第56話 ディメンションウォール
時系列:現在――アルカディア上空。いろはとレイがエクリプスとの戦いを再開した一方、はちはヘルカイザーとの交戦を続けていた。
ドォォォォンッ!
空中に膨れ上がった爆煙を、銀紫色の髪がかすめた。
「……くっ!」
はちは身をひねり、爆風から逃れる。
白いフード付きの上着が激しくはためいた。黒いスカートの裾を押さえる暇もなく、飛行の姿勢を整え、すぐさま相手の位置を確かめる。
小さな白い竜は、少し離れた空にいた。
黒い翼をゆったりと動かし、こちらを眺めている。
距離を取れたからといって、息をつけるわけではなかった。
あの前脚が動くか。
あるいは、近くの空間が揺らぐか。
そのどちらも見落とさないよう、はちは紫色の瞳を細めた。
(……強い)
認めたくなくても、認めるしかなかった。
だが、それだけでは、目の前の相手を言い表せない。
こちらの一撃をかわす間合い。
次元の裂け目を展開する場所。
反撃へ移るまでの、短い間。
一つずつは、見える。
何をしているのか、まったく理解できないわけではない。
それなのに、実際に向き合うと、わずかな判断の差を突かれてしまう。
攻撃が通ったと思えば、その先にもう相手がいない。
次の手を考えようとすれば、こちらの動きに合わせた反撃が来る。
同じように次元へ干渉できる力を持っていても、使い方まで同じになるわけではなかった。
(……こいつ、絶対に戦い慣れてる)
はちは奥歯を噛み締めた。
先ほどから、考えることばかり増えている。
距離。角度。転送の出入口。
相手の姿へ目を向けながら、その周囲の空間まで気にしなければならない。
ただ前を見て撃てばいい相手ではないことを、十分すぎるほど思い知らされていた。
「おやおや♪」
対して、ヘルカイザーの声には疲れがなかった。
「どうしました、はちさん?」
愛嬌のある顔で、にこにこと笑っている。
先ほどの爆発まで、ちょっとした余興だったと言いたげな表情だ。
「先ほどから、随分と考え込んでいらっしゃるようですが?」
「…………」
(そりゃ、考えるだろ!)
どうすれば、その笑顔を崩せるのか。
どうすれば、これ以上アルカディアへ手を出させずに済むのか。
こちらは、そのために必死なのだ。
軽口へ律儀に答える余裕などない。
はちは呼吸を整え、相手を見据えたまま構え直した。
その反応を眺めて、白い竜は小さく笑う。
「ふふっ♪ では、少し趣向を変えましょうか」
「……趣向?」
嫌な予感がした。
次の攻撃に備え、はちはすぐに視線を巡らせる。
だが、何かが飛来するより先に、相手の周囲で空間が揺れた。
――ぽちゃん。
音を伴う水面を思わせる、小さな波紋。
何もない空中へ、透明な円が生まれた。
一つ。
その隣に、もう一つ。
重なり合う輪が広がり、白い竜の輪郭を、かすかにゆがめていく。
はちは身構えた。
裂け目が開く。
そう思ったのだ。
しかし、見慣れた漆黒の口は現れなかった。
「……?」
波紋は消えず、その場へとどまった。
ゆらり、と揺らぐ空間が、薄い膜の形を取る。
向こう側の姿は透けて見えるのに、輪郭だけが、どこかずれている。
空そのものを一枚、切り取って立てたようだった。
魔法の障壁とは違う。
魔力の光が強く輝いているわけでも、厚みのある壁がそびえているわけでもない。
それでも、相手との間に、何かが隔てられたことだけは分かった。
「何ですか……それは」
「ディメンションウォール♪」
ヘルカイザーは、両の前脚を背後へ回した。
そのまま、透明な膜の向こうから、はちを見つめる。
「これを突破できますかねぇ?」
挑発するような言葉だった。
こちらへ武器を向けることさえせず、防御を見せつけている。
はちは、相手の前へ広がった膜を見た。
その奥には、小さな白い身体。
少なくとも、いまは、逃れるために移動する様子もない。
(……随分と余裕だな)
だったら、その余裕ごと崩してやりたい。
ただし、腹を立てた勢いだけで突っ込むつもりはなかった。
正体が分からない壁へ、いきなり自分の身体を近付けるわけにはいかない。
まずは、確かめる。
「セレスティア!」
呼び掛けに、白竜が応えた。
「グオオオオッ!」
大きな翼が広がる。
開かれた口元へ、青白い光が集まり始めた。
はちは、その光を横目に確かめ、再び壁へ意識を戻した。
セレスティアのブレスを、正面から受け止めるつもりなのか。
それとも、到達する直前に、別の手を使ってくるのか。
どちらであっても、見逃すわけにはいかない。
「――いってください!」
ドォォォォォッ!
青白い奔流が、空を貫いた。
真っすぐに、ヘルカイザーへ向かっていく。
眩しい光の縁が、はちの頬を照らした。
これまでにも幾度となく頼りにしてきた、セレスティアの一撃だ。
威力を疑っているわけではない。
だが、壁へ到達した、その瞬間。
ザァァァ……。
「……え?」
光が、横へ流れた。
正面を貫くはずだった奔流が、透明な膜に沿って向きを変えていく。
壁の表面には、幾重もの波紋が広がっていた。
押し寄せる光を受けながら、薄い膜が揺れる。
その揺らぎの向こうで、白い竜は動かなかった。
受け止めて、耐えている。
それだけの光景には見えない。
攻撃の流れそのものを、そらされている。
はちは目を見開いた。
どれほど光が押し寄せても、その先にいる相手へ届かない。
セレスティアの一撃は、膜を貫けないまま周囲へ流れ、やがて途切れた。
残されたのは、まだわずかに揺れている壁。
そして、その内側に浮かぶ、小さな白い姿だった。
「……効いてない?」
「なかなか良い威力ですねぇ♪」
感想まで、穏やかだった。
はちは、思わず眉を寄せた。
「ですが、ディメンションウォールを突破するには、少々足りませんねぇ」
「…………」
普通の魔力障壁なら、威力を高めることで押し切れるかもしれない。
しかし、いま目にした反応は、それとは違っていた。
光は、壁を押し込んでから止まったのではない。
相手へ届く前に、進む方向を変えられてしまったのだ。
もっと強い一撃を放てばいい。
そう簡単に決めてしまうことはできなかった。
(……厄介すぎるだろ)
はちは、左腕へ一瞬だけ目を落とした。
SIAの本体は、左手首へ固定されたまま。
腕の外側には、青白い魔力ディスクが展開している。
そこへセットしたカードが、いまもセレスティアの召喚を維持していた。
白竜は消えていない。
次の指示を待って、そばにいる。
手段がなくなったわけではないのだ。
効かなかった一撃の結果に、いつまでも気を取られてはいけない。
はちは、もう一度、透明な壁を見据えた。
ブレスがぶつかった場所には、まだ波紋が残っている。
大きな輪が薄れ、その上を、小さな揺れが追い掛けていた。
ただ、眺めるのではなく。
先ほど、何が起きたのかを確かめようとする。
正面の膜。
流されていった光。
重なり合った、いくつもの輪。
その、一部分で。
(……ん?)
はちの視線が止まった。
壁の中に、妙な場所があった。
周囲とは、わずかに違う。
同じように揺れているはずなのに、その小さな部分だけ、膜が続いていないように見える。
はちは瞬きを抑え、目を凝らした。
見失いそうなほど、小さい。
しかも、大きさが変わっていた。
波紋が重なるたびに、広がったかと思えば、また縮む。
(穴……なのか?)
そう思ってから、すぐに、結論を急ぐなと自分へ言い聞かせた。
向こう側が透けて見える壁なのだ。
空間のゆがみが、偶然、そう見えているだけかもしれない。
防御に隙があると思い込み、そこへすべてを賭けるには、まだ早かった。
けれど、見なかったことにはできない。
少なくとも、壁全体が、まったく同じ状態を保っているわけではなさそうだった。
確かめる必要がある。
はちは、小さく息を吸った。
「……セレスティア。もう一度、お願いします」
白竜が、ヘルカイザーへ顔を向けた。
再び、口元へ光が集まっていく。
その様子に、壁の内側から声が飛んだ。
「おやおや。また同じ攻撃ですか?」
ヘルカイザーが、首を傾げている。
一度では納得できなかったのかと、からかうような口調だった。
はちは、答えなかった。
いまは、目を離せない。
相手の表情よりも、あの小さな部分を見ていたかった。
(そう思うなら、そのまま思っていてくれ)
同じ攻撃を繰り返す。
確かに、そのとおりだ。
だが、こちらが、何を見ようとしているのかまで伝える必要はない。
「いきます!」
ドォォォォンッ!
セレスティアのブレスが、再び壁へ叩き付けられた。
白い竜は、避けなかった。
前脚を背後へ回したまま、同じ場所に浮かんでいる。
ザァァァァッ!
またしても、光の流れが変わる。
正面へ届くはずだった力が、膜の表面へ沿って広がっていった。
壁には、いくつもの波紋が走る。
はちは、その中の一点だけを見ていた。
輪と輪が重なる。
薄い膜が、大きく揺れる。
そして――。
(見えた!)
小さな穴が、一瞬、広がった。
ただ光がゆがんだのではない。
揺れる膜が重なって戻る、その短い間。
そこだけ、壁がない。
次の瞬間には、また小さくなっていた。
見逃してもおかしくないほどの変化だった。
けれど、最初からそこを見続けていた、はちには分かった。
同じ現象が、起きた。
ブレスが終わる。
波紋が、少しずつ小さくなっていく。
ヘルカイザーの身体には、相変わらず傷がなかった。
それでも、はちは、先ほどと同じ気持ちではなかった。
(……穴がある)
防御全体を壊す必要はないのかもしれない。
その一瞬を突いて、内側へ攻撃を通せれば。
ただ、気付いたからといって、すぐ当てられるわけではない。
相手は、こちらが近付くまで黙って待ってくれるとは限らない。
小さな穴の前へ回り込み、狙いを定める。
そんな分かりやすい動きをすれば、警戒されるだろう。
それに、穴が広がる時間は短かった。
離れた場所から撃てば、到達したときには、もう閉じかけているかもしれない。
必要なのは、位置と、タイミング。
そして、こちらの本命を、できるだけ遅くまで悟らせないことだった。
はちは、白い竜へ視線を戻した。
相変わらず、にこにこと笑っている。
その前へ、正面から同じ攻撃を重ねるだけでは駄目だ。
もう一段、仕掛ける。
使えるものは、すでにある。
セレスティアのブレス。
自分の魔力弾。
そして、離れた場所へ攻撃の出口を置ける、ディメンションゲート。
はちは、頭の中で、その順番を組み立てた。
一つだけを成功させればいいのではない。
どこから撃ち、いつ通し、何につなげるのか。
その流れを、相手の目の前で実行する必要があった。
慎重になりすぎて、好機を失うわけにもいかない。
はちは、短く息を吐いた。
(……よし)
◇ ◇ ◇
「ヘルカイザーさん!」
声を掛けると、白い竜が顔を向けた。
「はい♪ 何でしょう?」
「その壁……本当に、絶対に破れないんですか?」
はちは、透明な膜を示した。
見つけた場所へ視線が寄りすぎないよう、相手の顔を見る。
ヘルカイザーは、小さく首を傾げた。
「さあ、どうでしょうねぇ♪」
肯定もしない。
否定もしない。
「試してみれば、分かるのではありませんか?」
「……そうですね」
はちは、静かに頷いた。
「では、試させてもらいます!」
周囲の空間へ、意識を向ける。
――ぽちゃん。
空中へ、波紋が生まれた。
中心がゆがみ、次元の裂け目へと変わる。
一つ。
二つ。
三つ。
ヘルカイザーの周囲へ、出入口が展開されていく。
正面だけではなく、横にも、斜めにも。
透明な壁を囲むように、その位置を定めた。
「……ほう?」
ヘルカイザーが、興味深そうに目を細めた。
「また、先ほどの技ですか?」
次元の裂け目による包囲。
確かに、初めて見せるものではない。
だからこそ、相手は、すでに知っている攻撃の一つとして受け止めるかもしれなかった。
はちは、余計な説明を加えなかった。
同じことをしていると思わせられるなら、その方がいい。
「いきます!」
黒い魔力弾を放つ。
光は、手前の裂け目へ吸い込まれた。
シュンッ!
次の瞬間、別の場所から飛び出す。
続けて、もう一発。
さらに、違う角度からも。
ババババッ!
幾つもの黒い光が、白い竜へ殺到した。
しかし、ヘルカイザーは、動かない。
前へも、後ろへも。
薄い膜の内側に、とどまっている。
キィンッ!
魔力弾が、壁へぶつかった。
そこを中心に、透明な輪が広がる。
別の一発も、その隣で弾かれた。
ドドドドッ!
衝突するたびに、表面が揺れる。
だが、どの弾も内側へ届かなかった。
角度を変えても、壁の向こうにいる相手へ通らない。
「ふふっ♪ この程度では……」
余裕の声が聞こえた。
(ええ。それは、分かってますよ)
はちは、攻撃を続けながら、膜の揺れを見ていた。
いま放っている魔力弾だけで、突破できるとは考えていない。
違う角度から飛来する攻撃へ、相手の意識を向ける。
その中へ、必要な出口を紛れ込ませる。
幾つもの裂け目のうち、一つ。
それだけは、小さな穴が広がる場所の、すぐ手前に置いてあった。
まだ、そこから本命を撃たない。
早まれば、ただ壁へぶつかるだけだ。
はちは、そばにいる白竜へ意識を向けた。
セレスティアは、口元へ光を集めていた。
青白い輝きが、次第に強くなっていく。
魔力弾によって生まれた、小さな波紋。
それだけでは、狙う隙間が十分に広がらない。
先ほどと同じ、大きな揺れを起こす必要があった。
「セレスティア!」
「グオオオオッ!」
はちは、その瞬間を選んだ。
「――今です!」
ドォォォォンッ!
白竜のブレスが、ディメンションウォールへ押し寄せた。
黒い魔力弾とは違う、太い光の奔流。
正面へ、まともに叩き付ける。
ザァァァァッ!
光が、壁に沿って流れた。
幾重もの波紋が広がり、それまでの小さな揺れへ重なっていく。
「おやおや。また同じことを……」
白い竜が、笑っている。
先ほども防いだ一撃だ。
どれだけ繰り返しても同じだと、そう思っているのかもしれない。
はちは、答えなかった。
呼吸を浅くして、目を凝らす。
波紋が、走った。
揺らいだ膜の一部が、わずかに開く。
ここだ。
(――今!)
黒い魔力弾を、一発。
すでに展開してある裂け目へ向けて、放った。
シュンッ!
手前の空間へ吸い込まれた光が、離れた出口から飛び出す。
そこは、壁のすぐ近く。
小さな穴の、真正面だった。
遠くから狙っていたら、間に合わない。
だから、出口を近付けておいた。
届くまでの距離を、できるだけ短くするために。
「……おや?」
ヘルカイザーの目が、わずかに開いた。
気付かれた。
はちは、そう感じた。
それでも、もう撃っている。
魔力弾は、出口から穴へ向かって、真っすぐに進んでいた。
通れ。
いまだけでいい。
黒い光が、揺れる膜の切れ目へ飛び込んだ。
――シュバッ!
「……っ!」
弾かれなかった。
横へ流されもしなかった。
ディメンションウォールの、内側へ。
はちの放った魔力弾が、入り込んだ。
ドォンッ!
小さな白い身体へ、黒い光が直撃する。
ヘルカイザーの姿勢が、大きく揺れた。
背後へ回していた前脚が動き、翼の向きが変わる。
それと同時に、透明な膜の表面へ、大きなゆがみが走った。
(……崩れた!)
喜ぶのは、まだ早い。
はちは、唇を引き結んだ。
壁へ一発を通せたことだけで、終わらせるつもりはなかった。
あの防御が、整い直す前に。
「セレスティア!」
声へ、白竜が応える。
その口元には、すでに、次の光が集まっていた。
黒い魔力弾を通して終わりではない。
内側へ衝撃を与え、壁を乱す。
そこへ、もう一度、大きな一撃を重ねる。
はちは、相手から目を離さなかった。
「今です!」
ドォォォォォォッ!
青白い奔流が、空を走った。
今度は、揺らいだ壁の隙間へ。
先ほどまで光をそらし続けていた膜を抜け、その内側へ突き進む。
ヘルカイザーが、こちらを向いた。
しかし、今度は、間に合わなかった。
――ドガァァァァァンッ!
凄まじい閃光が、白い竜の姿を包み込んだ。
爆発が膨れ上がる。
続けて押し寄せた衝撃が、空気ごと、はちの身体を押した。
「……っ!」
はちは、咄嗟に身体をかばい、距離を取った。
セレスティアも、大きく翼を広げて後退する。
轟音が、遅れて耳を打った。
視界には、眩しい光の名残が焼き付いている。
それでも、はちは顔を背けきらなかった。
爆煙の中心があった場所を、見失わないようにする。
あそこに、相手がいた。
黒い魔力弾は、確かに内側へ通った。
それによって壁が乱れ、セレスティアのブレスも届いた。
作戦は、実行できた。
だが、爆発したというだけでは足りない。
先ほども、攻撃が相手へ届いたように見えて、違っていたことがある。
煙に隠れた姿を見ないまま、勝ったと決め付けるわけにはいかなかった。
(……どうだ?)
はちは、息を整えながら待った。
爆煙が、ゆっくりと流れていく。
まだ見えない中心へ、視線を据える。
左腕の魔力ディスクは、展開したままだ。
セレスティアも、隣にいる。
相手が何かを仕掛けてきても、動けるようにしておかなければならない。
やがて、薄れた煙の向こうに、白いものが見えた。
「…………」
はちは、目を見開いた。
ヘルカイザーの身体が、大きく損なわれていた。
小さな白い姿の、片側。
その一部が失われ、片方の黒い翼も、ほとんど形を残していない。
薄い煙が、その輪郭から立ち上っていた。
壁の向こうで、前脚を背後へ回し、笑っていた姿ではなかった。
攻撃が届いたことは、もう、疑いようがない。
「……やった……?」
はちの口から、小さな声が漏れた。
喜びより先に、驚きがあった。
見つけた穴を通し、そこから、さらに一撃を重ねた。
その結果が、いま、目の前にある。
けれど、構えは解かなかった。
あの姿になっても、まだ、空中にいる。
こちらが気付いていない何かを、持っているかもしれない。
安心していいのか。
もう止められたと考えていいのか。
その答えを見つけるより早く、声が聞こえた。
「……おやおや」
「……っ!?」
はちは、肩を強張らせた。
損なわれた身体のまま、ヘルカイザーがこちらを見ている。
そして、その声は。
悲鳴でも、うめき声でもなかった。
「これは……驚きましたねぇ♪」
感心したような、穏やかな声だった。
はちは、言葉を失った。
思っていた反応と、違いすぎる。
少なくとも、あの状態で、そんな調子の声が返ってくるとは考えていなかった。
「まさか、ディメンションウォールの穴を突いてくるとは……」
白い竜が、ゆっくりと頷く。
「なかなか良い作戦でしたよ、はちさん♪」
褒められている。
そのこと自体が、ひどく場違いに感じられた。
壁の隙間を突かれたことよりも、その手順を面白がっているように聞こえる。
(……何なんだよ)
はちは、思わず身構え直した。
当たったはずだ。
実際に、相手の身体は、あれほど損なわれている。
それなのに、なぜ、まだ、こちらを評していられるのか。
ヘルカイザーが、小さく笑った。
「ですが……残念でしたねぇ♪」
その直後だった。
――ポンッ♪
「…………は?」
間の抜けた声が、はちの口から漏れた。
元に戻っていた。
たった、いま。
ほんの一瞬前まで、大きく損なわれていた白い身体が。
形を失っていた黒い翼も、その輪郭も。
すべて、何事もなかったかのように、そこにある。
はちは、瞬きをした。
もう一度、相手を見る。
傷がない。
薄い煙も消えている。
目の前に浮かんでいるのは、先ほどまでと同じ、小さな白い竜だった。
黒い翼が、軽く羽ばたく。
二つとも、そろっている。
「……え?」
見間違いではない。
傷ついた身体を、確かに見た。
攻撃が通った瞬間も、爆煙が晴れたあとの姿も。
それが、いまは、どこにも残っていなかった。
「ふふっ♪」
ヘルカイザーが、にっこりと微笑んだ。
「超再生ですよ♪」
「……超、再生……?」
はちは、その言葉を繰り返した。
意味は分かる。
目の前で起きたことも、その言葉で説明できるのだろう。
だが、理解したからといって、すぐ受け入れられるわけではなかった。
(いやいやいや……!)
何だ、それは。
あれだけの攻撃を受けて。
身体の一部まで失われていたのに。
それを、あんな軽い音ひとつで、元に戻すのか。
回復するまでの隙を突こうにも、いま見た速さでは、その隙を捉えられていない。
治り始めたと気付くより先に、すでに終わってしまっていた。
ヘルカイザーは、両の前脚を背後へ回した。
壊れた壁のことなど気にしていないかのように、こちらを見つめる。
「なかなか楽しませていただきましたよ、はちさん♪」
「…………っ!」
はちは、歯を食いしばった。
冗談ではない。
適当に撃って、たまたま当たったわけではなかった。
防御を見て、変化を確かめ、同じ攻撃を重ねて穴を見つけた。
複数の出口を用意し、本命を紛れ込ませた。
セレスティアの力も借りて、ようやく、壁の内側へ届かせたのだ。
その工夫が、間違っていたわけではない。
作戦は、成功した。
防御を突破し、相手へ一撃を加えられた。
なのに、相手は、元の姿で笑っている。
攻撃が届かなかったときとは、違う重さが、胸へ落ちた。
隙を見つければ、倒せる。
そう思いかけた、その先に、もう一つの壁があった。
(……超再生)
あの力があるかぎり、同じことを繰り返しても、終わらないかもしれない。
一度は通せた手段を、次も同じように使えるとは限らないのだ。
穴を狙ったことまで、すでに知られている。
こちらが知ったこともある。
相手へ、攻撃が絶対に届かないわけではなかった。
ディメンションウォールには隙があり、そこを突くことはできた。
それは、確かだ。
いまの結果を見て、その事実まで失ったことにしてはいけない。
だが、届くことと、倒せることは、別だった。
はちは、相手の顔を見た。
焦りは、ない。
怒りさえ、見えない。
身体を損なわれたことを、もう済んだ出来事として扱っている。
力の大きさだけでなく、その受け止め方も、普通ではなかった。
(……どうすれば、倒せる?)
考えても、すぐには答えが出てこない。
いま見た再生が、何に支えられているのか。
どこまで続けられるのか。
こちらには、まだ分かっていなかった。
分からないことを、都合のいい推測で埋めるわけにはいかない。
次は治らないかもしれない。
もう一発なら、何とかなるかもしれない。
そう願って撃つだけでは、また、同じ笑顔を見ることになりかねなかった。
「……おや?」
ヘルカイザーが、小さく首を傾げる。
「どうしました、はちさん。もう終わりですか?」
はちは、顔を上げた。
終わり。
その言葉を、ここで受け入れるつもりはない。
いろは達も、戦っている。
街で起きたことも、相手が口にした制圧の目的も、なくなってはいない。
目の前の一人を止める必要があることは、先ほどまでと同じだった。
「……まだです」
短く、答えた。
左腕のSIAを確かめる。
青白い魔力ディスクは、いまも展開されている。
そばでは、セレスティアが次の指示を待っていた。
まだ、戦える。
はち自身も、白竜も、ここにいる。
打てる手が、すべてなくなったわけではない。
ただし、同じやり方の繰り返しでは駄目だ。
防御を抜くだけで終わらないのなら、その先まで考える必要がある。
はちは、ゆっくりと息を吐いた。
乱れた気持ちを、呼吸と一緒に整えていく。
驚いたままでは、次へ移れない。
腹を立てたまま力任せに撃てば、相手が望むとおりになってしまうかもしれない。
目の前で起きたことを、覚えておく。
壁の穴。
通った魔力弾。
直撃したブレス。
そして、一瞬で元に戻った身体。
どれも、同じ相手が見せたものだ。
(……本当に、厄介な相手だな)
はちは、紫色の瞳で、白い竜を見据えた。
ヘルカイザーは、そんな様子を見て、楽しそうに笑っていた。
「ふふっ♪」
その顔から、余裕の笑みが消えることはなかった。
――第56話・了――




