さく答えると、はちの表情が止まった。
咲が、少し離れたところで口元を押さえる。
「……やっぱり」
その声を、はちは聞き逃さなかった。
「咲……分かっていたんですか?」
「途中で、ね」
「だったら、止めてくださいよ……!」
抗議する声は、強くなり切らない。
アテナの方が本気で申し訳なさそうな顔をしているため、はちも困っていた。
咲は、そんな二人を見比べた。
「でも、頭が痛いのかって心配して、自分から覗き込んだのはハチでしょう?」
「それは、心配しただけです……!」
「ええ。だから、余計に効いたんじゃない?」
はちは、言葉を失った。
アテナは、少しだけ顔を赤くする。
「……その通りです……」
「認めるんですか!?」
フィナが、二人を見つめた。
先ほどまで張り詰めていた表情が、少しだけ緩んでいる。
けれど、すぐに自分の立場を思い出したのか、慌てて背筋を伸ばした。
はちの視線が、そちらへ向く。
「……それより、フィナさん」
「は、はい!」
返事が、ひときわ大きかった。
「お話を、伺いたいんですけど」
アテナの腕の中にいるせいで、見た目の迫力はあまりなかった。
それでも、フィナは真剣な顔で頷いた。
「……はい」
咲は、とうとう小さく吹き出した。
◇ ◇ ◇
アテナがはちを放したのは、その少し後だった。
本人から「そろそろ放していただけると」と頼まれ、彼女は慌てて腕を解いた。
「……本当に、すみませんでした」
頭を下げるアテナへ、はちは困ったように笑う。
「……いえ。悪気がないのは、分かりましたけど」
「はい……」
「次は、先に言っていただけると助かります」
アテナは、しっかり頷いた。
咲が、はちの隣へ椅子を寄せる。
「ほら、ハチも座って。話しにくいでしょう」
「……ありがとうございます」
はちは腰を下ろした。
ようやく、四人が向かい合う形になる。
アテナは、改めて目の前の少女を見た。
先ほどの姿を思い出しかけて、今は話をしなければと意識を戻す。
その様子を見た咲が、また少し笑った。
はちは、咲へ横目を向ける。
助けてくれるつもりは、なさそうだった。
「……では、先ほどのお話の続きです」
はちがフィナを見る。
今度はSIAを展開していないが、フィナは反射的に背筋を伸ばした。
「何をどう取り違えたのか、最初から説明してください」
「……はい」
フィナは膝の上で両手を握った。
「享司さんの魂を転生先へ送る際、容姿の希望を術式へ反映させる必要がありました。ですが私が、隣にあった別の雛形を選んでしまって……」
「別の雛形?」
「その……女の子として転生するための雛形です」
「どうして、そんなものが隣にあったんですか!?」
「整理する前でして……!」
「整理してから作業してくださいよぉぉぉっ!」
はちが椅子から立ち上がりかける。
咲が無言で肩へ手を置き、もう一度座らせた。
「まだ最後まで聞いていないでしょう?」
「……そうでした」
はちは不満そうに座り直す。
フィナは、さらに身体を小さくした。
「それに気付かないまま、転生処理を完了させてしまいました。後から確認しようとしたときには、享司さんの魂はすでにこちらの世界へ……」
「それで、連絡も説明もないまま、自分だけお風呂で現実を知ったんですね」
「……はい。本当に、申し訳ありません」
フィナは深く頭を下げた。
はちは、すぐには答えなかった。
部屋へ入った瞬間から胸の奥にあった怒りは、まだ消えていない。
あの日。
鏡の前で、自分の姿を何度も確かめたこと。
下を見て、希望した身体とは根本から違うと知ったこと。
その後、周囲から少女として扱われ続けたこと。
今の暮らしを否定するつもりはない。
この姿で出会えた人たちも、今では大切だった。
けれど、それとフィナの失敗を許せるかどうかは別の話だ。
「……怒っていない、とは言いません」
はちが静かに告げる。
「呆れていますし、かなり怒っています。今こうして暮らせているから、全部よかったことにしましょう、とは言えません」
「……はい」
「ですから、謝るだけではなく、何を間違えたのか、元に戻す方法があるのか、今後どうするつもりなのか。全部、きちんと説明してください」
フィナが顔を上げた。
涙を溜めた瞳で、はちを真っ直ぐ見る。
「必ず説明します。調べられることも、すべて調べます。もう、知らないままにはさせません」
「……お願いします」
短い返事だった。
許したという言葉ではない。
それでも、フィナは逃げずに頷いた。
「私からも、お詫びいたします」
アテナが姿勢を正す。
「転生を担当した者だけの問題ではありません。私たちが送り出した方のその後を、確かめる仕組みが不十分だったことも事実です」
「……アテナさんまで謝らなくても」
「いいえ。謝るべきことです」
アテナは、はちから目を逸らさなかった。
「先ほど、可愛らしいと申し上げたことと、ご希望に沿えなかったことは別です。今のお姿が可愛らしいからという理由で、はちさんが困ったことまで軽く扱うつもりはありません」
はちは、少しだけ目を丸くした。
抱き付かれたときは、どうなることかと思った。
だが、アテナはアテナなりに、本人の望みと自分の感情を分けて考えているらしい。
「……ありがとうございます」
はちが小さく頭を下げる。
咲も、静かに息を吐いた。
冗談を言って笑うことと、本人の困り事をなかったことにすることは違う。
その線を、アテナはきちんと守っていた。
フィナは、まだ申し訳なさそうな顔をしている。
はちは、その顔を見て、念を押すように続けた。
「ですが、フィナさんへのお話は、これで終わりではありませんからね?」
「は、はい!」
「今日は咲がいますから、お星さまは勘弁しておきます」
「今日だけなの!?」
フィナの声が裏返った。
咲が肩を震わせ、アテナはまた額へ手を伸ばしかける。
はちは、ようやく少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
「……それにしても」
しばらくして、アテナが咲へ顔を向けた。
「よく、すぐにご本人だと分かりましたね」
咲は、はちを見た。
はちが、嫌な予感を覚えたように視線を返す。
「……咲?」
「すぐ、というわけでもありませんでしたよ」
咲は、少し笑いながら答えた。
「最初は、こちらも驚きましたし。本人も、素直に認めませんでしたから」
アテナが、はちを見る。
はちは目を逸らした。
「……色々と、事情がありまして」
「そうですね。事情があったのよね」
咲の声に、楽しそうな響きが戻る。
「でも、話してみると、分かるんです。姿が違っても、返し方とか、困ったときのごまかし方とか」
「……ごまかし方は、余計では?」
「そこも含めて、ハチでしょう?」
はちは、返事に詰まった。
アテナは、二人を見比べる。
あの白い場所で、咲は享司が生きていると聞き、同じ世界を望んだ。
それが今は、こうして隣に座っている。
見た目は、当初の想像とは随分違う。
けれど、二人の間には、説明のいらない時間があった。
「……本当に、再会できてよかったですね」
アテナが告げると、咲の表情が少し変わった。
からかうような笑みが、静かなものになる。
「……はい」
短い返事。
その隣で、はちも小さく頷いた。
「……そうですね」
言葉は少なかった。
それでも、アテナには十分だった。
再会できた喜びまで、間違いだったわけではない。
そのために選んだことが、すべて空回りしたわけでもない。
フィナも、二人を見つめていた。
安堵したような顔をしかけて、すぐにはちへ向き直る。
「……あの」
「はい?」
「こちらの暮らしについても、伺ってよろしいでしょうか」
はちは、少し考えた。
「……ええ。お話しできる範囲でしたら」
アテナも、頷いた。
今の彼を知る。
それは、ヘルカイザーのときと同じく、自分の想像だけで済ませてはいけないことだった。
ただし、今回の相手は、話の途中で不思議そうに首を傾げるだけで、別の問題を引き起こす。
アテナは、そのことを先ほど身をもって知ったばかりだった。
◇ ◇ ◇
「……今は、いろはさんたちと暮らしています」
はちが話し始めた。
アテナは、その名に小さく反応する。
けれど、話を止めることはしなかった。
「皆さんには、お世話になっていますね。色々ありましたけど……今の自分には、大切な人たちです」
その言葉に、咲が黙って頷く。
はちは、少しだけ視線を落とした。
今日は、その人たちが傷ついた。
勝って戻ってきたとはいえ、あれほど消耗した姿を見れば、気にならないはずがない。
アテナは、彼の様子を見つめた。
いろは。
ヘルカイザーが口にした名と、同じだ。
そして、ここには享司がいる。
彼は、その人たちを大切だと言っている。
胸の奥へ、いくつもの話が重なった。
けれど、本人がまだ話していないことまで、自分が言葉を重ねてよいわけではなかった。
「……ご迷惑でしたか。急にお訪ねしてしまって」
アテナが尋ねると、はちは顔を上げた。
「いえ。皆さんの手当ても始まっていますし、少しの間でしたら、大丈夫です」
その返事で、アテナは彼の心配の理由を知る。
咲が、横から口を開いた。
「長くなりそうなら、今日は挨拶だけでもいいわね」
はちは頷いた。
「そうですねぇ」
フィナが、慌てて手を振る。
「私たちは、お話しできただけでも……!」
そこで、はちと目が合う。
フィナの動きが止まった。
「……いえ。伺わなければいけないことも、説明しなければいけないことも、ありますね」
言い直した声に、咲が少し笑う。
「ええ。特に、姿のことはね」
「……はい……」
フィナの肩が、また下がる。
はちは、その様子を見て、小さく息を吐いた。
話したいことは、確かにある。
一度の挨拶ですべて終わる話でもない。
それでも、今こうして会えたことで、ずっと引っかかっていたものに、相手の顔が付いた気がした。
フィナのドジ。
言葉にすれば簡単だけれど、本人は、こんな顔で謝るのか。
はちは、改めて彼女を見た。
フィナが、背筋を伸ばす。
その隣で、アテナもこちらを見ていた。
はちは、ふと思い出した。
「……アテナさんも、もう大丈夫ですか?」
「……え?」
「先ほど、ずいぶん困っていらっしゃったので」
何気ない問い掛けだった。
アテナは、一瞬、言葉を失う。
咲が、すぐにこちらを見た。
「ハチ」
「はい?」
「その聞き方は、また危ないと思うわ」
「……何がですか?」
はちは、不思議そうに首を傾げた。
アテナが、そっと自分の手を重ねる。
今度は、伸ばさない。
先に言ってほしいと、頼まれたばかりなのだから。
「……大丈夫です」
少しだけ間を置いて、答える。
「心配してくださって、ありがとうございます」
「いえいえ」
はちは、柔らかく笑った。
アテナの指が、ぎゅっと重なる。
咲は、その様子を見て、とうとう笑いをこらえ切れなくなった。
「……分かるわ、その気持ち」
「……咲さん……」
「でも、さっき放したばかりですからね?」
アテナは、深く頷いた。
はちだけが、まだよく分かっていない顔をしていた。
◇ ◇ ◇
窓の外から、街の音が聞こえていた。
神界とは違う、人々の暮らす音。
外では、今日の続きを過ごしている者たちがいる。
アテナは、その音を聞きながら、目の前の少女を見た。
イケメンを希望したはずの青年。
いまは、安藤はちと名乗る少女。
本人も、困ったことがあったと言った。
その言葉を、忘れてはいけない。
けれど、咲と話す顔は自然だった。
大切な人たちのことを語る声にも、確かな温かさがあった。
この世界で、ちゃんと暮らしている。
ようやく、その姿を自分の目で見られた。
「……はちさん」
アテナが呼ぶ。
はちが、こちらを向いた。
「はい?」
「改めて、お会いできてよかったです」
今度は、今の名前で告げた。
以前の名前を隠して暮らしている理由まで、ここで無理に尋ねるつもりはなかった。
教えてもらった名を、まず大切にする。
はちは、少し驚いたように瞬きをした。
それから、小さく微笑んだ。
「……こちらこそ。お会いできてよかったです」
少し迷った後、はちは言葉を続けた。
「アテナさんのお手紙がなかったら、自分は何も分からないままでした。ステラのことも、神界のことも……自分がどうしてここにいるのかも」
アテナは、静かに耳を傾ける。
「ですから、ありがとうございました。フィナさんには、まだまだ聞きたいことがありますけどねぇ」
「ひっ……!」
最後の一言に、フィナの肩が跳ねた。
はちはその反応を横目で見てから、アテナへ顔を戻す。
「それでも、お手紙を届けてくださったことまで、なかったことにはしたくありません」
「……はい」
アテナの胸に、温かいものが広がった。
「届いていたのですね」
「はい。ちゃんと届きました」
「ずっと、気になっていました。享司さんが無事に次の生を始められたのか。私たちの言葉を受け取ってくださったのか」
アテナは、今の名を呼び直す。
「はちさんが、こうしてご自分の居場所を見つけていると知ることができて……本当によかったです」
はちは、照れたように頬を掻いた。
「色々ありましたけどねぇ」
「その色々の一つを作ったのは私です……」
フィナが消え入りそうな声で言う。
「一つで済んでいますかねぇ?」
「ご、ごめんなさい!」
はちの即答に、咲が吹き出した。
アテナも口元を緩める。
怒りも、後悔も、まだ消えてはいない。
話し合わなければならないことも残っている。
それでも、会えた。
声を交わし、届かなかった言葉の続きを、ようやく始めることができた。
アテナの手が、また動きかける。
咲の視線が、すぐにそちらへ向いた。
アテナは、何事もなかったように膝の上へ戻した。
フィナが、そっと口元を押さえる。
「……アテナ様」
「……分かっています」
小声のやり取りだった。
だけど、はちには聞こえていた。
「……あの。本当に、大丈夫ですか?」
また、心配そうな顔。
咲が肩を震わせる。
アテナは目を閉じ、一度、ゆっくり息を整えた。
先ほどまで抱えていた、重い話が消えたわけではない。
ヘルカイザーの言葉も、この世界に残る傷も、そのままだ。
それでも、いまは目の前に、別の再会がある。
長い髪を揺らし、不思議そうにこちらを見つめる、小さな少女。
咲が会いたいと願い、再び隣へ座ることのできた人。
自分たちが送り出した、その人の今を、アテナはようやく知った。
「……大丈夫ですよ、はちさん」
微笑んで、答える。
その声だけは、今度こそ落ち着いていた。
はちは、ほっとしたように頷いた。
そして、その顔を見たアテナが、もう一度だけ指を握り締めたことには、気付かなかった。
――第74話・了――




