第64話 崩れゆく理性
――天城いろは視点――
「……もう一度、みんなと笑って過ごしませんか?」
私は、目の前のヘルカイザーさんへ語り掛けた。
小さな白い身体。
背中に生えた、悪魔のような翼。
いつもなら、穏やかな笑顔を浮かべているはずの顔。
だけど、今は違っていた。
「…………」
ヘルカイザーさんは、黙って私を見つめていた。
あの笑顔は、もうない。
その瞳に浮かんでいるのは、今まで見たことのない表情だった。
……どうして?
私は、胸の奥に小さな不安を覚えた。
でも。
(……きっと、届いている)
そう思った。
だって、ヘルカイザーさんは、私の言葉を聞いてくれている。
今まで何度も忠告してきたけれど、攻撃はしてこなかった。
だから……。
きっと、話せば分かってくれる。
私は、アークレイを下ろしたまま、呼吸を整えた。
何も答えてくれないことを、拒絶だとは受け取りたくなかった。
さっきまでなら、何か一言、返していたはずだ。
お仕事ですと笑ったり、こちらの言葉を面白がったり。
その人が、いまは黙っている。
私の話を聞き、考えてくれているのではないか。
そう思うと、ここで言葉を止めるのが怖かった。
セリシアたちから聞いたことを、もう少し伝えたい。
あの子たちが、あなたを大切に思っていることを。
それを知っても、なお、人を傷つける必要があるのか。
一緒に笑える人たちがいるのに、どうして別の誰かを苦しめるのか。
聞きたいことは、まだあった。
だけど、目の前の変化を、都合のいい方へ受け止めていたのかもしれない。
言葉が届くことと、相手がその言葉を受け止めきれること。
その二つを、私は分けて考えられていなかった。
いまはただ、笑顔の消えた小さな顔を見ていた。
話し続ければ、あの子たちと過ごしていたときの気持ちを思い出してくれる。
そんな期待が、不安を押しのけていた。
「……ヘルカイザーさん」
私は、もう一度呼び掛けた。
「あなたは、セリシアたちに新しい人生を与えてくれましたよね?」
「…………」
返事はなかった。
それでも、私は続けた。
「本当なら、もう会うこともできなかったはずの子たちです」
あの戦いで、消滅したはずのエクリプス。
それなのに、今はこうして生きている。
仕事をして。
訓練をして。
時には失敗して、叱られて。
そして、笑い合っている。
「……セリシアたち、楽しそうでした」
私は、小さく微笑んだ。
「ヘルカイザーさんと過ごしてきた時間を、とても大切に思っているみたいでした」
「…………」
「だから……」
私は、少しだけ声を強めた。
「そんな子たちが悲しむようなことは、もうやめてほしいんです」
そのときだった。
「…………っ」
ヘルカイザーさんの身体が、わずかに震えた。
……え?
私は、一瞬だけ言葉を止めた。
(……今、何か……)
けれど、ヘルカイザーさんはすぐに姿勢を整えた。
「……いろはさん」
その声は、いつもより低かった。
「……はい?」
「もう……」
そこで、言葉が途切れる。
ヘルカイザーさんは、一度目を閉じた。
そして、静かに告げた。
「……これ以上は、やめなさい」
「…………」
……また、その言葉。
私は、少しだけ唇を噛んだ。
「でも……」
「…………」
「私は、あなたを信じたいんです」
「…………っ」
また。
ヘルカイザーさんの身体が震えた。
今度は、先ほどよりも大きく。
……だけど。
私は、それが何を意味しているのか、まだ理解していなかった。
◇ ◇ ◇
「……ヘルカイザーさん」
私は、ゆっくりと言葉を続けた。
「昔のあなたは、みんなに喜んでもらいたくて発明をしていたんですよね?」
「…………」
はちちゃんと話しているときに聞こえた、ヘルカイザーさんの過去。
普通の人間だった頃。
誰かに喜んでもらうために発明品を作り、小さな屋台で販売していたこと。
そして、その屋台を燃やされてしまったこと。
「……辛かったと思います」
私は、静かに告げた。
「一生懸命作ったものを、誰かに壊されてしまうなんて……」
「…………」
「でも……」
私は、目の前のヘルカイザーさんを見つめた。
「それでも、あなたが最初に持っていた気持ちまで、なくなってしまったわけじゃないと思うんです」
その瞬間。
「……ぐっ」
「……え?」
小さな声が聞こえた。
ヘルカイザーさんが、わずかに前屈みになっていた。
「……ヘルカイザーさん?」
「…………」
右の前脚が、胸元へ添えられる。
その身体が、小刻みに震え始めた。
……どうしたの?
私は、思わず一歩近付こうとした。
だが――。
「……来ないでください」
「……っ!」
いつもの穏やかな声ではなかった。
明らかに、苦しそうな声。
「……お願いですから……」
ヘルカイザーさんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう……やめてください……」
「…………」
……え?
私は、その言葉に戸惑った。
どうして?
私の言葉が、そんなに嫌なの?
それとも……。
「……ヘルカイザーさん」
私は、思わず尋ねた。
「もしかして……」
少しだけ、胸が苦しくなる。
「……私、何か傷つけるようなことを言いましたか?」
「…………っ!」
ヘルカイザーさんの身体が、大きく震えた。
そして。
「……ち、違……」
苦しそうに声を絞り出す。
「……そういう……問題では……」
そこで、言葉が途切れた。
「……ぐっ……!」
ヘルカイザーさんが、胸元を押さえたまま身体を丸める。
「ヘルカイザーさん!?」
私は、思わず声を上げた。
……苦しんでる?
さっきまで、あんなに平然としていたのに。
はちちゃんの攻撃で身体が半壊したときでさえ、笑っていた人なのに。
今は……。
明らかに苦しんでいる。
「……どうしたんですか!?」
私は、心配になって呼び掛けた。
「どこか痛いんですか!?」
「……いろは……さん……」
ヘルカイザーさんが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、いつもの余裕がなかった。
「……もう……」
震える声。
「……言葉を……」
そして。
「……向けないで……ください……」
「…………っ」
……言葉を?
私は、息を呑んだ。
そのとき、ようやく思い出した。
『プラスエネルギーですからねぇ』
『これ以上は、やめなさい』
『取り返しが付かないことになりますよ』
……あっ。
(……もしかして)
私の言葉が……。
ヘルカイザーさんを、苦しめている?
私は、開きかけていた口を止めた。
今まで、何を聞いていたのだろう。
やめなさい。
続けないでください。
取り返しが付かなくなる。
一つずつ思い出せば、どれもはっきりとした言葉だった。
聞こえなかったわけではない。
私に向けられた忠告だと、分かっていた。
それなのに、何かを怖がっているのなら話してほしいと、さらに尋ねてしまった。
声を掛けるたびに、その身体が震えた。
信じたいと伝えると、顔が歪んだ。
さっきから続いている変化が、頭の中でつながりかける。
(……私が、続けたから?)
私は、目の前へ手を伸ばしかけたまま、動けなくなった。
助けたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
痛いのかと尋ねた、その声さえ、向けないでほしいと言われてしまった。
何か言わなければと思うほど、喉が詰まる。
ヘルカイザーさんは、まだ胸元を押さえていた。
小さな前脚に力が入り、翼が不規則に揺れる。
私には、その内側で何が起きているのか見えない。
ただ、もう一度笑ってほしいという願いが、いま目の前で苦しむ姿と、あまりにも遠く離れていた。
◇ ◇ ◇
――アルカディア上空――
(……おいおいおい)
はちは、目の前の光景に思わず息を呑んだ。
……何だ?
何が起きている?
つい先ほどまで、いろはさんがヘルカイザーを説得していた。
あいつも何度か忠告していたが、いろはさんは諦めなかった。
……それはいい。
いや、よくはないのかもしれないけど。
問題は、その後だ。
(……あのヘルカイザーが、苦しんでいる?)
ディメンションウォールを使い、セレスティアの攻撃を防いだ相手。
半壊しても、超再生で一瞬にして復活した相手。
そんなあいつが……。
今は、身体を丸めて苦しんでいる。
「……ぐっ……あ……!」
「…………っ」
……まずい。
何だか、嫌な予感がする。
『……はち』
ステラの声が、頭の中へ響いた。
『……何か、おかしい……』
(……はい)
はちも、同じことを考えていた。
(……明らかに様子が変です)
それに。
……さっき、何て言ってた?
プラスエネルギー。
確か、いろはさんの説得を、そう呼んでいた。
(……プラスエネルギーが苦手なのか?)
……いや。
単に苦手というだけで、あんなに苦しむものなのか?
はちは、ヘルカイザーを見つめた。
小さな身体が、震えている。
翼は不規則に動き、空中での姿勢も安定していない。
……おい。
これ、本当に大丈夫なのか?
すると――。
「……いろは……さん……」
ヘルカイザーが、苦しそうに顔を上げた。
「……本当に……」
そこで、大きく息を詰まらせる。
「……これ以上は……」
そして。
「……やめ……なさ……」
「…………っ」
……言い終わらなかった。
ヘルカイザーが、再び身体を丸めたのだ。
「……ぐあっ……!!」
……っ!?
はちは、思わず身構えた。
(……何だ!?)
次の瞬間。
ヘルカイザーの周囲に、黒紫色の魔力が滲み始めた。
ゆらり……。
最初は、ほんのわずかだった。
小さな身体の周囲に、薄い影のようなものが漂っている。
……だが。
その影は、少しずつ濃くなっていった。
(……おいおい)
……何か。
とんでもなく嫌な感じがするんですけど!?
◇ ◇ ◇
――セリシア視点――
「……ヘルカイザーさん?」
私は、目の前の光景を見つめていました。
いろはさんが、あの方を説得している。
そのこと自体は、先ほどから分かっていました。
ヘルカイザーさんが、いつもとは違う様子を見せていることも。
ですが……。
(……これは)
私は、思わず眉を寄せました。
ヘルカイザーさんの身体が、震えている。
それも、明らかに苦痛によるものです。
……おかしい。
あの方が、あの程度の会話で苦しむなど。
普段のヘルカイザーさんからは、考えられないことでした。
「……ぐっ……!」
そのとき。
ヘルカイザーさんの周囲から、黒紫色の魔力が滲み出しました。
「…………っ!?」
私は、目を見開きました。
……これは。
まさか……!
『プラスエネルギーですからねぇ』
先ほどの、ヘルカイザーさんの言葉が頭をよぎる。
いろはさんが向けている感情。
希望。
信頼。
誰かを救いたいという、強い意志。
……それが。
あの方を苦しめている?
(……そんな)
私は、ヘルカイザーさんの様子を改めて確認しました。
震える身体。
不規則に動く翼。
そして、周囲へ漏れ出している魔力。
……何より。
あの方が、自ら説得をやめるよう忠告していたこと。
一度や二度ではありません。
何度も。
繰り返し。
……それでも、いろはさんは止まらなかった。
(……っ!)
その瞬間、背筋に冷たいものが走りました。
……まずい。
非常に、まずい。
私は、すぐにいろはさんへ視線を向けました。
「……いろはさん!」
「……え?」
いろはさんが、こちらを振り向きました。
「セリシア?」
「もう、やめてください!」
「……え?」
私は、声を強めました。
「それ以上、ヘルカイザーさんへ言葉を向けないでください!」
「で、でも……!」
いろはさんが、困惑した表情を浮かべました。
「ヘルカイザーさんが、苦しんでるんだよ!?」
「だからです!」
私は、思わず叫んでいました。
「今は、説得を続けてはいけません!」
「…………っ」
いろはさんの表情が変わりました。
ですが。
私は、もう説明している余裕がありませんでした。
何故なら――。
「……ぐっ……があっ……!!」
ヘルカイザーさんの身体が、大きく跳ねたからです。
「……っ!!」
黒紫色の魔力が、一気に膨れ上がる。
まるで、内側から何かが溢れ出してくるかのように。
……駄目。
これ以上は……!
(……ヘルカイザーさん!!)
私は、咄嗟に飛び出しました。
知っている姿が、次々と頭をよぎりました。
訓練のとき、こちらの攻撃を受け流し、余裕を持って見ていた方。
失敗すれば、少し意地悪なことを言いながらも、次を試す時間をくださった方。
その方が、いまは、自分の姿勢さえ保てずにいます。
これが、何を意味するのか。
すべてを理解できたわけではありません。
ですが、少なくとも、あの方の意思でそうしているようには見えませんでした。
あれほど繰り返し忠告していたのです。
起きてほしくないことがあるから、止めようとしていた。
そのことだけは、もう疑えませんでした。
(……声が、届くうちに)
私は、目の前の小さな姿を見据えました。
何をすれば戻るのか、分かりません。
近付けば危険なのかもしれません。
それでも、ここから眺めているだけではいられなかった。
あの方がこちらを見て、いつものように返事をしてくだされば。
たった一言でも、私を認めてくだされば。
その願いを抱え、距離を詰めました。
◇ ◇ ◇
――ヘルカイザー視点――
……ああ。
……これは。
……まずい、ですねぇ。
私は、必死に意識を保とうとしていました。
……まったく。
何度も忠告したというのに。
本当に、困った方です。
いろはさん。
……貴女の言葉。
……貴女の気持ち。
……そのすべてが。
自分にとって、非常によろしくないのですよ。
「……ぐっ……!」
身体の内側が、軋む。
魔力が、思うように安定しない。
……駄目ですねぇ。
いつもなら、こんなことには……。
……いえ。
違いますね。
分かっていたはずです。
だからこそ、忠告した。
これ以上はやめなさい、と。
取り返しが付かなくなる、と。
……なのに。
(……ああ)
また。
流れ込んでくる。
希望。
信頼。
優しさ。
……愛情。
自分が糧としているマイナスエネルギーとは、正反対のもの。
……プラスエネルギー。
「……ぐあっ……!」
……っ!
私は、必死に意識を繋ぎ止めました。
……落ち着きなさい。
……まだ、大丈夫です。
……まだ、制御できる。
そう自分に言い聞かせる。
ですが。
(……おや?)
……おかしいですねぇ。
いつもなら、こんなふうに……。
……ああ。
……駄目だ。
……これは。
……もう。
「……いろは……さん……」
最後に、目の前の女性へ呼び掛けようとしました。
……どうか。
……もう。
……やめて……。
しかし。
声が、出ませんでした。
代わりに、身体の奥から異様な力が込み上げてくる。
……いけない。
……このままでは。
…………。
……ああ。
……もう。
……間に合いませんねぇ。
◇ ◇ ◇
――天城いろは視点――
「……ヘルカイザーさん!?」
私は、思わず声を上げた。
目の前で、ヘルカイザーさんが苦しんでいる。
身体を丸め、胸元を押さえ、必死に何かへ耐えているようだった。
「……どうしたら……」
私は、思わず手を伸ばそうとした。
だけど、その瞬間。
「いろはさん!!」
セリシアの声が響いた。
「離れてください!!」
「……えっ!?」
私は、驚いて振り向いた。
セリシアが、こちらへ向かって飛んできていた。
その表情は、今まで見たことがないほど切迫していた。
「セリシア……?」
「ヘルカイザーさん!!」
セリシアは、私の横を通り過ぎる。
そして、一直線にヘルカイザーさんへ向かった。
……何が起きてるの?
どうして、そんなに慌てているの?
私は、再びヘルカイザーさんへ視線を向けた。
すると――。
「…………っ!?」
息が止まった。
ヘルカイザーさんの周囲に漂っていた黒紫色の魔力。
それが、急激に膨れ上がり始めたのだ。
ゆらり……。
ぐにゃり……。
周囲の空間が、水面のように歪んでいく。
……あれ?
この光景。
見覚えがある。
次元神の能力を使ったときの、あの波紋。
だけど。
今は、明らかに違っていた。
いつものように、綺麗な円を描いていない。
波紋が幾重にも重なり合い、互いに潰れ、空間そのものが不規則に揺れている。
まるで、何かが暴れ回っているかのように。
「……ヘルカイザーさん?」
私は、震える声で呼び掛けた。
しかし。
返事はなかった。
「…………」
ヘルカイザーさんが、ゆっくりと顔を上げた。
……その瞬間。
(……え?)
私は、目を見開いた。
……違う。
いつものヘルカイザーさんじゃない。
あの穏やかな瞳。
人をからかうときの、楽しそうな目。
セリシアたちと過ごしていたときの、優しい表情。
……そのどれとも違う。
今、目の前にあるのは――。
感情の読めない、異様な瞳だった。
「……っ!」
私は、思わず身を強張らせた。
「ヘルカイザーさん……?」
もう一度、呼び掛けた。
だけど。
その声は、届かなかった。
◇ ◇ ◇
――セリシア視点――
(……間に合って!!)
私は、全速力でヘルカイザーさんへ向かっていました。
黒紫色の魔力が、急激に膨れ上がっている。
……駄目。
これは、本当にまずい。
先ほどまで、あの方は苦しみながらも言葉を発していました。
いろはさんへ忠告していました。
ですが。
今は……。
(……返事をしていない)
そのことが、何より恐ろしかった。
「ヘルカイザーさん!!」
私は、必死に呼び掛けました。
「しっかりしてください!!」
あと少し。
あと少しで、手が届く。
「ヘルカイザーさん!!」
私は、右手を伸ばしました。
……お願いです。
どうか。
私の声を……!
その瞬間。
ヘルカイザーさんが、こちらへ顔を向けました。
「……っ!」
……ああ。
私は、その瞳を見た瞬間に悟ってしまいました。
……遅かった。
あの方の瞳に、いつもの穏やかさはありませんでした。
……そして。
次の瞬間。
――ドクンッ!!
まるで、世界そのものが脈打ったかのような衝撃が走りました。
「……っ!?」
周囲の空間が、大きく歪む。
黒紫色の魔力が、一気に噴き出した。
「ヘルカイザーさ――」
私の声は、最後まで続きませんでした。
――ドォォォォォォォンッ!!!!
「きゃああっ!?」
凄まじい衝撃が、私の身体を弾き飛ばしたのです。
「……くっ!!」
私は咄嗟に魔力を展開し、何とか空中で体勢を立て直しました。
しかし。
顔を上げた瞬間。
「…………っ!!」
私は、言葉を失いました。
そこには――。
黒紫色の魔力をまとい、空中に浮かぶヘルカイザーさんの姿がありました。
白い小さな身体。
悪魔のような翼。
その姿自体は、先ほどまでと変わりません。
ですが。
周囲から放たれる魔力が、明らかに異常でした。
ゆらり……。
ぐにゃり……。
空間が歪み、いくつもの不規則な波紋が広がっていく。
……違う。
これは、いつもの次元神の能力ではありません。
少なくとも。
私たちと模擬戦をしていたときの、あの方の力の使い方ではない。
あのときは、どれほど強力な魔法を使っていても、すべてを自分の意思で制御していました。
攻撃を止めるときは、止める。
向きを変えるときには、私たちの位置を見ている。
余裕のある笑顔の向こうで、こちらの動きをきちんと捉えていました。
だからこそ、強いのだと感じていたのです。
いまは、その確かさがありません。
波紋の広がり方が、揃わない。
消えたと思った場所の隣で、別の歪みが生じる。
翼を動かしても、周囲の揺らぎは収まらない。
ただ魔力が大きくなっただけなら、こんなに恐ろしくはなかったでしょう。
あの方が何をしようとしているのか。
そもそも、何かを選ぼうとしているのか。
それが、分からないのです。
私は、呼び掛けるための息を吸いました。
けれど、名を呼んでも返事が来ないことを思うと、その短い声を出すのにも力が必要でした。
……ですが、今は。
「…………」
ヘルカイザーさんが、ゆっくりと翼を広げました。
バサァァッ――。
その瞬間。
周囲の魔力が、さらに激しく渦巻き始めた。
「…………っ」
私は、息を呑みました。
……ああ。
どうして。
どうして、こうなってしまったのでしょう。
あの方は、何度も忠告していたではありませんか。
これ以上は、やめなさいと。
取り返しが付かなくなると。
……なのに。
(……ヘルカイザーさん)
私は、震える声で呼び掛けました。
「……ヘルカイザーさん……?」
返事はありません。
「……私です」
必死に声を絞り出す。
「……セリシアです」
「…………」
……お願い。
いつものように。
『おやおや♪』
そう言って、笑ってください。
少し意地悪で。
何を考えているのか分からなくて。
時にはレティシアさんに叱られて。
ミリアさんと遊ぶときには、楽しそうに笑っていた。
……あの、ヘルカイザーさんに。
戻ってください……。
しかし。
次の瞬間。
「…………」
ヘルカイザーさんが、ゆっくりとこちらを向きました。
その瞳には――。
私を認識しているのかさえ分からない、異様な静けさがありました。
「…………っ」
私は、全身が冷たくなるのを感じました。
……駄目。
もう。
……遅かったのです。
ヘルカイザーさんは、暴走してしまった。
◇ ◇ ◇
――アルカディア上空――
(……嘘だろ)
はちは、目の前の光景を呆然と見つめていた。
黒紫色の魔力。
不規則に歪む空間。
その中心に浮かぶ、ヘルカイザー。
……何なんだ、これは。
さっきまでの、あのふざけた笑顔はどこへ行った?
アテナさんのことで笑い転げていた人物と、同一人物だとは思えない。
(……あいつ)
(……本当に、暴走してるのか?)
はちは、思わず左腕のSIAを確認した。
魔力ディスクは、今も展開されたまま。
セレスティアも、こちらの近くで警戒している。
そして。
『……はち』
ステラの声が、頭の中へ響いた。
その声には、明らかな動揺が混じっていた。
『……あれ……』
「…………」
『……ヘルカイザーが……』
はちは、静かに頷いた。
(……はい)
……間違いない。
はちの目の前で、何かが起きている。
しかも。
それは、明らかに良くないことだった。
(……おいおい)
はちは、歯を食いしばった。
ディメンションウォール。
超再生。
次元神を創り上げた研究者としての知識。
それらだけでも、倒すことが困難な相手なのだ。
そのヘルカイザーが……。
(……理性を失ったら、どうなるんだよ!?)
はちは、目の前のヘルカイザーを見据えた。
その周囲では、空間が静かに歪み続けている。
先ほどまでの戦闘とは、明らかに違う。
これは、もう。
単なる次元神同士の戦いではない。
……そうだ。
あいつは、忠告していた。
いろはさんへ、何度も。
『これ以上は、やめなさい』
『取り返しが付かないことになりますよ』
……あれは。
脅しなんかじゃなかったんだ。
(……くそっ!!)
はちは、思わず歯を食いしばった。
そして――。
「……いろはさん!!」
大きな声で呼び掛けた。
「……はちちゃん!?」
いろはさんが、こちらへ振り向いた。
その顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。
……そりゃ、そうですよね。
まさか、説得していた相手が本当に暴走するなんて、思っていなかったでしょうから。
だけど。
今は、それどころじゃない!
はちは、ヘルカイザーへ視線を戻した。
黒紫色の魔力が、さらに大きく揺らいでいる。
その中心で、ヘルカイザーがゆっくりと翼を広げていた。
「…………」
いつもの笑顔は、どこにもない。
そして。
次の瞬間。
――ドクンッ!!
再び、空間が大きく脈打った。
「……っ!?」
はちは、思わず身構えた。
……まずい。
これは、非常にまずい。
(……どうする!?)
今のヘルカイザーに、こちらの声が届くのかも分からない。
ましてや。
あの異常な次元神の能力を、制御できているとも思えない。
……いや。
そもそも。
(……暴走してるなら、制御なんてできるわけないだろ!?)
はちは、額に冷や汗が浮かぶのを感じた。
目の前には、世界で最初の次元神。
しかも。
理性を失い、暴走を始めた次元神がいる。
……本当に。
(……何てことになったんだよ!!)
はちは、左腕のSIAを構え直した。
セレスティアも、低く唸りながら翼を広げる。
そして。
ステラとのユニゾンを通じて、互いの緊張が伝わってきた。
……でも。
今は、まだ攻撃できない。
ヘルカイザーが何をするのか。
どのような状態になっているのか。
何一つ、分かっていないのだから。
はちは、静かに息を呑んだ。
その視線の先では――。
ヘルカイザーが、ゆっくりと顔を上げていた。
――第64話・了――




