第73話 救済を名乗らない研究者
――アルカディア郊外――
「はい。あなたと、お話をしたくて来ました」
アテナの言葉が、風の中へ落ちた。
ヘルカイザーは、しばらく彼女を見つめていた。
白い小さな身体も、背中の翼も、動かない。
離れていた時間を埋めるには、近過ぎる距離だった。
手を伸ばすだけなら、届くかもしれない。
それでも、アテナはそこから先へ進まなかった。
隣には、フィナがいる。
彼女もまた、黙って返事を待っていた。
「……ふむ」
やがて、ヘルカイザーが小さく頷いた。
「分かりました。お話くらいでしたら、お付き合いしましょう」
アテナの指先が、わずかに緩む。
「……ありがとうございます」
「ただし」
その声に、彼女は姿勢を正した。
「何を聞いても、以前と同じ答えが返るとは思わないでくださいね」
穏やかな口調だった。
けれど、冗談として流せる響きではなかった。
アテナは、静かに頷く。
「……はい」
それを確かめてから、ヘルカイザーは視線をフィナへ向けた。
「フィナさんも、それでよろしいですか?」
「はい。私も、お話を伺いたいです」
「そうですか」
白い前脚が、胸元から離れた。
アテナは、その動きを目で追った。
先ほど一瞬だけ薄くなった笑みのことも、気になっている。
けれど、何も確かめないまま手を伸ばしてはいけない。
そんなことは、もう分かっていた。
ヘルカイザーは、少しだけ身体の向きを変えた。
街並みが、遠くに見える。
「……さて。どこからお話ししましょうかねぇ」
軽く首を傾げる。
「神界を離れてからのことでしたら、お二人の知らない話も多いでしょうし」
アテナの胸が、わずかに痛んだ。
知らない。
その事実を、改めて本人の声で聞く。
自分が神界で記録を読み返している間にも、彼は別の場所で生きていた。
何かを選び、何かを捨て、いま、ここにいる。
「……今は、どちらで過ごしていらっしゃるのですか」
まず、そう尋ねた。
ヘルカイザーの口元へ、少し笑みが戻る。
「会社ですよ♪」
「……会社?」
「ええ。現在、自分はガルデローベ社に勤めております」
聞き慣れない名だった。
アテナは、その音を心の中で繰り返す。
フィナも、わずかに首を傾げていた。
そんな二人へ、ヘルカイザーは向き直った。
翼が、ゆっくりと広がる。
右の前脚を胸元へ添え、目を伏せた。
そして、執事のように上品に頭を下げる。
「ガルデローベ社、技術開発部長のヘルカイザーと申します」
丁寧な仕草だった。
初対面の相手へ、改めて立場を名乗るように。
「……今の、自分の肩書きです」
顔を上げた彼は、そう続けた。
◇ ◇ ◇
「技術開発部長……」
アテナが呟くと、ヘルカイザーは頷いた。
「新しい装置の開発、既存の技術の改良、仕事に必要なものの準備。やることは、色々とありますねぇ」
「研究を、続けていらっしゃるのですね」
「もちろんです♪」
その返事だけは、少しも迷いがなかった。
「作りたいものも、確かめたいことも、まだいくらでもありますから」
その声を聞いて、アテナは昔の研究室を思い出しかけた。
机に広げられた図面。
模型を覗き込みながら、楽しそうに説明する姿。
けれど、記憶へ沈みかけた意識を戻す。
いま語られているのは、いまの彼の仕事だ。
「……その会社は、何をなさるところなのですか」
ヘルカイザーは、あっさり答えた。
「略奪と制圧を、主な仕事にしている会社ですよ」
アテナは、言葉を失った。
フィナの指が、胸の前で止まる。
風が吹き、草を揺らした。
その音が、急にはっきり聞こえた。
「……いま、何と……」
「略奪と制圧です」
言い直す声にも、ためらいはなかった。
聞き違えではない。
婉曲な表現へ言い換えてくれるつもりもない。
アテナは唇を結んでから、尋ねた。
「……その仕事のために、こちらへ?」
「ええ」
ヘルカイザーは、遠くの街並みへ目を向けた。
「今回、マスター社長から、ガーディアンの制圧を命じられております。まずは、アルカディアから、というわけですね」
「ガーディアンを……」
アテナの声が、小さくなる。
到着したとき、目に入った復旧の跡が浮かんだ。
傷ついた土地と、その周囲で動く人々。
まだ何によるものか分からないと、考えを止めた場所。
ヘルカイザーは、彼女の視線がそちらへ動いたことに気付いた。
「……そのお話も、後ほどしましょうか」
アテナは顔を戻した。
彼は、逃げようとしていなかった。
だが、許しを請おうとしている様子もない。
「まずは、職場のお話でしたね」
白い前脚を、静かに下ろす。
「入社のきっかけは、研究資金が足りなくなったことです。作りたいものがありましてね。必要な資金を得るために、働く場所を探しました」
「……それで、ガルデローベ社へ」
「はい」
そこで、彼は少しだけ笑った。
「ただ、今も研究費だけのためにいると思われると、少々違います」
アテナは、黙って続きを待った。
ヘルカイザーの視線が、街から離れる。
ここにはいない、別の人物を思い浮かべるようだった。
「マスター社長は、自分の技術を見てくださいました」
「……技術を?」
「何ができるのか。どこまで実用になるのか。改良すれば、何へ使えるのか」
言葉を並べる声に、先ほどまでとは違う確かさがあった。
「成果を求める方です。こちらが示したものを確かめ、その上で、次の仕事を任せてくださる」
アテナは、その横顔を見ていた。
懐かしい研究を語るときとも、相手をからかうときとも違う。
そこには、はっきりと敬意があった。
「……自分は、あの方のもとで働きたいと思いました」
ヘルカイザーは、胸元へ右の前脚を添えた。
「自分の知識と技術を、あの方のために役立てたい。そう思って、忠誠を誓ったのです」
フィナが、かすかに息を呑む。
「忠誠を……」
「ええ」
返事は、静かだった。
「誰かに言わされたわけではありませんよ」
アテナの視線が、彼の瞳と重なる。
「そう考えたのは、自分です。あの方に仕えると決めたのも」
アテナは、すぐには答えられなかった。
無理に働かされているのではないか。
帰る場所がなくなったから、そこへいるのではないか。
胸のどこかに浮かびかけていた考えが、言葉になる前に消えていく。
彼は、自分で選んだと言っている。
その選択を、外から都合よく読み替えてはいけなかった。
「……今の仕事を、続けたいのですね」
「はい」
短い返事だった。
「我が社のために働くことと、自分の研究を続けること。その両方が、今の自分にはあります」
そう言ったヘルカイザーの顔には、喜びさえ見えた。
それが、アテナには苦しかった。
喜んでいることが、苦しいのではない。
その仕事によって誰かが傷つくと分かっていても、彼が迷っていないこと。
かつて隣で見ていた研究者が、いまはその場所に立っていること。
それを、初めて本人の口から聞いていた。
◇ ◇ ◇
「……では」
アテナは、少し間を置いて尋ねた。
「ここへ来る途中で見えた、あの被害も……」
最後まで言う前に、ヘルカイザーが街の方へ目を向けた。
笑みが、薄くなる。
アテナは、その変化を見逃さなかった。
先ほどまで、自分の仕事を隠す気はなかった。
略奪も、制圧も、はっきり口にした。
それなのに、いまは少しだけ言葉を選んでいる。
「……正直なところ」
ヘルカイザーが、口を開いた。
「ここまでやるつもりは、ありませんでした」
アテナは、息を止めた。
「それは……」
「街や大地に、あれほどの被害を出すつもりはなかった、という意味です」
彼は、こちらへ顔を戻す。
「制圧の仕事である以上、何も壊さず、誰も傷つけず、などと申し上げるつもりはありませんが」
その一言で、甘い解釈を差し挟む余地が消えた。
「今回のあれは、予定していたものではありません」
フィナが、小さく尋ねる。
「……何が、あったんですか」
ヘルカイザーは、すぐには答えなかった。
足元の紫色の影が、風とは関係なく静かに留まっている。
アテナは、彼の前脚へ目を向けた。
先ほど、胸元へ寄りかけた手。
その動きが、記憶の中の別の場面と重なった。
「……暴走したのですよ」
低い声が、落ちた。
アテナの身体が、かすかに強張る。
ヘルカイザーは、その反応を見ていた。
「……暴走?」
「ええ。力の制御を失いました」
彼は、自分の言ったことを少しも軽くしなかった。
ただ、事実として告げる。
「次元の裂け目を開き、攻撃を放ち続けた。止めるべきところで、止められなくなったのです」
フィナの顔から、血の気が引いた。
アテナも、すぐには言葉が出なかった。
彼が制御できなくなる。
その力が、本人の判断を離れて使われ続ける。
どれほどのことになるのか、想像し切れなかった。
けれど、目にした被害の跡が、その想像を許してくれない。
「……何が、原因だったのですか」
アテナは、ようやく尋ねた。
ヘルカイザーの瞳が、こちらへ留まる。
胸の奥が、冷えた。
その目を見た瞬間、先ほどから結び付けないようにしていた記憶が浮かんだ。
最後に会った日。
声を掛けた。
手を伸ばした。
傷つけるつもりなど、なかった。
けれど、彼は苦しんだ。
「……アテナさん」
ヘルカイザーが、静かに名を呼ぶ。
「以前、自分が妙な反応をしたことを、覚えていらっしゃいますか」
アテナは、頷いた。
「……忘れるはずが、ありません」
なぜ苦しんだのか。
なぜ、あの言葉を向けただけで。
分からないまま、記録を読み返してきた。
自分が何を知らずにいたのか、知りたかった。
その答えを、彼がいま持っている。
「……あれは」
ヘルカイザーは、間を置いた。
「プラスエネルギーでした」
◇ ◇ ◇
アテナは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
プラスエネルギー。
聞いたことのない言葉ではない。
けれど、いま聞いているのは、それが彼を傷つけたという話だった。
「……プラス、エネルギー……」
「ええ」
ヘルカイザーは頷く。
「当時は、あの違和感を十分に理解していませんでした。ですが、今は分かっています」
アテナの視線が、彼の胸元へ動く。
「自分はマイナスエネルギーを取り込み、それを糧にしています」
「……はい」
「そこへ、反対のものが流れ込む。それが、あのときの反応を起こしていたのです」
フィナが、唇を開いた。
「では……アテナ様が、何か攻撃をなさったわけでは……」
「意図して攻撃されたとは、思っていませんよ」
答えは、すぐに返った。
その声に、フィナは一度口を閉じる。
ヘルカイザーは、アテナを見た。
「ですが、意図していないから影響がない、ということにはなりません」
アテナは、ゆっくり頷いた。
分かった。
ようやく、一つ分かった。
だけど、知ったことで軽くなるものばかりではなかった。
「……私が」
言葉が、途中で止まる。
ヘルカイザーは、続きを待っている。
アテナは、もう一度息を吸った。
「あなたを、苦しめていたのですね」
「結果としては、そうなります」
彼は否定しなかった。
それが、かえって有り難かった。
ここで気遣って否定されれば、また自分は何も知らないままになる。
傷つけた事実さえ、見えなくなってしまう。
アテナは、重ねかけた手を静かに下ろした。
近付こうとしなかったことだけが、いまは正しかったのかもしれない。
「……今回も、同じものが原因だったのですか」
「ええ」
ヘルカイザーは、頷いた。
「いろはさんという方がいらっしゃいましてね」
その名を、アテナは黙って聞く。
「自分を止めようと、話をされました。何度かお断りしたのですが、なかなか諦めてくださらない方で」
口調に、わずかないつもの調子が戻る。
けれど、笑い話ではなかった。
「相手が何を伝えようとしているかは、分かりましたよ。だからこそ、こちらへ何が流れ込んでいるかも分かった」
「……それでも、止められなかった……」
「途中で切り上げるべきでした」
ヘルカイザーは、はっきり言った。
「分かっていたのですから。自分の判断を誤ったことまで、相手のせいにするつもりはありません」
アテナは、目を上げた。
彼は、いろはという人物だけを責めていない。
かといって、相手の言葉を受け入れたとも言っていなかった。
何が起きたか。
自分は、どこで間違えたか。
その二つを、分けて語っている。
「……では、今は……」
フィナが、ためらいがちに尋ねた。
「今は、大丈夫なんですか」
「先ほどの反応も、正体が分からず困っていたわけではありません」
ヘルカイザーは、静かに答えた。
「自分の状態がどうなっているかは、見ています。話を続けているのも、その上での判断です」
アテナは、呼吸を整えた。
大丈夫だと言ってもらいたくて、何度も問い掛けてはいけない。
自分が安心するために、彼の返事を求め続けるのも違う。
聞いたことを、受け止めなければ。
ヘルカイザーは、遠くの空を一度だけ見た。
「……ただ」
その声が、少し低くなった。
「自分にとって、暴走は初めてではありませんでした」
◇ ◇ ◇
「……初めてでは、ない?」
アテナが聞き返す。
ヘルカイザーは、頷いた。
「今回で、二回目です」
フィナが、小さく息を呑んだ。
アテナは、言葉を探した。
自分と別れた後。
消息を失っていた間に。
彼には、そんなことまで起きていた。
いままで知らなかった時間が、急に重さを持った。
「最初のときは……」
そこまで言って、アテナは止まる。
何を尋ねようとしているのか、自分でも分からなくなった。
誰かが止めてくれたのか。
大きな被害には、ならなかったのか。
聞きたい答えを先に用意してしまう。
その前に、ヘルカイザーが口を開いた。
「一つ、世界を滅ぼしました」
何かが砕ける音も、悲鳴も、聞こえなかった。
ただ、言葉だけが残った。
一つ。
その数え方が、アテナには、ひどく恐ろしかった。
一つの街ではない。
一つの国でもない。
一つの世界。
そこに朝があり、夜があり、明日を待つ者がいたのかもしれない。何があったか、誰がいたか、彼女はまだ知らない。なのに、彼の一言は、その明日ごと失われたと告げていた。
風の音が、遠ざかった気がした。
アテナは、彼を見つめた。
小さな白い姿。
穏やかな声。
目の前の相手は、さっきまでと何も変わらない。
なのに、言葉だけが理解の外側へ落ちていく。
「……世界を……」
「ええ」
「……一つ……?」
「そうです」
フィナの息が、途中で止まった。
何か言わなければと思ったのだろう。唇がかすかに動いたが、声にはならない。
アテナも、問い返した自分を恥じた。
聞き間違いであってほしかったのだ。
『滅ぼしかけた』の間違いではないか。
『一つの街』と言うつもりだったのではないか。
そんな都合のよい訂正を、彼の口から聞きたかった。
けれど、返ってきたのは、ただの肯定だった。
彼は、言い直さなかった。
誇るようでもない。
怯えるようでもない。
ただ、消すことのできない事実として、自分のしたことを告げていた。
フィナが口元へ手を添えた。
「……そんな……」
声は、それ以上続かなかった。
アテナは、足元を見る。
一つの世界。
そこで何が起きたのか。
どれほどのものが失われたのか。
細かな説明を聞く前から、その言葉の大きさだけで息が詰まった。
そして、怖いと思った。
目の前の彼を。
その事実を、自分の中で隠したくなった。
会いたかった相手なのに。
捜し続けてきた、友人なのに。
けれど、怖かった。
その怖さへ、すぐに別の名前を与えたくなった。
事故だったのだと。
本人も苦しんだのだと。
悪意がなかったなら、まだ以前の彼と同じなのだと。
けれど、そう言い換えたところで、滅びた世界は戻らない。
彼に事情があったことと、何もかも失われたことは、同時に真実なのだ。
アテナは、握りかけた手をゆっくり開いた。
ここで『そんなはずはありません』と言えば、彼が告げた事実から目を背けることになる。
『それでも私は信じています』と言えば、いま知らされた重さよりも、自分の安心を先に選んでしまう。
どちらも、言えなかった。
隣で、フィナが小さく一歩退きかける。
その足は途中で止まった。
彼女は何も言わず、アテナの隣へ留まった。
二人の沈黙を、ヘルカイザーは急かさなかった。
アテナが顔を上げると、ヘルカイザーはまだこちらを見ていた。
気付いているのだろう。
自分が何を感じたかも。
それを、言葉にしないでいることも。
「……ですから」
彼は、静かに続けた。
「今回、途中で止まれたことを、軽くは考えていません」
アテナの瞳が、わずかに動いた。
「今回は……止まれたのですね」
声にした途端、アテナは自分の言葉の頼りなさを感じた。
止まれたから、この世界が残っている。
だからよかった、と続けそうになった。
けれど、眼下には傷ついた土地がある。ここがまだ残っていることを喜ぶだけで、失われた別の世界へ背を向けてはいけない。
「はい。セリシアさんたちが、マイナスエネルギーを補給してくれました」
知らない名前が、また一つ出てきた。
アテナの知らない場所で、彼のそばにいた者。
自分が会えずにいた間に、その身体を支えた者。
「制御を取り戻してから、開いていた裂け目と攻撃は、自分で止めました。ですが、すでに生じた被害が消えるわけではありません」
ヘルカイザーの視線が、街へ向く。
アテナも、そちらを見た。
復旧の跡。
ここは、まだ残っている。
傷ついた土地を、直そうとしている者たちがいる。
それが、もし。
考えかけて、胸が冷えた。
ヘルカイザーは、その先を言葉にしなかった。
「……正直、ここまでやるつもりはなかった」
同じ言葉が、もう一度落ちる。
最初に聞いたときとは、違って響いた。
計画にない損害だった。
予定していない攻撃だった。
それだけではない。
一度、世界を失わせた力を、また制御できなくなった。
今回も、そこへ至る可能性があった。
そのことを、彼は理解した上で話している。
アテナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私は、何も知りませんでした」
声が、少し掠れた。
それは、知らなかったことへの言い訳にはならなかった。
自分が知らずに過ごした時間のどこかで、世界が一つ失われていた。
今日まで、その事実に涙することも、怒ることも、悼むこともしてこなかった。
知らなかったからだ。
けれど、いま知った。
知ってしまった以上、もう以前と同じ気持ちだけで彼の名を呼ぶことはできない。
ヘルカイザーは、目を伏せる。
「お伝えしていませんでしたからね」
その答えに、慰めはなかった。
けれど、突き放すための強い言葉もなかった。
アテナは、彼へ近付かなかった。
いま知ったことを、ただ隣へ行くだけで受け止めたことにはできない。
何を言えば正しいのかも、まだ分からない。
だから、黙って、そこに立っていた。
◇ ◇ ◇
「……それでも」
しばらくして、アテナが口を開いた。
ヘルカイザーの視線が戻る。
言おうとした言葉を、彼女は一度飲み込んだ。
それでも、以前は。
そう続けかけていた。
かつて彼が掲げていたものを、いまの彼へ差し出そうとしていた。
マイナスエネルギーを自分へ集めれば、他の者は苦しまなくなる。
自分に憎しみを向けさせれば、その分だけ世界は穏やかになる。
あの頃、彼はそこへ向かって歩いていた。
アテナが賛成できないと思う行いも、その理屈の中へ組み込まれていった。
けれど、いまは会社の仕事だと言う。
社長へ忠誠を誓ったと言う。
その間に、何が変わったのか。
アテナは、言葉を選び直した。
「……以前、あなたが語っていた、世界の平和については……今は、どうお考えなのですか」
ヘルカイザーは、すぐには答えなかった。
背中の翼が、わずかに動く。
空へ逃げるためではない。
身体の向きを整える程度の、小さな動きだった。
「……ああ」
やがて、声がした。
「そのお話ですか」
彼は、アテナを見上げる。
「今の自分に、世界を救うなどという大義名分は、おこがましいですよ」
アテナは、息を止めた。
ヘルカイザーの笑みは、薄かった。
からかっているわけではない。
自分を卑下して、慰めを待っているのでもない。
そう結論した者の顔だった。
「世界を一つ滅ぼしておいて、別の世界では救済を語る」
声は、静かに続く。
「自分が苦しみを集めるから、他の者は幸せになる。そう言って、そのために傷つける相手を増やしていく」
アテナの胸に、かつての言葉が重なった。
先ほどの告白が、また耳の奥で響いた。
『一つ、世界を滅ぼしました』。
救済という言葉を口にするたび、その一つをなかったことにしてしまうのではないか。
彼自身が、そう考えているのだろうか。
そこまでは分からない。
ただ、彼の穏やかな声を聞きながら、アテナは初めて、その声が語るものの重さと、声の静けさが両立してしまうことを知った。
「……その先で、自分が何をしたか。見えなくなるわけではありませんから」
ヘルカイザーは、胸元へ前脚を添えた。
「自分は、人を苦しめます。その反応を糧にします。研究のために力を使い、我が社の仕事のために動く」
フィナが、小さく身じろぎした。
それでも、口は挟まなかった。
「それを、世界のためだと申し上げるつもりは、もうありません」
ヘルカイザーは、はっきり告げた。
アテナは、彼の顔を見つめた。
昔より正直になったのだろうか。
そう思いかけて、簡単には決められないと感じた。
隠していないことと、行いが正しいことは違う。
世界のためだと言わなくなったからといって、誰かが受ける痛みが消えるわけではない。
彼も、そのことを否定してはいなかった。
「……では、あなたは」
アテナは、声を整えた。
「今、誰のために、その力を使うのですか」
ヘルカイザーは、迷わず答えた。
「自分のために」
わずかに、間が空く。
「そして、マスター社長と、我が社のために」
その声には、先ほどと同じ敬意があった。
世界を救うとは言わない。
人々のためとも言わない。
今、自分が力を使う理由を、そのまま告げている。
「……それが、今の自分です」
アテナは、何も言わなかった。
言葉を探せなかったのではない。
いくつも浮かんだ言葉のどれもが、いま聞いた彼の答えを、都合のよい形へ戻そうとしていたからだ。
本当は、まだ救いたいのではないか。
以前の気持ちが、残っているのではないか。
その忠誠も、いつか変わるのではないか。
自分が望むものばかりを、彼の内側へ探してしまう。
アテナは、一度目を閉じた。
いまの彼を知りたいと、ゼウスへ告げた。
ならば、聞きたくない答えも受け取らなければいけない。
◇ ◇ ◇
「……お話しくださって、ありがとうございます」
目を開いたアテナは、そう告げた。
ヘルカイザーが、わずかに首を傾げる。
「お礼を言うようなお話でしたかねぇ」
「知らずにいることと、知ることは、違いますから」
声を整えるため、少し間を置く。
「あなたが何を選んだのかも、何を経験したのかも……私は、知らないままでした」
「ええ」
「今日聞いたことで、すべて分かったとは思いません。ですが、以前のあなたの言葉だけを頼りに、今を決めつけたくはありません」
ヘルカイザーは、黙って聞いていた。
アテナは、フィナへ一度視線を向ける。
彼女は、唇を結んだまま立っていた。
世界を一つ滅ぼしたという話を聞いてから、顔色は戻っていない。
アテナが何かを尋ねるたび、フィナは小さく息を吸っていた。もう一度、同じ重さの言葉が来るのではないかと身構えるように。
それでも、目を逸らさなかった。
その場からも、離れなかった。
神界で言った通り、そばにいる。
アテナは、その存在を確かめてから、ヘルカイザーへ向き直った。
「……ただ、私は、あなたの今の仕事を認めることはできません」
「でしょうねぇ」
答えは、驚くほど穏やかだった。
「アテナさんが略奪や制圧を勧めてくださったら、その方が驚きますよ」
わずかな笑み。
けれど、アテナは笑わなかった。
「忠誠を誓われたことも、あなた自身の意思なのだと分かりました」
「はい」
「それを、誰かに強いられたものとして扱うつもりはありません」
ヘルカイザーの目が、少し細くなる。
「……そうですか」
「それでも、そこで傷つく人たちがいることまで、受け入れられるわけではありません」
「ええ。その二つは、別でしょう」
彼も、そこを混ぜなかった。
アテナは、小さく頷いた。
同じ結論には、立っていない。
久しぶりに会えたからといって、その違いが消えるわけでもない。
それでも、互いが何を言っているのかだけは、取り違えたくなかった。
「……それから」
アテナの声が、少し揺れた。
「プラスエネルギーのことは、覚えておきます」
ヘルカイザーの笑みが、わずかに止まる。
「知らなかったからといって、あなたを苦しめたことが消えるわけではありません」
「……先ほども申し上げましたが、攻撃のつもりだったとは思っていません」
「はい」
アテナは、深く息を吸った。
「ですが、これからは、知った上であなたと話します」
ヘルカイザーは、彼女の顔を見た。
以前と同じように近付き、以前と同じ言葉を掛ける。
それだけを再会の形にしてはいけない。
アテナは、そう考えていた。
彼にとって苦しいものを、自分にとって美しいという理由だけで差し出さない。
どこまでできるかは、まだ分からない。
気持ちそのものを、簡単に消せるわけでもない。
けれど、分からないから何も気にしなくていいとは思わなかった。
「……何もかも、今日ここで変えてほしいとは言いません」
アテナは続けた。
「あなたがお話しくださったことを、私も考えたいのです」
ヘルカイザーは、目を伏せた。
草の音が、三人の間を抜ける。
フィナが、ようやく口を開いた。
「……ヘルカイザーさん」
「はい」
「私も、うまく言葉にできません」
正直な声だった。
「知らなかったことが多過ぎて……すぐに何かを申し上げることは、できないです」
彼は、黙って聞いていた。
フィナは、小さく頭を下げる。
「でも、お話は聞いています」
それだけを告げた。
知ったふりもしない。
何を聞いても平気なふりも、できなかった。
それでも、アテナ一人に聞かせているのではない。
ヘルカイザーは、そんな二人を順に見た。
「……お二人とも、ずいぶん真面目に聞いてくださるのですねぇ」
軽い口調だった。
けれど、話を笑いに変えるほどではなかった。
「自分は、救いを求めているわけではありませんよ」
アテナは、頷いた。
「……はい」
「今の居場所を、奪ってほしいとも思っていません」
「分かりました」
「マスター社長への忠誠も、変えるつもりはありません」
もう一度、告げられる。
その言葉が、この話の中で最も揺らがないものの一つであることを、アテナは感じた。
「……それも、伺いました」
彼は、そこでようやく小さく息を吐いた。
話しておきたいことを、一度机へ並べ終えたようだった。
アテナは、遠くのアルカディアを見た。
ここに暮らす者たちがいる。
彼にとっては、制圧の対象がある場所。
自分にとっては、金城享司を送り出した世界でもある。
いくつもの事情が、ここで重なっていた。
まだ何一つ、解決していない。
再会した。
話を聞いた。
今日は、その事実があるだけだった。
アテナは、もう一度ヘルカイザーへ顔を向けた。
昔と同じ答えは返らない。
そう言われた理由が、少し分かった気がした。
彼の知らないところで、自分が待ち続けた時間。
自分の知らないところで、彼が歩いてきた時間。
その二つを、いま初めて言葉で重ねている。
重なったからといって、同じ道になるわけではない。
それでも、聞こえなかった声が、今日は届いた。
「……ヘルカイザーさん」
「何でしょう」
アテナは、短く息を整えた。
「あなたが今、どこに立っているのかは……忘れません」
ヘルカイザーは、静かに彼女を見た。
少しして、口元へ薄い笑みが戻る。
「ええ。そうしていただけると、助かります」
白い小さな竜。
ガルデローベ社の技術開発部長。
マスター社長へ、自ら忠誠を誓った研究者。
世界を一つ滅ぼした事実を知り、もう救済を大義名分にしない者。
アテナは、その姿から目を逸らさなかった。
かつての友人を思う気持ちと、今の行いを認められない気持ち。
そのどちらも、胸に残っている。
答えを急がず、それでも、見なかったことにはしない。
アテナは、もう一度だけ、彼が告げた数字を思い出した。
一つ。
その短さは、最後まで胸から消えなかった。
目の前には、捜し続けた友人がいる。
けれど、もう、この再会をただの喜びだけで記憶することはできない。
風の吹くアルカディアで、三人の会話は、ようやく現在へ辿り着いたのだった。
――第73話・了――




