第72話 神界を発つ者たち
――神界――
アテナの足が、止まった。
廊下へ差し込む光は、いつもと変わらない。
柱の間を風が抜け、遠くで誰かの話す声がしていた。
その中に、一瞬だけ混じったもの。
音ではなかった。
目に見える何かでもない。
それでも、アテナは振り返った。
「……いまの……」
胸元へ添えた手に、力が入る。
遠い。
神界のどこかにいるのではない。
もっと隔たった、別の世界の向こう。
かつて幾度もそばで感じた気配が、薄く、確かに届いていた。
アテナは目を閉じる。
似ているだけかもしれない。
長く捜し続けたからこそ、そう感じてしまったのかもしれない。
だから、一度だけ深く息を吸った。
願いを、判断へ混ぜないように。
会いたいと思っただけで、そこにいると決めつけないように。
静かに意識を澄ませる。
気配は、消えていなかった。
遠くの空間が開き、また閉じる。
その動きに伴う、ごくわずかな揺らぎ。
以前なら何気なく見ていたものを、今は必死に辿っている。
アテナの唇が、震えた。
「……ヘルカイザーさん……?」
呼んでも、返事はない。
当然だった。
ここから声が届く距離ではない。
それでも、口にせずにはいられなかった。
消息を失ってから、何度その名前を呼んだだろう。
思い返すたびに、最後に交わした言葉へ戻ってしまう。
あのとき、もっと早く気付いていたら。
あのとき、違う言葉を選べていたら。
考えても戻らない時間の中に、彼の姿は残っていた。
けれど、いま感じているのは記憶ではない。
アテナは目を開いた。
すぐに飛び出したいと思った。
この気配が途切れる前に。
もう一度、見失ってしまう前に。
踏み出しかけた足を、止める。
「……先に、ご報告を」
誰にも告げず神界を出れば、後から別の者が動くかもしれない。
どこへ向かったのかも、何を確かめるつもりなのかも伝わらないまま。
自分一人が急いだ結果、話が別の形へ変わっていく。
その可能性を、今度は見過ごしたくなかった。
アテナは進路を変えた。
向かう先は、神界中央。
ゼウスのもとだった。
◇ ◇ ◇
扉の前で名を告げると、ほどなく中へ通された。
奥にいるゼウスは、入ってきたアテナの顔を見て、手元のものを置いた。
「……何かあったか」
「はい」
アテナは一礼した。
息は、もう整えている。
けれど、胸の鼓動だけは落ち着かなかった。
「ヘルカイザーさんの気配を、感じました」
室内が、静かになった。
ゼウスはすぐに問い返さなかった。
アテナから視線を外さず、言葉の続きを待っている。
「神界ではありません。別の世界です。まだ距離はありますが……辿ることはできると思います」
「……思う、ということか」
「直接、お姿を確認したわけではありません」
アテナは、はっきり答えた。
「ですが、あの方の気配を取り違えたとは思っておりません」
ゼウスの指が、肘掛けの上で止まる。
「何をしておるかは、分かるのか」
「そこまでは」
「誰といるのかも?」
「分かりません」
分かることは、少なかった。
気配を察した。
向こうへ辿れる見込みがある。
確かなのは、それだけだ。
それでも、ゼウスはその報告を軽く扱わなかった。
長い沈黙の後、低い声が返る。
「……無事でおったのか」
アテナは、頷きかけて止まった。
無事。
その言葉を、いま自分が言い切っていいのだろうか。
生きていると感じられたことは、嬉しかった。
再び気配が届いたことに、安堵してもいる。
けれど、どこで、どんな時間を過ごしてきたのか。
その間、何を思っていたのか。
自分は、まだ何も知らない。
「……確かめたいのです」
アテナは顔を上げた。
「ゼウス様。私を、向こうへ行かせてください」
ゼウスの表情が、わずかに険しくなった。
その変化を見ても、アテナは目を逸らさなかった。
「気配を確認した場所へ向かい、あの方にお会いしたいのです」
「会って、どうする」
「お話をします」
「話をするだけで済むと、思っておるのか」
その問いに、すぐには答えられなかった。
済むと、言いたかった。
今度こそ言葉が届く。
ちゃんと向き合えば、聞いてもらえる。
そう信じたい気持ちは、ある。
だけど、それを保証にしてはいけなかった。
「……分かりません」
アテナは、静かに告げた。
「私が話したいと思っていても、あの方が会いたいと思ってくださるとは限りません」
「ならば、なおのことじゃ」
ゼウスが、息を吐く。
「相手は、あのヘルカイザーなのだぞ」
「承知しております」
「承知していることと、無事に戻れることは違う」
アテナの手が、胸の前で重なった。
危険がある。
それは、分かっている。
彼が何をできる存在なのか。
その力が、どれほどのものなのか。
遠くから伝え聞いた話だけで、判断しているわけではない。
最後に対峙した日の記憶は、今も残っていた。
それを忘れたから、行きたいのではなかった。
「……それでも、会わずにはいられません」
ゼウスは、黙っていた。
「何も確かめないまま、ここで待ち続けることは……もう、したくないのです」
「気持ちだけで決めるな、アテナ」
「はい」
短く答え、アテナは言葉を選んだ。
「ですが、危険だからという理由だけで、あの方と話す機会を手放したくありません」
声を強めることは、しなかった。
自分の願いを通すために、無理に確信を作ることもしない。
その代わり、分からないことを分からないまま伝えた。
「いまのあの方を、私は知りません。どうしてその世界にいるのかも、何をしているのかも」
「……うむ」
「ですから、私自身で確かめたいのです」
ゼウスが、ゆっくりと視線を落とす。
アテナは頭を下げなかった。
姿勢を崩さず、返事を待つ。
決意を言葉にした後で、その重さを相手に引き受けてもらうのだから。
無言の時間が、長く感じられた。
窓から入る風が、衣の裾を揺らす。
遠くの話し声は、ここまでは届かない。
やがて、ゼウスが口を開いた。
「……お前は、止めれば諦めるのか」
アテナは、息を吸う。
「諦められるとは、申し上げられません」
「そうであろうな」
小さく、疲れたような声だった。
「その顔をして来た時点で、分かっておった」
「ゼウス様……」
「軽々しく許せる話ではない」
ゼウスは顔を上げた。
「お前自身を失う危険もある。向こうの世界を巻き込むことにもなりかねん」
「はい」
「会えたからといって、その場で答えを求めるな」
アテナの指先が、わずかに動いた。
「相手がどう応じるかも分からぬうちに、お前の望む結末まで決めて行くでない」
「……はい」
今度は、少し時間を置いて答えた。
会えば、すべてが変わる。
会いさえすれば、あの頃へ戻れる。
胸のどこかに残っていた、そんな願いを、静かに見つめ直す。
会うことと、許されることは同じではない。
まして、彼の気持ちまで自分が決めることはできない。
ゼウスは、その返事を聞いてから目を閉じた。
「……よかろう」
アテナは、一瞬、言葉を失った。
ゼウスが目を開く。
「行ってまいれ」
「……ありがとうございます」
「喜んで送り出しておるわけではないぞ」
すぐに、そう続いた。
「危険だと判断したら、退くことも忘れるな」
「承知しました」
アテナは、深く頭を下げた。
許された。
その安堵が胸へ広がる一方で、足元が引き締まるような感覚もあった。
これから向かう。
本当に、もう一度会うために。
頭を上げたアテナへ、ゼウスは最後に告げた。
「……戻ってきて、報告せよ」
「はい」
その言葉を受け、アテナは部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
――神界・回廊――
「アテナ様!」
廊下へ出てしばらく進んだところで、声がした。
フィナだった。
こちらへ駆け寄ってくる姿を見て、アテナは足を止める。
いつものように慌ただしい動きだった。
けれど、近付いてきた顔には、普段の柔らかな笑みがなかった。
「……フィナ。どうしました?」
「いま、ゼウス様のところへ行かれていたと伺って……」
フィナは一度息を整えた。
何を聞きたいのか。
口にする前に確かめるように、アテナの顔を見つめている。
「ヘルカイザーさんのこと、ですか?」
アテナは、わずかに目を伏せた。
「……ええ。気配を感じました」
「やっぱり……」
フィナの肩から、少しだけ力が抜けた。
だけど、すぐに表情が引き締まる。
「アテナ様は、行かれるんですね」
「そのつもりです。ゼウス様にも、お許しをいただきました」
「でしたら……」
フィナは、胸の前で手を握った。
「私も、連れていってください」
アテナは、すぐに首を振った。
「それはできません」
フィナの手が、止まる。
言葉を選ばずに拒んだことは、自分でも分かった。
それでも、この点だけは曖昧にできなかった。
「向こうで何が起きるか、分からないのです」
「はい」
「ヘルカイザーさんが、私たちを受け入れてくださる保証もありません」
「……はい」
「あなたまで、危険な場所へ連れていくわけにはいきません」
フィナは、黙った。
納得したのだろうか。
そう思いかけたところで、彼女はもう一度顔を上げた。
「……アテナ様は、その危険な場所へ、一人で行かれるんですよね」
アテナは答えを止めた。
フィナの声は、大きくなかった。
責めるような響きもない。
ただ、返事を待っていた。
「私には、あの方を知る者として――」
「知っているから、怖くないわけではないと思います」
フィナは、途中で言葉を止めた。
自分が口を挟んだことへ気付き、小さく頭を下げる。
「……申し訳ありません。ですが」
その顔が、再び上がった。
「危ないから残りなさいと仰るお気持ちは、分かります。でも、私も同じなんです」
「同じ……?」
「アテナ様が危険なところへ行かれると聞いて、何もしないで待っているのは……嫌なんです」
握った手が、わずかに震えていた。
勢いだけで言っているわけではない。
アテナは、その指先へ目を留めた。
「……フィナ」
「私がご一緒したところで、あの方の力に対抗できるとは思っていません」
フィナは、はっきり言った。
「アテナ様を、必ずお守りできますとも言えません」
そこで、息を吸う。
「それでも、アテナ様の力になりたいんです」
その言葉を、アテナは黙って聞いた。
力になりたい。
聞き慣れた、優しい言葉だった。
けれど、今のフィナは、簡単な励ましとして言っていない。
危険を否定せず。
自分にできないことも承知した上で。
それでも、そばへ行きたいと願っている。
「……気持ちだけで、越えられないものもあります」
「はい」
「何かあってからでは、遅いのですよ」
「……分かっています」
「本当に?」
問い返すと、フィナは唇を結んだ。
すぐには、頷かなかった。
廊下を抜ける風が、二人の間を通っていく。
フィナはしばらく俯いてから、静かに答えた。
「怖くないと申し上げたら、嘘になります」
アテナは、目を細めた。
「ヘルカイザーさんが、いまどんなお気持ちなのか、私には分かりません。何を言われるかも、分かりません」
「ええ」
「それでも、アテナ様が一人でそれを聞かなければいけない理由は、ないと思うんです」
息が、わずかに詰まった。
フィナは、続ける。
「何を話すのか、私が決めたいわけではありません。お二人の間へ、勝手に入りたいわけでもありません」
声が、少し震える。
「ただ……アテナ様が言葉に詰まったとき、そばにいたいんです」
アテナは、何も答えられなかった。
そう言うフィナの目は、逸れない。
「お一人で抱えなくてもいいことまで、全部お一人で持っていかないでください」
静かな言葉だった。
アテナは、重ねていた自分の手を見る。
気付かないうちに、指を強く握っていた。
ゼウスのもとで話したときも。
出発を決めて廊下へ出たときも。
自分が行くことばかりを、考えていた。
誰にも危険を負わせないように。
これ以上、誰かを巻き込まないように。
そのために一人で行くのが当然だと、決めていた。
「……私は」
声を出してから、アテナは止まった。
フィナを連れていく危険が、なくなったわけではない。
彼女の意思が強ければ、安全になるわけでもない。
自分には、その両方を考える責任がある。
それでも、この言葉を、軽い願いとして退けることはできなかった。
アテナは、フィナへ視線を戻した。
「私が退くと言ったら、必ず従ってください」
フィナの瞳が、わずかに大きくなる。
「私を置いて戻るように言った場合も、です」
「……アテナ様」
「そこで迷うのであれば、連れていけません」
フィナは、息を止めたようだった。
置いて戻る。
その言葉を、簡単に受け入れられないのだろう。
けれど、ここを曖昧にしたまま同行を認めることはできない。
アテナは返事を急かさず、待った。
しばらくして、フィナが頷く。
「……分かりました」
声に、迷いの名残はあった。
それでも、答えは変わらなかった。
「アテナ様のお言葉に従います。その上で、ご一緒させてください」
アテナは、小さく息を吐いた。
折れてしまった。
そう思ったけれど、不思議と、押し切られたという感覚だけではなかった。
自分の言葉を聞き、その危険を考え、それでも残した意思。
それを、受け止めたいと思った。
「……分かりました」
「……はい?」
「一緒に、行きましょう」
フィナの表情が、揺れた。
嬉しさが先に浮かび、それから、ようやく安堵したように肩が下がる。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、まだ早いですよ」
アテナは、静かに続けた。
「これから、危険な場所へ向かうのですから」
「はい」
今度の返事には、浮ついた響きがなかった。
アテナは彼女を見つめ、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「……それから。同行することも、きちんとお伝えしておきましょう」
ゼウスへ報告した後で、勝手に人数を増やす。
それでは、最初に報告へ向かった意味がなくなってしまう。
フィナも頷いた。
二人は並んで、来た道を引き返した。
◇ ◇ ◇
話を聞き終えたゼウスは、深い息を吐いた。
「……今度は、お前までか」
視線の先で、フィナが姿勢を正す。
「はい。ご同行を、お許しください」
「遊びに行くのではないぞ」
「承知しております」
ゼウスは、フィナの顔をしばらく見ていた。
次に、アテナへ目を向ける。
「お前は、それでよいのか」
「……はい」
アテナは答えた。
「危険をお伝えした上で、それでも一緒に行きたいと申し出てくれました。私も、その意思を受け止めたいと思います」
ゼウスは、すぐには何も言わなかった。
渋い顔のまま、二人を見比べる。
アテナも、フィナも、姿勢を崩さずに待った。
「……無事に戻ることを、優先せよ」
やがて、その言葉が落ちた。
「二人とも、じゃ」
「はい」
二人の返事が重なる。
ゼウスは、もう一度だけ小さく息を吐いた。
「まったく……行くと決めた者の顔をしておる」
アテナは、フィナとともに頭を下げた。
今度こそ、出発だった。
◇ ◇ ◇
――神界・出発――
人の行き来から離れた場所で、アテナは足を止めた。
フィナが、隣へ立つ。
出発前に確認しなければいけないことは、もう済ませていた。
それでも、すぐには動き出せなかった。
向こうへ行けば、会えるかもしれない。
その期待があるからこそ、怖かった。
気配を辿り着いた先で、何も見つからなかったら。
会えても、顔を背けられたら。
考え始めれば、いくらでも浮かんでくる。
「……アテナ様」
フィナが、静かに呼んだ。
急かす声ではない。
準備が整ったことを、伝えるだけの声だった。
アテナは頷いた。
「行きましょう」
「はい」
もう一度、遠い気配へ意識を向ける。
そこに、いる。
そう感じた方向を、今度は見失わないように辿った。
周囲の光が、ゆっくりと変わる。
神界の白い景色が視界の端へ退き、その向こうへ別の空が見え始めた。
アテナは、フィナの位置を確かめる。
二人は、並んで足を踏み出した。
眩しさが、一度だけ視界を覆う。
次に頬へ触れた風は、神界のものとは違っていた。
◇ ◇ ◇
――アルカディア――
最初に目へ入ったのは、青空だった。
高く澄んだ空。
ゆっくり流れる雲。
その下に、見知らぬ街並みが広がっている。
アテナは、しばらく黙って景色を見渡した。
建物の形も、通りを走るものも、神界とは違う。
遠くには、人々が動いているのが見えた。
「……ここが……」
フィナが、小さく声を漏らす。
アテナはすぐに答えず、さらに周囲へ目を向けた。
目に映るすべてが、穏やかなものではなかった。
街の一角には、復旧のために人が集まっている場所がある。
離れた大地にも、不自然に途切れた緑が見えた。
何かがあった。
そう思わせる跡だった。
けれど、それが何によるものなのか、いまの自分には分からない。
アテナは、安易に結び付けそうになった考えを止めた。
ここへ来るまでに、自分が知っていたことは少ない。
気配を感じたからといって、この世界で起きたすべてを分かったつもりにはなれない。
確かめる。
そのために、来たのだから。
「……アルカディアですね」
フィナが、街へ視線を向けたまま告げた。
その名を聞いて、アテナはフィナへ顔を向けた。
「アルカディア……では、ここは……」
フィナも、思い当たったように目を見開いた。
「……はい。金城享司さんが、転生された世界です」
アテナは、もう一度街並みへ視線を戻した。
「……よりにもよって、享司さんがいる世界だなんて……」
小さく漏れた声に、フィナは返事ができなかった。
ヘルカイザーの気配を辿って来た。
その先が、あの青年を送り出した世界だった。
享司は、あの方と会っているのだろうか。
それとも、まだ何も知らずに暮らしているのだろうか。
胸の内に、新たな心配が生まれる。
けれど、ここから享司の居場所まで分かるわけではない。
アテナは、気配のする方角を確かめ直した。
まずは、ヘルカイザーに会わなければ。
この世界で暮らしている者たちがいる。
自分たちには見慣れない景色でも、彼らにとっては日々を過ごす場所だ。
そこへ、いま、自分たちは降り立った。
「少し、移動します」
「……気配が?」
「ええ」
神界で感じたときよりも、はっきりしていた。
遠くから差し込んでいた細いものが、いまは、確かな方向を示している。
アテナは、その方角へ顔を向けた。
街の中心ではない。
人々の行き来から離れた場所。
そちらに、いる。
胸が、強く鳴った。
フィナが隣へ寄る。
「私も、参ります」
アテナは、彼女を見た。
神界で交わした言葉を、もう一度思い出す。
気持ちを確かめ直す必要はなかった。
ただ、短く頷く。
二人は街並みを背に、気配のする方へ移動した。
近付くにつれて、人の声が遠ざかる。
代わりに、草を揺らす風の音が聞こえてきた。
足元の小さな石。
陽に温められた地面。
知らない土地の匂い。
その一つ一つが、神界を出たのだと教えていた。
アテナは、前を向いたまま歩いた。
もう、気配を間違えたとは思わなかった。
だからこそ、一歩ずつが重い。
名前を呼ぶだけなら、何度もしてきた。
記憶の中の相手に語り掛けることも、繰り返した。
けれど、いま向かっている先には、本当に彼がいる。
自分が思い描いた言葉通りには、返事をしてくれない相手が。
それでも、会いたかった。
風が、少し強く吹いた。
前方で、白いものが揺れる。
アテナの足が、止まった。
◇ ◇ ◇
――再会――
少し先の静かな場所に、小さな白い姿があった。
背中には、翼。
足元には、陽の光だけでは説明のつかない紫色の影が落ちている。
こちらへ背を向けたまま、その姿は動かなかった。
アテナは、息を吸った。
名前を呼ぼうとした。
けれど、喉の奥で言葉が止まる。
分かっていたはずなのに。
会うために来た。
この気配を辿って、ここまで歩いてきた。
それなのに、本当に姿を見つけた途端、何から言えばいいのか分からなくなった。
フィナも、足を止めていた。
隣から声は掛からない。
アテナが口を開くのを、待ってくれている。
白い翼が、わずかに動いた。
「……おや?」
声がした。
その響きを聞いただけで、胸の奥が強く痛んだ。
忘れてはいなかった。
だけど、記憶の中で繰り返し聞く声と、いま耳へ届く声は違う。
白い小さな竜が、ゆっくり振り返った。
視線が、合う。
「…………」
その顔から、言葉が消えた。
アテナは、動けなかった。
相手の瞳が、自分を確かめるように留まる。
次に、隣にいるフィナへ動いた。
そして、また戻ってくる。
ほんの短い間だった。
けれど、その沈黙の中に、口にできなかった時間がいくつも重なった気がした。
「……ヘルカイザーさん」
ようやく、名前が出た。
声が、思っていたより弱い。
呼び直そうとして、やめる。
聞こえなかったわけではない。
彼は、こちらを見ている。
確かに、目の前にいた。
ヘルカイザーが、ゆっくりと身体の向きを変えた。
前脚が地面へ着く。
小さな動作なのに、アテナは反射的に身を強張らせた。
それを、彼は見逃さなかっただろう。
けれど、何も指摘しなかった。
「……これは」
低く呟いてから、少しだけ間が空いた。
「ずいぶんと、珍しいお客様ですねぇ」
いつもの調子へ戻そうとするような、丁寧な声だった。
アテナは、その声へすぐに笑みを返せなかった。
「……お久しぶりです」
「ええ」
短い返事。
ヘルカイザーの視線が、もう一度フィナへ向く。
「フィナさんまで。お二人で、いかがなさいました?」
フィナが、姿勢を正した。
「……ヘルカイザーさん」
声を掛けたところで、彼女はアテナへ視線を寄せる。
先に何かを説明しようとはしなかった。
神界で約束した通り、二人の話へ勝手に答えを持ち込まない。
アテナは、一歩だけ前へ出た。
ヘルカイザーは、動かなかった。
武器も、見えない。
空間が開く気配もない。
それでも、距離が縮まったとは感じられなかった。
あと数歩で届く場所にいる。
けれど、その数歩を、簡単に踏み越えていいとは思えない。
「……あなたの気配を、感じたのです」
アテナは告げた。
「神界で……それで、こちらへ来ました」
「……なるほど」
ヘルカイザーが、わずかに目を細める。
アテナの姿を見ているのに、その奥で別のことまで確かめているような目だった。
「それで、わざわざ」
「はい」
アテナは、重ねていた手をほどいた。
会えたことへの安堵が、いまになって押し寄せていた。
姿がある。
声が聞こえる。
もう、気配だけを辿っているのではない。
けれど、その安堵をそのまま相手へ差し出すことはしなかった。
昔の親しさだけで、いまの距離を決めたくなかった。
ヘルカイザーは、小さく息を吐いた。
胸元へ前脚が寄りかけ、途中で止まる。
その内側に生じた反応を、彼は理解していた。
プラスエネルギー。
再会を喜ぶ気持ちが、少しでもあれば。
その反応は、彼にとって心地よいものとは限らない。
ヘルカイザーの笑みが、わずかに薄くなる。
アテナは、その変化を見つめた。
「……少し、お時間をいただけませんか」
言葉を、ゆっくり選ぶ。
「お話を、したいのです」
風が吹き抜けた。
草の揺れる音だけが、三人の間を通っていく。
ヘルカイザーは、すぐには答えなかった。
何を話すのか、と尋ねることも。
話すことなどない、と切り捨てることも。
そのどちらも、しなかった。
アテナは、待った。
神界でゼウスに告げられた言葉を、思い出す。
会えたからといって、その場で答えを求めるな。
いま、彼の前に立てている。
そこから先を、自分の望む速さで進めていいわけではなかった。
隣で、フィナが静かに息を整える。
ヘルカイザーは、その姿を見た。
それから、再びアテナへ目を戻した。
「……アテナさん」
名前を、呼ばれた。
それだけで、返事が詰まりそうになる。
「……はい」
「お話、ですか」
彼の声は、穏やかだった。
けれど、その瞳が何を含んでいるのか、アテナにはまだ読み取れない。
懐かしさか。
警戒か。
それとも、いまさら何を、という思いなのか。
分からないままでも、目を逸らさなかった。
「はい。あなたと、お話をしたくて来ました」
ヘルカイザーは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと、顔を上げる。
長い時を隔てて、二人は再び向かい合っていた。
神界の記憶の中でも、誰かの報告の中でもない。
アルカディアの空の下。
互いの声が届く距離に、ようやく立ったのだった。
――第72話・了――




