第62話 研究者の礼儀
「だいずウケる!! あっはははははっ!!」
青空に、場違いなほど明るい笑い声が響いていた。
白い小さなドラゴンが、お腹を抱えて空中を転がっている。黒い翼が不規則に動き、どうにか同じ高さを保っていた。
その向こうには、何事もなかったような空が広がっている。
つい先ほどまで、そこを砲撃が走っていた。
次元の防壁を突破するために、はちはセレスティアと息を合わせ、ようやく一撃を届かせたのだ。
命中した瞬間の手応えは、まだ覚えている。
あれで戦いが終わるとは思っていなかった。それでも、何かが変わるはずだった。
ところが、傷ついた身体は瞬く間に元へ戻り、当の相手は、いまや腹を抱えて笑っている。
「ひーっ……! あはははっ!!」
「…………」
はちは、何度目か分からないため息を吐いた。
左腕の外側には、青白い魔力ディスクが展開されている。
召喚を維持したままのセレスティアも、近くで翼を動かしていた。
こちらは、いつ戦闘へ戻ってもいいように備えている。
けれど、目の前の相手だけが、まるで別の場所にいるようだった。
(……もう十分、笑ったでしょう)
そう言いかけて、はちは口を閉じた。
ここで何かを言えば、また別の話へ転がっていくかもしれない。
それがいまは、攻撃を受けるのとは違う意味で厄介だった。
アテナ。
フィナ。
ヘルカイザーが口にした二つの名前が、頭から離れない。
知っているだけでも驚きだったのに、その名前を思い浮かべて、あれほど笑う。
しかも、アテナに向けるように「珍し過ぎますねぇ」と言っていた。
あの反応には、何か理由があるはずだ。
ただ、名前を聞いたことがある相手を思い出しているだけには見えなかった。
だからといって、親しいのかと問われれば、そこまで分かるわけでもない。
(……本人たちに聞ければ、早いんですけどね)
残念ながら、いまこの場に二人はいない。
目の前にいるのは、二人の名前を言い当てた研究者だけだった。
それに、もう一つ。
「……くくっ……だいず……っ!」
また聞こえた言葉に、はちの眉がわずかに動く。
宮古島で聞き慣れた言葉だった。
意味を考えるより早く、耳が受け入れてしまう。前世の記憶と、目の前の白いドラゴンの姿が、どうしても結び付かなかった。
遠い世界で、故郷の言葉を聞く。
それだけなら、懐かしいと思えたかもしれない。
だが、それを口にしているのが、アルカディアを制圧しに来た人物なのだから、素直には喜べなかった。
(……どこで覚えたんだよ)
聞いてしまいたかった。
宮古島を知っているのか。
どうして、その言葉が出てくるのか。
けれど、聞いたら、こちらがそれを知っている理由まで尋ねられるだろう。
そう考えると、短い質問一つを口にするのもためらわれた。
こちらは、何をどこまで話していいのか迷っている。
あちらは、聞こえた言葉と表情を拾うだけで、次々と推理を進めてしまう。
その差を、さっきから嫌というほど思い知らされていた。
「……あははっ……はぁ……」
ようやく、笑い声の間に長い息が混じった。
はちは顔を上げた。
ヘルカイザーはお腹に添えた前脚を動かし、ゆっくりと空中で身体を起こした。傾いていた頭が戻り、ばらばらだった翼の動きが揃っていく。
まだ口元には笑みが残っていた。
それでも、先ほどまでのように転がることはなくなった。
「……ふぅ」
小さな白い胸が、ゆっくり上下する。
はちは、思わずその様子を見守ってしまった。
敵の呼吸が整うのを待つというのも、おかしな話だ。
だが、無理に割り込んで何かを言う気にはなれなかった。
このまま立ち直ってくれた方が、少なくとも会話にはなる。
……会話になればなったで、また困るのだが。
「ふふっ……」
「…………」
(……まだ笑うか)
ようやく静かになったと思ったのに、ヘルカイザーの喉から、もう一度だけ小さな笑いが漏れた。
はちが目を細めると、相手はそれに気付いたように、口元を収めた。
そして、黒い翼をゆったりと広げる。
右の前脚が胸元へ添えられた。
小さな身体が、丁寧に前へ傾く。
「……失礼しました」
先ほどまで転がり回っていたとは思えないほど、整ったお辞儀だった。
「少々、取り乱してしまいましたねぇ♪」
「…………」
はちの口元が、わずかに引きつった。
少々。
いま、この人は確かにそう言った。
(……あれで少々なら、本気で取り乱したらどうなるんですか)
空中で何度も向きを変え、こちらのことなど忘れたように笑っていた。
その姿と、いまの上品な仕草が、同じ相手のものだというのが不思議だった。
ヘルカイザーは、はちの返事を待っていた。
礼をした姿勢のままではない。もう顔を上げ、いつもの穏やかな笑顔に戻っている。
その切り替えの早さに、はちはますます調子を狂わされた。
「……いえ」
どうにか声を出す。
「お気になさらず……」
言ってから、少し後悔した。
気にならないわけがない。
むしろ、気になることばかりが増えている。
とはいえ、ほかにどう返せばよかったのかも分からなかった。
すると、ヘルカイザーは満足そうに目を細めた。
「ありがとうございます♪」
礼を言われるほどのことはしていない。
はちは、返事の代わりに小さく息を吐いた。
ようやく笑いが収まった。
これで少しは、こちらも頭の中を整理できるだろうか。
そんな期待は、次の一言であっさりと消えた。
「さて……はちさん♪」
両の前脚が、ゆっくりと背後へ回される。
「……はい?」
「それで……」
ヘルカイザーは首を傾げた。
「自分の回答は、当たりですかね?♪」
胸の奥が、どくりと鳴った。
◇ ◇ ◇
忘れていたわけではない。
ただ、あまりにも長く笑っているものだから、その話をいったん脇へ追いやっていただけだ。
……そう思いたかった。
けれど実際には、質問を投げられた瞬間、はちの頭の中は真っ白になった。
(……まだ、終わってなかった!)
当然だ。
ヘルカイザーは、答えを聞いていない。
『全世界の知識』というスキル。
転生者である可能性。
転生に関わった者として挙げられた、アテナとフィナの名前。
どれも、はちが自分から教えたことではなかった。
一つ推測され、返答に迷う。
その迷いを見て、また次へ進まれる。
そうして、気が付けば、会話はずいぶん深いところへ入り込んでいた。
笑っていたからといって、相手が忘れたわけではない。
こちらが困っていることも、おそらく分かっている。
いまも、小さな瞳が真っ直ぐ向けられていた。
「…………」
はちは唇を開きかけた。
否定する。
まず、その選択が頭に浮かんだ。
違います。
何の話か分かりません。
短い言葉なら、いくらでも思い付く。
けれど、それを口にした後が問題だった。
すでに、何度も反応を見られている。
ここで急に平然と否定しても、かえって不自然ではないだろうか。
そもそも、平然とできる自信がなかった。
(……顔に出すな、俺)
そう意識した途端、まばたきの回数まで気になってくる。
目をそらしてはいけない気がした。
見つめ続けるのも、不自然な気がした。
相手の言葉ではなく、自分の身体の動きばかりが気になる。
それが余計に、返事を遅らせた。
ヘルカイザーは急かさなかった。
「はい」とも「いいえ」とも言えずにいるはちを、静かに待っている。
その余裕が、いまは苦しかった。
大声で答えを迫られたなら、拒む言葉も見つかったかもしれない。
攻撃されたなら、防ぐことに意識を向けられた。
ところが、相手はただ聞いているだけなのだ。
こちらの沈黙を許したまま、何を考えているのか分からない笑顔で待っている。
(……正直に話すのも、まずいですよね)
ヘルカイザーの目的は変わっていない。
この世界へ来た理由も、これまで行ってきたことも、忘れるわけにはいかなかった。
そういう相手に、自分の秘密を素直に打ち明けるのはためらわれる。
はちだけの話なら、まだ自分で決められた。
しかし、アテナやフィナのことまで関わっている。
名前を知られているからといって、こちらが何でも話していい理由にはならない。
相手がどれほど知っているかも不明だ。
知っているように見せて、こちらの言葉で確かめようとしているのかもしれない。
逆に、こちらよりずっと多くを知っている可能性もあった。
どちらを考えても、簡単には答えられなかった。
「……えっと」
ようやく出たのは、意味を持たない声だった。
ヘルカイザーが、ほんの少しだけ首の角度を変える。
聞いていますよ、とでもいうような仕草だった。
はちは、その顔を見て、また言葉を失った。
「それは……」
続きが出てこない。
風が、銀紫色の髪を揺らした。
頬へかかった一房が気になったが、それを払う動きさえためらわれた。
何かをしていないと落ち着かない。
けれど、何をしても見られている気がする。
(……どう答えればいいんだよ)
心の中でつぶやいた声だけが、はっきりしていた。
『……はち』
静かな呼び掛けが届く。
ステラだった。
『大丈夫……?』
その短い問いに、はちは一瞬、力を抜きかけた。
返事を探さずに済む相手の声だった。
少なくとも、いま何に困っているかを隠す必要はない。
(……大丈夫じゃないです)
心の中で答える。
(どうしましょう、ステラ)
少しだけ、間があった。
『……私にも、分からない……』
(……ですよねぇ)
責める気にはなれなかった。
ステラもまた、先ほど聞かされた話を抱えたまま、この場にいる。
次元神の起源について知らされ、ようやく戦う気持ちをつなぎ直したばかりだった。
それでも、はちを心配して呼び掛けてくれたのだ。
分からないと言いながらも、声は途切れず、そばにあった。
はちは、小さく息を吸った。
一人で考えているときより、少しだけ胸の苦しさが薄れた。
だからといって、いい返事が思い付くわけではない。
目の前の質問は、そのまま残っていた。
セレスティアの白い姿が、視界の端に入る。
翼が動き、長い尾が空をなぞった。
あの力なら、巨大な魔力を放つことができる。
はちのゲートと組み合わせれば、正面から届かない一撃を別の場所へ送ることもできる。
実際、それでヘルカイザーの防壁を突破した。
だが、いま必要なのは砲撃ではなかった。
短い返事。
たったそれだけなのに、何も見つからない。
(……戦っている方が、まだ分かりやすいですよ)
そう思った。
もちろん、戦えば勝てるという意味ではない。
超再生を見せられた以上、そちらにも答えは出ていない。
それでも、攻撃を避けるのか、防ぐのか、次をどう狙うのか。
考える方向は決められた。
会話には、それが見つからない。
何を守ればいいのかは分かっている。
けれど、どう守ればいいのかが分からなかった。
沈黙が長くなる。
ヘルカイザーは、まだ笑っていた。
先ほどの大笑いとは違う。
柔らかく口元を緩め、こちらの様子を眺めている。
はちは、その笑みを見返したまま、何とか言葉をつなごうとした。
「……その……」
また、途中で止まる。
もう一度息を吸い直そうとした、そのときだった。
「……おやおや♪」
小さな声が、沈黙をほどいた。
◇ ◇ ◇
はちは、反射的に顔を上げた。
ヘルカイザーは、前脚を背後へ回したまま、少しだけ身体を傾けていた。
責めるような表情ではない。
何かを見つけて楽しむような、いつもの顔だった。
「はちさん♪」
「……はい」
声を出すまでに、一呼吸かかった。
次は何を聞かれるのだろう。
別の名前を挙げられるのだろうか。
それとも、もう答えが出たと言われるのか。
無意識に、肩へ力が入る。
ところが、返ってきた言葉は、予想と違っていた。
「言いたくなければ、言わなくても良いですよ♪」
「…………え?」
思わず、聞き返していた。
ヘルカイザーは、軽くうなずく。
「無理に答えていただく必要はありません♪」
はちは、相手の顔を見つめた。
聞き間違いではなかったらしい。
言わなくてもいい。
いま、確かにそう言った。
これまで、答えを見つけるためにあれほど楽しそうに推理していたのに。
転生者だというところまでたどり着き、関わった者の名前まで並べた。
最後の確認をすれば済むところで、あっさりと引いてしまう。
理解できなかった。
(……いいんですか?)
聞かなくて済むのなら、ありがたい。
だが、ありがたさより先に、戸惑いが来た。
はちは、何か条件が続くのではないかと思った。
答えなくていい代わりに、何かをする。
別の質問に答える。
そういう話が、あとから出てくるのかもしれない。
しかし、ヘルカイザーは何も付け加えなかった。
ただ、いつもの笑顔でこちらを見ている。
「……ですが」
はちは、おそるおそる声を出した。
せっかく答えなくていいと言われたのに、自分から話を戻すのもおかしい。
そう思っても、口が動いていた。
「質問の答えは……」
ヘルカイザーが、前脚を軽く持ち上げる。
「ふふっ♪」
小さな笑い声。
「今の沈黙で、確信が得られましたしねぇ♪」
はちの背筋が、ぴんと伸びた。
(……しまった)
相手を見つめたまま、口を閉じる。
そうだった。
言葉だけが、答えではない。
さっきから、ずっとそうだったではないか。
はちが迷っている間も、相手は見ていたのだ。
否定もできず、肯定もできず、言葉を探していた時間。
それを、何も進んでいない時間だと思っていたのは、こちらだけだった。
ヘルカイザーはその間にも、自分なりの結論を固めていた。
(……何も言ってないのに)
心の中で、情けない声が漏れた。
守れたと思いたかった秘密が、手の隙間からこぼれていくようだった。
もっとも、何もかも話したわけではない。
こちらが口にしていないことは、まだたくさんある。
相手の確信も、はちが言葉で認めた事実とは違うはずだ。
そう考え直しても、気持ちは晴れなかった。
少なくとも目の前の研究者は、もう困っていない。
答えを聞かなければ進めないような顔など、最初からしていなかった。
ヘルカイザーは、そんなはちを眺めながら続けた。
「それに……」
声が、少しだけゆっくりになる。
「はちさんにも、色々と事情があるのでしょう?」
「…………」
はちは、まばたきをした。
事情。
その言葉は、妙に静かに耳へ入ってきた。
秘密と呼ばれるよりも、近いところへ触れられた気がした。
誰にも言いたくないというだけではない。
自分でも、どう説明すればいいのか分からないことがある。
転生してから、いろいろなことが起きた。
話せる相手がいることと、誰にでも話せることは違う。
その区別を、いま、敵の方から示されていた。
「自分だって、答えたくないことの一つや二つはありますからねぇ♪」
ヘルカイザーの口調は、変わらなかった。
軽くて、穏やかで、どこか楽しそうだ。
だが、その言葉の先に、彼自身の事情は続かなかった。
何を答えたくないのか。
どんな秘密を持っているのか。
何一つ明かさず、それでいて、はちにも同じものがあることは認めていた。
「ですから……」
小さな翼が、静かに動く。
「無理に言わなくても大丈夫ですよ♪」
はちは、返事ができなかった。
さっきまでとは、別の理由だった。
何かを言えば見抜かれるという怖さだけではない。
この相手を、どう受け止めればいいのか分からなくなっていた。
こちらが困る様子を楽しんでいたのは、間違いないと思う。
沈黙で確信したと、隠すこともなく言っている。
それなのに、それ以上を聞き出そうとはしない。
答えに詰まったことを責めるでもなく、言葉にするまで待ち続けるでもない。
もういいですよと、彼の方から区切りをつけていた。
(……何なんだ、この人)
はちは、白い小さな身体を見つめ直した。
さっきまでの笑い声が、耳の奥に残っている。
アテナを思い浮かべ、「珍し過ぎますねぇ」と言っていた顔。
こちらの反応を拾い、次々と正解へ近付いていった顔。
さらに前には、防壁の向こうで微笑んでいた。
はちがやっと届かせた一撃さえ、超再生でなかったことにしてしまった。
どれも、同じ相手だ。
いま目の前で、無理に言わなくていいと告げているのも。
(……優しい、んですかね)
ふと浮かんだ考えを、はちはすぐに止めた。
それだけで判断してはいけない。
ヘルカイザーが、この世界で何をしてきたかは知っている。
人を怖がらせ、混乱を起こした。
その恐怖や苦しみから生まれるマイナスエネルギーを集めていた人物だ。
さっきの一言が気遣いに聞こえたからといって、その事実は変わらない。
ここで、もう大丈夫だと思ってしまうのは危険だった。
それでも。
言わなくていいと告げられたことで、息がしやすくなったのも事実だった。
無理に答えを作らなくて済む。
アテナやフィナについて、何をどこまで話せばいいか、いま決めずに済む。
その余地を渡されたことまで、否定する気にはなれなかった。
はちは、ゆっくりと視線を戻した。
ヘルカイザーは待っていた。
さっきとは違い、返答を求める問いはもうない。
ただ、はちが話を受け止めるまで、その場にいるようだった。
「……ありがとうございます」
小さく、頭を下げた。
何に対する礼なのか、自分でも言い切れない。
少なくとも、答えを強要しなかったことに対しては、そう言っておきたかった。
すると、ヘルカイザーは嬉しそうに微笑んだ。
「いえいえ♪」
そして、持ち上げていた前脚を背後へ戻す。
それだけだった。
条件は出なかった。
答えを改めて求められることもなかった。
はちはしばらく待ったが、会話は本当に、そこで途切れた。
◇ ◇ ◇
二人の間を、風が通り過ぎた。
銀紫色の髪が背中へ流れ、白いフード付きジャケットの裾が揺れる。
はちは、それでようやく、自分の肩へ入っていた力に気付いた。
少しずつ、息を吐く。
相手に何かを認めたわけではない。
だが、隠し通せたとも思えなかった。
それでも、いったん話は終わった。
少なくとも、いまはもう、答えを探して口を開く必要がない。
(……助かった、んですよね)
手放しで安心できないのが、何とも厄介だった。
ヘルカイザーは、変わらず目の前にいる。
距離が縮まったわけでも、離れたわけでもない。
近くに浮かぶセレスティアへ、はちは一度だけ視線を向けた。
白い竜は、こちらの会話を遮らずに待っていた。
青白い魔力ディスクも、消えることなく維持されている。
戦闘は、中断されているだけだ。
その事実を確かめてから、はちはもう一度、ヘルカイザーを見た。
相手の翼が、ゆっくり動いている。
落ち着き払った仕草だった。
……聞くなら、いまなのかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎった。
なぜ、アテナとフィナを知っているのか。
二人に会ったことがあるのか。
さっきの笑いには、どんな意味があるのか。
そして、宮古島。
聞きたいことは、ちっとも減っていない。
むしろ、こちらにも答えたくないことがあると言われたせいで、余計に気になった。
それは、どの話についてなのだろう。
いま聞こうとしていることも、その中に入っているのだろうか。
はちは、唇を開きかけた。
「……あの」
声になる前に、止めた。
もし宮古島について尋ねれば、こちらにとって特別な土地だと伝わってしまう。
ただ言葉の意味を知っているというだけではないことも、また見抜かれるかもしれない。
アテナやフィナのことを尋ねた場合も、同じだった。
相手が二人とどう関わっているのかを聞きたいのに、こちらが二人を知っていることを認めるような問いになってしまう。
聞き方を工夫すればいいのだろう。
だが、いまのはちには、それをうまくやる自信がなかった。
(……やめておこう)
胸の奥に残る疑問を、ひとまず押しとどめる。
このまま黙っていれば、何もかも分からないままだ。
それも分かっている。
けれど、答えを急いだ結果、自分の方がさらに多くを話してしまうのは避けたかった。
ここまでの会話で、十分に思い知っている。
相手は、何気ない反応まで見ている。
しかも、その観察をやめたという保証はない。
答えなくていいと言われたことと、もう見られていないことは違うのだ。
ヘルカイザーは、何も尋ねなかった。
はちが何かを言いかけたのかどうかも、確かめようとはしない。
その静けさが、本当に話を終えたのだと感じさせた。
分からないことは、分からないまま残っている。
はちは、それを抱えたまま息を整えた。
そのとき、白いドラゴンが軽く頭を動かした。
「さて……」
声が、青空へほどける。
「随分と脱線してしまいましたねぇ♪」
「…………」
はちは、思わず小さく笑ってしまった。
確かに、脱線だった。
戦いの最中に、次元神について話を聞いた。
その起源が、ステラの心を揺らした。
それから、能力を制御している理由を問われ、スキルの話になった。
気が付けば、転生の話にまで進んでいた。
そして、アテナとフィナの名前。
思いがけない、故郷の言葉。
最後には、目の前で大笑い。
最初の戦闘から、ずいぶん遠くまで連れてこられた気がした。
(……脱線というか、もう別の話でしたよ)
それでも、口にしたのは短い返事だった。
「……そうですね」
「ふふっ♪」
ヘルカイザーが、楽しそうにうなずく。
その背中で、黒い翼が広がった。
はちは、すぐに笑みを収めた。
何かの攻撃が始まったわけではない。
武器が現れたわけでもない。
ただ、翼を広げただけだ。
それでも、身体が先に反応していた。
先ほどまでの会話に向けていた意識が、目の前の距離と相手の動きへ戻ってくる。
足元に確かな地面のない、空中の戦場。
ここにいる理由を、ようやく思い出したような感覚だった。
◇ ◇ ◇
ヘルカイザーは、笑っていた。
先ほどのお辞儀のときとも、答えなくていいと告げたときとも、ほとんど変わらない笑顔だった。
だからこそ、はちは意識して警戒を戻した。
話が通じる。
礼も言う。
こちらの事情を気に留めることもある。
それらを一つずつ確かめても、戦う理由がなくなったわけではない。
相手は、アルカディアを制圧しようとしている。
はちは、それを止めるために向かい合っていた。
いままでの会話のどこにも、その目的を取り下げる言葉はなかった。
(……危ない、危ない)
自分へ言い聞かせる。
気が緩んでいたつもりはなかった。
だが、質問へ答えることばかり考えていた時間には、戦いのことが頭の奥へ押しやられていた。
しかも、笑い転げる姿を見せられたあとだ。
あまりにも普通に話してしまっていた。
はちは左腕を、わずかに動かした。
SIAは左手首に収まっている。
その外側に展開された青白い魔力ディスクには、召喚のためのカードがセットされたままだ。
指先で触れる必要はなかった。
そこにあると確かめるだけで、少し気持ちが落ち着いた。
セレスティアの召喚も続いている。
あの一撃は、確かにヘルカイザーへ届いた。
防壁を破る方法が、まったくないわけではない。
しかし、届かせたあとにどうするのか。
その先には、超再生が待っている。
はちは、ヘルカイザーの白い身体を見た。
先ほど受けた攻撃の痕跡は、もう見当たらない。
笑うことにも、翼を動かすことにも、不自由はなさそうだった。
あれをもう一度繰り返せば解決するとは、とても思えない。
だからといって、ここで手を止めるわけにもいかなかった。
何をすればいいか、まだ決まらない。
それでも、目の前の相手から意識を離していい理由にはならない。
はちは、息を深く吸った。
冷たい空気が、喉を通る。
さっきまで答えを探して詰まっていた胸が、少しずつ動きを取り戻した。
『……はち』
ステラの声が、再び届いた。
『……大丈夫?』
同じ問いだった。
けれど、今度はさっきよりも、落ち着いて聞けた。
はちは、小さくうなずく。
(……はい。何とか、落ち着きました)
『……よかった』
短い返事に、安堵が混じっていた。
その声を聞いて、はちは、すぐに次の言葉を続けるのをためらった。
ステラの方は、どうなのだろう。
先ほど知ったことが、わずかな時間で整理できるとは思えない。
ヘルカイザーに何を感じるのかも、はちが代わりに決められることではなかった。
ユニゾンしているからといって、すべてが同じになるわけではない。
いまも、ステラの声には、かすかな迷いがあった。
はちは、それを気のせいだと片付けなかった。
かといって、ここで無理に言葉へさせようとも思わなかった。
さっき、自分が答えられずにいたときのことを思い出す。
答えを見つけられないままでも、そばにいてくれた声。
いまは、それに返せることがあるはずだった。
(……ステラ)
静かに呼び掛ける。
(もう少しだけ、頑張りましょう)
強く言い切ることはしなかった。
大丈夫だと決めつけることも、気にするなと言うこともしない。
ただ、これからも一緒に戦ってほしいと伝えた。
返事を待つ間、はちはヘルカイザーから目を離さなかった。
白い小さな身体が、風の中に浮かんでいる。
その奥に何があるのか、やはり分からない。
次元神を生み出した研究者。
三十万年前の神界へ流れ着いたというデータ。
ステラを苦しめた出来事へ、遠くつながってしまう話。
聞いたことは消えない。
だが、いま考えるべきことを、一つずつ確かめることはできた。
ヘルカイザーが何をしようとしているのか。
ここで、その前に立っているのは誰なのか。
それだけは、会話の前から変わっていない。
少しの沈黙のあと、ステラの声がした。
『……うん』
小さな返事だった。
迷いが完全に消えた声ではない。
けれど、はちの呼び掛けへ、確かに返ってきた。
はちは、そっと息を吐いた。
それで十分だった。
いま、すべての答えを出さなくてもいい。
答えを出せないまま、二人で目の前の相手を見据えることもできる。
胸の奥へ沈めた疑問は、まだそこにあった。
アテナも、フィナも、宮古島も。
何一つ、説明されていない。
それでも、視線はもう迷わなかった。
◇ ◇ ◇
「さて、はちさん♪」
ヘルカイザーが、声を掛けた。
同じ呼び方。
同じ口調。
たったそれだけで、また質問が来るのかと身構えそうになる。
はちは、意識して肩の力を抜いた。
「……はい」
ヘルカイザーの小さな翼が、静かに空気を押した。
二人の間の距離は、ほとんど変わらない。
だが、向けられる注意のあり方が変わったのは、はちにも分かった。
こちらの返事を待つ瞳。
その前に浮かぶ、小さな白い身体。
笑い転げていたときには忘れそうになったが、この相手は、真正面からの攻撃を飲み込んでしまう。
ようやく届いた一撃も、受けたあとから元へ戻る。
何も考えずに飛び込んで、どうにかなる相手ではなかった。
ヘルカイザーは、にっこりと微笑んだ。
「続き、しますか?♪」
気軽な誘いだった。
途中で席を立った相手へ、話の続きでも促すような声。
あるいは、少し休んだ遊びを再開するときのような。
はちは、返事の前に長く息を吐いた。
(……本当に、この人は)
調子を崩される。
笑っているから、少し待つ。
質問されて、答えを探す。
もういいと言われて、意味を考える。
そうしている間にも、相手は自分の調子を保っている。
こちらばかりが、その切り替えについていこうとしていた。
だが、いま向けられた問いについては、迷う必要がなかった。
何もかも話していいのか。
何を知っていて、何を隠しているのか。
そういう問いとは違う。
続けるのか。
その答えは、ここへ来た理由にあった。
はちは、近くにいるセレスティアの気配を確かめた。
左腕には、展開された魔力ディスク。
内側には、ステラの声がある。
一人で考え込んでいたようで、ずっと一人ではなかった。
だからといって、勝ち方が見つかったわけではない。
超再生をどうするかという問題も、そのままだ。
それでも、いまは目の前を見る。
はちは、紫色の瞳を真っ直ぐに向けた。
「……はい」
声は、思っていたよりも落ち着いていた。
ヘルカイザーが、目を細める。
はちは続けた。
「……続けましょう」
「ふふっ♪」
嬉しそうな笑い声が返ってきた。
「良いですねぇ♪」
黒い翼が、もう一度大きく開かれる。
はちは、その動きを見逃さなかった。
もう、笑い声の意味を考えるために目を止めることはしない。
風が二人の間を吹き抜けた。
銀紫色の髪がなびく。
白い竜の翼が、空を支える。
左腕の外側では、青白い魔力ディスクが変わらず光っている。
先ほどまで話していたことが、なかったことになるわけではない。
はちの秘密を、ヘルカイザーは自分なりに見抜いた。
はちは、相手について新しい疑問をいくつも抱えた。
だが、それを確かめ合う時間は、ここでいったん終わる。
ヘルカイザーは、最後まで穏やかに微笑んでいた。
はちは、その顔を見つめ返した。
礼儀正しい仕草も、事情へ踏み込まない態度も、確かに見た。
そして、その同じ相手を止めなければならないことも、忘れていなかった。
互いの間に、短い静けさが落ちる。
次の一手は、まだ放たれていない。
中断されていた次元神同士の戦いが、いま再び、始まろうとしていた。
――第62話・了――




