第65話 交わることのない光と闇
――セリシア視点――
「……ヘルカイザーさん……?」
返事はありませんでした。
目の前に浮かぶ、小さな白いドラゴン。
いつもなら、こちらが呼び掛ければ、穏やかな笑顔で振り向いてくださる方です。
『おやおや♪ どうしました、セリシアさん?』
……そう言って。
少しだけ首を傾げながら、私の話を聞いてくださる。
ですが。
今は……。
「…………」
黒紫色の魔力が、ヘルカイザーさんの身体から溢れ続けていました。
その周囲では、空間が不規則に歪んでいます。
……これは。
明らかに異常です。
あの方が、自分の意思で次元神の能力を使っているときとは、まるで違う。
何より。
あの方の瞳には、いつもの理性が感じられませんでした。
先ほど、手を伸ばしたときの感覚が残っています。
届くと思った距離から、私は弾き飛ばされました。
攻撃を見切られたときとは違いました。
あの方に何かを教えられたわけでも、近付き方の甘さを指摘されたわけでもありません。
名前を呼んだ。
こちらを向いた。
それでも、私を見てくださったのか分からなかった。
そのことが、衝撃そのものよりも恐ろしかったのです。
私は、デバイスを握る指先へ力を込めました。
落としてはいない。
飛行も維持できている。
自分の状態を確かめても、胸の奥の冷たさは消えませんでした。
ヘルカイザーさんは、すぐそこにいらっしゃいます。
同じ白い身体。
同じ翼。
見慣れた姿なのに、名前を呼んでも返事がない。
次にどう動くのかも、こちらの声が聞こえているのかも分かりません。
訓練で向き合ったときには、どれだけ力の差があっても、あの方の視線の先に自分がいると分かりました。
こちらの狙いを読み、何かを試し、反応を待っている。
あの余裕に腹を立てたこともあります。
けれど、いまは、その余裕さえ恋しかった。
また、何か言ってください。
意地悪な言葉でも構いません。
こちらをからかって、何を慌てているのですかと笑ってください。
そんな願いを口にしても、返事が来る気がしませんでした。
私は、息を吸いました。
その短い動作をする間にも、黒紫色の魔力は途切れずに漏れ続けていました。
「……っ!」
私は、思わず拳を握り締めました。
……どうして。
どうして、こんなことに……。
そのとき。
「……セリシア?」
背後から、声が聞こえました。
いろはさんです。
「ヘルカイザーさん……どうしちゃったの?」
「…………」
……どうした?
今。
この方は、何とおっしゃいました?
私は、ゆっくりと振り向きました。
そこには、困惑した表情を浮かべるいろはさんの姿がありました。
「さっきまで、ちゃんと話してくれていたのに……」
「…………っ」
……っ!
私は、奥歯を強く噛み締めました。
……信じられない。
本当に。
信じられません。
「……いろはさん」
「……え?」
私は、低い声で呼び掛けました。
「貴女……」
そして。
抑えきれなくなった感情が、一気に溢れ出しました。
「自分が何をしたのか、分かっているのですか!!」
声にした途端、喉の奥が熱くなりました。
先ほどまで向かい合って戦っていた相手です。
落ち着いて言葉を選ぶべきだと、どこかで分かっていました。
いろはさんが、あの方を苦しめたかったのではないことも。
ですが、目の前には結果がありました。
何度もやめるよう言っていた方が、ついには言葉を失っている。
あれほど明確な忠告があったのに、どうして、もう少しだけ待てなかったのでしょう。
私が間に入ったときには、遅かった。
その事実が、胸の中で何度も繰り返されます。
もっと早く止めていれば。
異変が起きる前に、この方へ声を掛けていれば。
自分へ向きかけた思いが、行き場をなくしていました。
だからといって、いろはさんを責めれば、元に戻るわけではありません。
そのことさえ分かっているのに、言葉を止められなかった。
いろはさんは、私を見つめていました。
驚いた顔でした。
それがまた、苦しかったのです。
私たちが大切にしてきた時間を話したのは、あの方を知ってほしかったからです。
あの方と暮らしてきたことを、なかったことのように扱われたくなかったから。
それが、どうして、こんな光景につながってしまったのでしょう。
私は一度も、あの方を苦しめてほしいなどと願っていません。
「――っ!?」
いろはさんが、驚いたように目を見開きました。
ですが、構いません。
今は、そんなことを気にしている余裕などないのです。
「ヘルカイザーさんは、何度も忠告したではありませんか!!」
「……セリシア……」
「これ以上はやめなさいと!」
私は、思わず声を荒らげました。
「取り返しが付かなくなると!!」
「…………っ」
「それなのに……!」
私は、震える拳を握り締めました。
「どうして、やめなかったのですか!!」
「……だって……」
いろはさんが、小さく声を漏らしました。
「私は、ただ……」
「ただ、何ですか!?」
「ヘルカイザーさんにも、優しいところがあるって……」
「…………っ!」
……ああ。
そういうことですか。
この方は。
まだ、理解していらっしゃらない。
私は、一度だけ目を閉じました。
そして、いろはさんを睨みつけました。
「……いろはさん」
「…………」
「貴女がヘルカイザーさんへ向けていた感情が、何なのか……」
私は、ゆっくりと言葉を区切りました。
「理解していますか?」
「……え?」
「希望です」
「…………」
「信頼です」
「…………」
「そして、優しさや愛情……」
私は、はっきりと告げました。
「それらは、すべてプラスエネルギーなのです!」
「……プラスエネルギー……」
いろはさんが、呟きました。
私は、続けました。
「ヘルカイザーさんが何を糧としているか、ご存じですか?」
「…………」
「マイナスエネルギーです!」
私は、目の前のヘルカイザーさんへ視線を向けました。
「絶望、恐怖、憎悪、悲しみ……」
それらを糧としている存在。
ヘルカイザーさんは、以前からそうおっしゃっていました。
ですが。
「プラスエネルギーは、その正反対にあるものです」
「…………」
「プラスとマイナスは、決して交わることがないのです!!」
私の声が、空中へ響き渡りました。
「……っ!」
いろはさんが、息を呑みます。
「ヘルカイザーさんにとって、貴女の説得は……」
私は、震える声で続けました。
「猛毒と同じなのですよ!!」
いろはさんの視線が、私からヘルカイザーさんへ移りました。
その先にいる方は、もう話していません。
理由を説明する声も、私たちを止めようとする声も聞こえない。
私は、その沈黙を埋めるように言葉を続けていました。
これは、優しさに価値がないという話ではありません。
誰かを信じることが、すべて間違っているという話でもありません。
ただ、いま、あの方へ向けられたものが、あの方を苦しめている。
それを分かっていただかなければ、また同じ言葉を掛けてしまうかもしれない。
そう思うと、声を弱めることができませんでした。
ヘルカイザーさんは、ご自分でそれを伝えていました。
プラスエネルギーだから、よろしくない。
これ以上は、やめた方がいい。
それは、会話を嫌っているというだけの返答ではなかったのです。
私は、その言葉をもっと重く受け止めるべきでした。
あの方が苦しみ始めた姿を見てから、ようやく意味をつなぎ合わせた。
私自身も、最初から何もかも理解していたわけではありません。
それでも、いま目の前で起きていることは、もう見間違いようがない。
私は、唇へ力を込めました。
いつもなら、こちらが分からなければ、あの方が何かをおっしゃったでしょう。
冗談を交えてでも、説明してくださったかもしれない。
その声がないまま、私が説明している。
それだけで、取り戻せない場所へ来てしまった気がしました。
「…………え?」
いろはさんの顔から、血の気が引いていきました。
「……猛……毒……?」
「そうです!」
私は、さらに声を強めました。
「貴女は、ヘルカイザーさんを救おうとしていたのかもしれません!」
「…………」
「ですが、その行為そのものが、あの方を苦しめていたのです!」
……お願いです。
もう、理解してください。
「ヘルカイザーさんは、何度も止めようとなさったではありませんか……!」
いつの間にか、声が震えていました。
「ご自分がどうなるのか、分かっていらっしゃったから……」
「…………っ」
「だから、何度も忠告してくださったのです……!」
……なのに。
私は、もう一度ヘルカイザーさんを見つめました。
黒紫色の魔力。
歪み続ける空間。
そして、感情の消えた瞳。
……もう。
あの方の声が、聞こえない。
「……セリシア……」
いろはさんが、かすれた声で私を呼びました。
ですが。
私は、すぐには顔を向けられませんでした。
今、振り向いたら。
また、感情をぶつけてしまいそうだったから。
「……私は……」
いろはさんの声が聞こえました。
「……そんなつもりじゃ……」
「…………」
……そうでしょうね。
そんなつもりではなかったのでしょう。
ですが。
「……結果は、変わりません」
告げたあと、私も一度、言葉を失いました。
結果。
その一言で片付けられるほど、軽いものではありませんでした。
だからこそ、声が詰まったのです。
いろはさんを責めても、ヘルカイザーさんは返事をしません。
私が声を荒らげても、黒紫色の魔力は収まりません。
いま、必要なのは、誰が悪かったのかを言い続けることではない。
分かっていました。
ですが、何をすればいいのでしょう。
あの方のことを知っているつもりでした。
どこかで必ず余裕を見せる方だと。
こちらがどれほど驚いても、最後には、いつもの調子で話してくださるのだと。
その前提が、いま崩れています。
私は、小さな白い身体から目を離せませんでした。
いろはさんへ伝えたことの意味を、自分でも、もう一度確かめる。
苦しんでいた。
止めようとしていた。
そして、止められなくなった。
そこまでは、目の前で見ました。
その先は、私にも分かりません。
どうすれば声が届くのか。
どうすれば、またこちらを見てくださるのか。
知っている名前を呼ぶことしか、思い付かなかったのです。
私は、握った拳を少しだけ緩めました。
指先が強張っていることに、そこでようやく気付きました。
私は、静かに告げました。
「ヘルカイザーさんは……」
声が、わずかに詰まりました。
「……暴走してしまったのですから……」
そのときでした。
――ドクンッ!!
「…………っ!?」
周囲の空間が、大きく脈打ちました。
私は、咄嗟に顔を上げました。
……っ!!
ヘルカイザーさんの周囲に漂っていた黒紫色の魔力が、さらに大きく膨れ上がっていたのです。
そして。
その身体が、ゆっくりと動き始めました。
「……ヘルカイザーさん……?」
私は、恐る恐る呼び掛けました。
しかし。
返事はありませんでした。
◇ ◇ ◇
――天城いろは視点――
……猛毒。
私は、その言葉を頭の中で繰り返していた。
(……私の言葉が)
(……ヘルカイザーさんにとって、猛毒……?)
そんな……。
私は、ただ。
もう人を傷つけないでほしかった。
セリシアたちと過ごしていたような、穏やかな時間を大切にしてほしかった。
あの人の中にある優しさを、信じたかった。
……だけど。
『これ以上は、やめなさい』
『取り返しが付かなくなりますよ』
……そうだ。
ヘルカイザーさんは、言っていた。
何度も。
何度も、私へ忠告していた。
それなのに。
私は……。
(……聞かなかった)
私は、アークレイを持つ自分の手を見た。
さっきは、この手で武器を下ろした。
言葉で向き合いたいと思ったから。
それは、間違ったつもりではなかった。
でも、武器を下ろしたから、相手を傷つけていないとは限らなかったのだ。
ヘルカイザーさんは、苦しそうに胸を押さえていた。
やめてほしいと、言葉を絞り出していた。
そのとき、私は何をしただろう。
痛いのかと尋ねた。
傷つけることを言ったのかと尋ねた。
分からないから、もっと話してほしいと思った。
相手が答えるのも苦しくなっているのに。
(……止まれば、よかったのに)
もっと聞けば、分かる。
もう少し伝えれば、届く。
そう信じていた。
ヘルカイザーさんの中に優しさがあることを、セリシアたちの話から感じた。
その気持ちまで嘘だったとは思えない。
けれど、それを信じる気持ちが、あの人に何をしているのかは考えなかった。
誰かを苦しめないでほしい。
みんなと笑ってほしい。
その言葉を、私はいいものだと思って向けていた。
だから、嫌がられても、まだ続けてしまった。
私は顔を上げた。
黒紫色の魔力の向こうに、白い小さな姿が見える。
あの人を救いたいと言ったのは私だ。
なのに、いまは名前を呼ぶことさえ、ためらっている。
何をすれば助けられるのか分からない。
何をすれば、また苦しめるのかも分からない。
その怖さを、さっきまでは知らなかった。
自分が正しいと思っていたから。
きっと届くと信じていたから。
……でも。
その言葉そのものが、ヘルカイザーさんを苦しめていたなんて。
「…………っ」
私は、唇を噛み締めた。
……どうしよう。
どうしたら……。
そのとき。
――カシャンッ!!
「……え?」
聞き覚えのある、金属音が響いた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして――。
「…………っ!?」
息を呑んだ。
ヘルカイザーさんの前脚に、二丁のライフルが握られていたのだ。
あれは……。
初めて出会ったときにも見た武器。
アルカディアの自然を破壊しようとした、あのときの……。
私は、反射的に握りを確かめた。
さっきまで下へ向いていたアークレイを、いつでも動かせるように持ち直す。
けれど、すぐに攻撃を放つことはできなかった。
何を狙っているのか、まだ分からない。
こちらを見ていないからといって、安全だとは思えない。
むしろ、見ていないことの方が怖かった。
初めて会ったときには、あの人は景色を眺め、破壊しようと笑っていた。
こちらの声を聞き、言葉を返していた。
いまは、何も言わない。
武器が現れたことを教えるような仕草も、こちらを驚かせて楽しむ様子もなかった。
ただ、その前脚に握られている。
それが、これまでのどんな言葉よりも、状態の違いをはっきりと感じさせた。
私はセリシアへ視線を向けかけ、すぐに戻した。
見失ってはいけないと思った。
ほんの少し目を離した間に、何かが変わってしまうかもしれない。
さっきまでなら、何をするつもりか尋ねることができた。
答えを信用できるかは別としても、声を返してくれる相手だった。
いまのヘルカイザーさんには、それが期待できない。
私は、息を殺して前脚の動きを追った。
白い身体に、二丁の武器。
その周囲を、黒紫色の魔力が揺らめいている。
見えているものは、はっきりしていた。
それなのに、次に何が起きるのかが、まったく見えなかった。
「……まさか」
私は、思わず呟いた。
すると。
ガシャンッ!!
二丁のライフルが、組み合わされた。
連結された銃身。
横に並ぶ、二つの砲口。
金属の組み合わさる音が、妙にはっきりと耳へ残った。
私は、その動きを見ていた。
二丁のライフルが側面で連結され、二つの銃口が同じ方向を向く。
たったそれだけの動作だった。
でも、二つの銃口が並んだ瞬間、さっきまでよりも強く、何かが始まってしまう気がした。
ヘルカイザーさんの顔へ視線を戻す。
変わらない。
こちらをからかう笑みも、止められたことに腹を立てる表情もない。
静かなまま、武器を扱っている。
(……戻って、ない)
身体が動いているから、もう大丈夫なのではないか。
ほんの少し浮かんだ期待が、その顔を見て消えた。
話さないだけなら、まだよかった。
こちらを無視しているだけなら、何か伝える方法を探せたかもしれない。
だけど、いまは、私たちをどう見ているのかさえ分からない。
あの人を止めるには、まず、何をするつもりなのかを知る必要がある。
そう思うのに、武器を持った姿だけでは答えが出なかった。
私は、息を吸った。
名前を呼べば、今度こそ振り向いてくれるだろうか。
問い掛けが、喉の奥で揺れた。
さっきまでなら、何度でも声を掛けられた。
けれど、いまは、その一度が重かった。
……連結式魔導ライフル。
「…………」
ヘルカイザーさんは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと銃口を持ち上げていく。
……え?
私は、一瞬、首を傾げた。
銃口が向けられた先。
そこには、誰もいなかった。
はちちゃんも。
セリシアも。
私も。
……狙われていない。
では、一体どこを……?
銃口の向こうを、私は目でたどった。
空がある。
青く澄んだ空と、遠くへ続く光。
何もない場所だった。
こちらに攻撃してくるのなら、狙いを見て動くことができる。
誰かを狙うのなら、その人へ声を掛けることもできる。
なのに、誰にも向けられていない。
一瞬だけ、止まってくれるのかと思いかけた。
でも、握られた武器は消えなかった。
前脚の動きも、途切れてはいない。
(……違う)
何も狙っていないのではない。
私に、狙いが分からないだけだ。
そう考えた瞬間、背中が冷たくなった。
次元神の能力。
私の砲撃が、目の前から消えたことを思い出す。
空間が開き、光を飲み込み、何もなかったように閉じてしまった。
武器がこちらを向いているかどうかだけでは、考えられない。
そのことを知っているのに、私はまだ、銃口の先に誰がいるのかを探していた。
はちちゃんも、セリシアも、その方向にはいない。
だからといって、何も起きないとは限らない。
私は、アークレイへ意識を戻した。
いまなら、まだ何かできるだろうか。
けれど、何を止めればいいのか。
ヘルカイザーさんなのか、その武器なのか。
判断しようとした、その前だった。
その瞬間。
――ぽちゃん。
「…………っ!」
空中に、水面のような波紋が広がった。
一つ。
その中心が、ゆっくりと歪んでいく。
……違う。
いつもの小さな裂け目じゃない。
波紋は、どんどん大きくなっていく。
周囲の景色が引き伸ばされ、空間そのものに亀裂が走り始めた。
ピシッ!
ピシピシッ!!
そして――。
バキィィンッ!!
巨大な次元の裂け目が、開いた。
その向こう側には、果ての見えない漆黒の空間が広がっていた。
私は、瞬きをすることも忘れていた。
開いた場所の縁に、空の色が引き延ばされている。
景色がそこだけ途切れ、その奥には何も見えない。
どれほど深いのか。
どこへ続いているのか。
目を凝らしても、答えはなかった。
初めて見たときの波紋は、不思議だった。
水のない場所が水面のように揺れることに、驚いた。
いまは、同じものを見ても、胸の奥が強く冷えていく。
あの人の力は、なくなったわけではない。
返事をしなくなっても、笑わなくなっても、空間を開く力は残っている。
むしろ、目の前の裂け目は、いままで私が見たものより大きかった。
黒紫色の魔力が、その手前で揺れている。
その中心に、白いドラゴンが浮かんでいる。
誰かが指示したわけではない。
何かを説明したわけでもない。
それでも、武器と裂け目が、一つの動きにつながり始めている。
私は、何度も呼び掛けた名前を、もう一度口にしようとした。
さっきは言葉が苦しめてしまった。
でも、いま止めなければ、もっと何かが起きる。
喉の奥で、声がつかえた。
何も分からないまま、ただ見ていることだけはできない。
そう思っても、目の前の漆黒から目を離すことができなかった。
……次元の狭間。
「……っ!」
私は、再びヘルカイザーさんへ視線を向けた。
その銃口が、巨大な裂け目へ向けられている。
……まさか。
何をするつもりなの……?
「……ヘルカイザーさん……?」
呼び掛けた。
だけど、返事はない。
次の瞬間。
――ギュオオオオオッ!!
「……っ!?」
連結式魔導ライフルの二つの銃口へ、凄まじい魔力が集まり始めた。
眩い光。
空間を震わせるほどの魔力。
その規模は、初めて出会ったときとは比べものにならなかった。
……嘘。
何なの、この魔力量……!?
光が、白い身体の輪郭を照らしていた。
前脚に握られた武器の先が、見つめ続けることも難しいほど眩しくなる。
私は、思わず目を細めた。
それでも、銃口から視線を外せなかった。
さっき、セリシアの説明を聞いていた時間が、急に遠く感じられた。
後悔している間にも、状況は変わっていたのだ。
私が何を考えていても、目の前の力は待ってくれない。
止めなければ。
その気持ちだけが、胸の中で強くなった。
けれど、こちらの砲撃を飲み込んだ防壁を思い出す。
はちちゃんがようやく一撃を届かせても、あの人は元へ戻った。
同じことをいま繰り返して、間に合うのだろうか。
考える間にも、光は強くなる。
私は、アークレイを構え直した。
できるかどうか分からないからといって、見ているだけではいられない。
でも、声も、武器も、何をどう向けるべきか定まらない。
いつもなら迷わずできたはずのことが、いまは一つずつ重かった。
私が始めてしまった。
その思いが、視界の端へ何度も戻ってくる。
だけど、いまここでうつむいてしまったら、それこそ何もできなくなる。
私は唇へ力を込め、目の前のヘルカイザーさんを見つめた。
お願いだから、まだ間に合ってほしい。
その願いを、声へ変えた。
「……っ!」
私は、慌ててアークレイを構えた。
「やめて!!」
声を張り上げる。
「ヘルカイザーさん!!」
だけど。
もう、私の声には反応しない。
「……お願い!!」
私は、必死に叫んだ。
「やめてください!!」
しかし。
ヘルカイザーさんは、ゆっくりと銃口を固定した。
そして――。
最大出力。
次の瞬間。
――ドォォォォォォォォォォォォッ!!!!
「――っ!?」
凄まじい閃光が、空を貫いた。
連結式魔導ライフルから放たれた巨大な魔力砲撃。
その光の奔流が、目の前に開かれた次元の裂け目へと吸い込まれていく。
ゴォォォォォォォッ!!
大量の魔力が、次元の狭間へ流れ込んでいった。
裂け目の縁が、眩しい光に照らされている。
漆黒だった奥へ、砲撃がまっすぐ伸びていく。
私は、目を細めながら、その行き先を追おうとした。
見えない。
光が入り込んだ先に、何があるのか分からない。
どこまで届いたのかも、向こうで何に触れたのかも。
こちらの空には、まだ青が残っていた。
光は、私たちを直接狙っていない。
その事実に、胸の奥がわずかに緩みかけた。
でも、安心してはいけないという思いもあった。
ヘルカイザーさんが使っているのは、次元を操る力だ。
目の前から見えなくなったから、なくなったとは限らない。
そのことは、私自身、砲撃を消されたときに見ている。
なのに、いまは光を見送ることしかできなかった。
問い掛けても返事がない。
銃口の先を見ても、相手はいない。
そして、放たれた力は、こちらから見えない場所へ流れ込んでいる。
私は、アークレイを握り締めた。
何が起きたのか、理解したい。
次に何が起きるのか、見落としたくない。
そう思いながら、眩しい裂け目を見つめ続けていた。
……え?
私は、一瞬だけ呆然とした。
(……次元の狭間に撃った?)
どうして?
そこには、誰もいないはずなのに。
……だけど。
次の瞬間。
私は、自分の考えがどれほど甘かったのか思い知らされることになった。
――第65話・了――




