第54話 小さな幸せ
時系列:過去回想――ガルデローベ社での新生活。ある日の夕方、仕事と訓練を終えたあと。
休憩室へ向かいながら、私は、その日の訓練を思い返していました。
レティシアさんからは、新しい魔力制御の方法を教えていただきました。
知っているつもりの魔法にも、まだ、自分が意識していなかった部分があります。
説明を受け、確かめ、扱ってみる。
その中で得た感覚を忘れないよう、歩きながら、もう一度、たどっていました。
少々、疲れましたね。
仕事も、訓練も終えた身体には、その日の分の重さが残っています。
けれど、ただ消耗しただけの一日ではありませんでした。
できなかったことや、教えられたことを思い返すと、その疲れにも、過ごしてきた時間があるように感じられたのです。
リュミナは、相変わらず元気でした。
悔しがるときも、喜ぶときも、その気持ちが、声へよく表れます。
王も、少しずつ、連携を意識して戦うようになっています。
三人で同じ相手へ向かうとき、二人の動きを考えることが、以前より自然になりました。
そして、ヘルカイザーさんは。
……まあ、相変わらずですね。
私達の変化を認めたあとで、さらに難しくしようと、にこやかにおっしゃる方です。
いまでも、簡単に攻撃を当てられる相手ではありません。
ですが、あの方の声へ、ただ圧倒されるばかりの時間でもなくなってきました。
届かなかった理由を考えることも、次へ何をつなぐかを考えることも、少しずつ、私達の中に増えています。
充実した一日でした。
そう思いながら、私は、休憩室の扉を開きました。
「……おや?」
中へ目を向けたところで、思わず、声が漏れました。
ソファに、ヘルカイザーさんが座っていました。
そして、その隣に、ミリアさんがいます。
いえ、ただ並んで座っているのではありませんでした。
彼女は、彼へ寄り掛かっていたのです。
すぅ、と、静かな寝息が聞こえました。
眠っていらっしゃるのですね。
それが分かると、自然に、こちらの動きも小さくなりました。
扉を開ける前には、誰かが眠っているとは思っていませんでしたから。
私は、部屋の様子を確かめながら、声を落としました。
「……ヘルカイザーさん?」
彼が、こちらへ視線を向けました。
小さな白い身体は、動かないままでした。
黒い翼も、背中へ静かに畳まれています。
「……おや、セリシアさん」
返ってきた声も、いつもより小さなものでした。
「お仕事は、終わりましたか?」
「はい。先ほど、終わりました」
私は、静かに頷きました。
訓練所で交わす声とは違う、短いやり取りです。
すぐ隣で聞こえる寝息を乱さないように、こちらも言葉を選ぶより先に、音を控えていました。
「それは、お疲れ様でした♪」
ヘルカイザーさんが、小さく微笑みました。
そのあと、隣で眠るミリアさんへ、目を向けます。
「どうやら、少々、遊び疲れてしまったようですねぇ」
「……そのようですね」
私も、彼女を見つめました。
穏やかな寝顔でした。
何かを心配しているような、険しいところはありません。
ヘルカイザーさんへ、ためらいなく身体を預けています。
眠っているのですから、相手の動きを見て、どう対応するかを考えているわけでもないのでしょう。
彼は、その隣で、静かに座っています。
寄り掛かられた身体を動かさず、起こさないように声を落として、私へ返事をしている。
何か大きなことが起きているわけではありませんでした。
それでも、私は、その光景から、すぐに目を離せませんでした。
中庭で遊ぶ二人を見たことはあります。
追い掛ける声と、楽しそうな笑い声。
その明るさを、私は、すでに知っていました。
ですが、遊んだあとには、こういう時間もあるのですね。
疲れて、眠る。
そのそばで、相手は、動かずにいる。
私は、ミリアさんの寝息へ耳を傾けました。
小さく、規則的な音です。
大きな笑い声がなくても、ここで穏やかに過ごしていることは、伝わってきました。
不思議ですね。
そう、感じました。
かつて、私達が求めていたものは、破壊と混沌に満ちた闇でした。
そこへ帰ることが、魂の渇きを潤すと考えていたのです。
なぜ求めるのかを、一つずつ問い直すこともなく、それが自分達の進む先なのだと信じていました。
そして、この方に、本当の闇を見せられました。
何も、見えない。
周囲の音も、自分の身体の感覚も、確かめられない。
その中で、絶望や恨みだけが、絶えず、内側へ流れ込んでくる。
あそこに、安らぎはありませんでした。
あの時間を思い出せば、いまでも、そう思います。
私は耐えられず、助けを求めました。
戻った訓練所で二人の顔を見られたときのことも、覚えています。
ですが、いま、目の前にあるものは、どうでしょう。
静かな休憩室。
ソファで眠る、ミリアさん。
その隣にいる、ヘルカイザーさん。
聞こえるのは、穏やかな寝息と、小さく抑えた会話です。
何も見えないわけではありません。
誰かの苦しみだけが押し寄せてくるのでもない。
窓から差す光の中に、二人の姿が、確かに見えていました。
同じ方が、そこにいます。
闇を見せた方が、眠る相手を起こさないよう、座っています。
そのことを、私は、何度か、頭の中で確かめていました。
何をもって安らかだと言うのか。
言葉だけを考えていたときには、分からなかったことが、あるのでしょう。
少なくとも、いま、この部屋へ入ってきた私は、ここから離れたいとは思いませんでした。
小さな寝息が続く、そのそばで、もう少し、過ごしていたかったのです。
目の前の穏やかさを見ているうちに、もう一つ、聞きたいことが浮かびました。
再生されたばかりの頃にも、尋ねたことはあります。
ですが、ここで過ごす時間が増えるにつれ、その問いの中身も、少し変わっていました。
「……ヘルカイザーさん」
「……はい?」
「一つ、よろしいでしょうか?」
「もちろんですよ♪」
彼は、静かな声で答えました。
私は、言葉を選びました。
ミリアさんを起こさないようにというだけでは、ありません。
自分が何を聞きたいのか、きちんと伝えたかったのです。
「なぜ……私達に、ここまでしてくださるのですか?」
彼が、少しだけ首を傾げました。
「……と、言いますと?」
私は、顔を上げ、説明を続けました。
「私達は、もともと、闇の欠片でした。あの戦いで、消滅したはずの存在です」
彼が知らないことを伝えているのではありません。
私達自身よりも、彼の方が、消えたあとの経緯を知っていました。
それでも、そこから話さなければ、いまの問いを、うまく形にできない気がしました。
「あなたは、私達へ、新しい身体を与えてくださいました」
私は、自分の手へ、少しだけ目を落としました。
光となって消えたはずの身体で、いま、ここにいます。
仕事をし、魔法を扱い、歩いて休憩室へ来た。
それができること自体、彼が与えた仕組みから始まっているのです。
「仕事を与え、魔法を学ぶ機会まで、用意してくださいました」
身体を得ただけで、話は終わっていませんでした。
働く場所があり、教えてくださる方がいる。
自分達を試す相手もいます。
どう強くなるかを知らなかった私に、考え、学び、動ける時間が、与えられていました。
私は、彼へ視線を戻しました。
「……なぜですか?」
ヘルカイザーさんは、少しだけ考える仕草をしました。
私は、返事を待ちます。
知っている言葉が返ってくるかもしれません。
まだ聞いていない理由があるのかもしれない。
どちらだと決め付けず、彼が口を開くのを待ちました。
「以前も、言ったでしょう?」
穏やかな声でした。
「あなた達の願いを、叶えただけですよ♪」
願い。
その言葉を聞き、私は、カプセルの中での会話を思い出しました。
身体が欲しい。
もう一度、あの白い魔導師と戦いたい。
彼は、私達が、そう願っていたのだと教えてくれたのです。
確かに、それは、私の願いでした。
消える前、あの少女へ向かって、伝えた言葉があります。
次にまみえることがあれば、砕け得ぬ力を手にして、あなたと戦いたい。
次があるかさえ分からないまま、そう言いました。
その続きを考えられる身体を、彼は与えました。
だから、願いを叶えただけだという返事には、筋が通っています。
何も違わないのかもしれません。
それでも、いま尋ねた私には、もう少し、知りたくなるところがありました。
「……それだけ、なのですか?」
思わず、問い返していました。
自分の聞きたいことを、まだ、言い切れていないのでしょうか。
身体を作り、働くよう勧め、教わる場を用意する。
その一つ一つを、ここで実際に過ごして知ったからこそ、簡単な一言では、受け取り切れないように感じていたのです。
彼は、にっこりと微笑みました。
「ふふっ♪ 強くなりたいのでしょう?」
「……はい」
そこへは、迷わず答えられました。
強くなりたい。
その気持ちは、変わっていません。
白い魔導師へ、もう一度、向き合いたい。
いま得た身体で、今度こそ、届くものを手にしたい。
「なら、頑張ればよいだけですよ♪」
返事は、やはり、簡潔でした。
何か隠れていた答えを、詳しく聞かされたわけではありません。
けれど、こちらへ向けられた言葉を聞いていると、いま自分にできることまで、分からなくなる必要はないのだと思えました。
願いがある。
学ぶ機会も、あります。
それなら、取り組む。
答えのすべてを先に知らなくても、今日の訓練で、直せたことはありました。
仲間と動き、以前よりつながるものができたことも、確かです。
私は、小さく頷きかけました。
その前に、ヘルカイザーさんが、付け加えます。
「ただし、仕事は、ちゃんとしていただきますがねぇ♪」
「……ふふっ」
思わず、笑ってしまいました。
声が大きくならないように気を付けながら、それでも、口元は緩んでいます。
なるほど。
そういう方でしたね。
強くなるために頑張る。
ただし、仕事も、きちんとする。
こちらの願いについて話していたところへ、働く側としての務めが、しっかり戻ってきました。
その言い方が、何とも、この方らしく聞こえたのです。
魔法を学ぶことばかりに気を取られ、引き受けた仕事を疎かにしてよいわけではありません。
私も、そのつもりはありませんでした。
だから、そこへ、きちんと返事をします。
「承知しました。これからも、精一杯、努めさせていただきます」
「それは、頼もしいですねぇ♪」
彼が、微笑みました。
私は、その返事を聞きながら、今日の仕事を思い返していました。
終えたことがあり、教わったことがある。
次に向けて、頑張ろうと思えることもある。
目覚めたばかりの頃には、そんなふうに一日を振り返る自分がいるとは、考えていませんでした。
「……ん……」
小さな声がしました。
ミリアさんが、わずかに身じろぎをしたのです。
私は、そちらを見ました。
起こしてしまったのでしょうか。
声を抑えていたつもりでも、会話が長くなったからかもしれません。
「ヘル……」
ヘルカイザーさんも、彼女へ顔を向けました。
「……おや? どうしました?」
「……まだ……遊ぼ……」
瞼は、閉じられたままでした。
どうやら、寝言のようですね。
私は、そっと、口元を緩めました。
遊び疲れて眠っても、まだ、遊びたいのでしょうか。
何を夢に見ているのかは、分かりません。
ですが、いま眠りながら呼んだ名前と、そのあとの言葉が、この日の楽しさを、そのまま残しているように聞こえました。
ヘルカイザーさんも、小さく笑いました。
「ふふっ♪ ええ。また、遊びましょうね♪」
起こさないように、静かな声でした。
返事を聞き取ったかどうかは、分かりません。
ミリアさんは、また、すぅ、と寝息を立て、そのまま眠り続けました。
それだけのやり取りです。
大きく呼び掛けることも、返事を確かめることも、ありませんでした。
ですが、私は、その短い会話を、しばらく覚えていたいと思いました。
夢の中の誘いへ、また遊ぼうと答える。
そういう返事の仕方も、あるのですね。
ミリアさんは、幸せそうでした。
そう感じることに、難しい説明は要りませんでした。
寝顔と、寝息と、小さな寝言。
そのどれもが、見ているこちらの気持ちまで、静かにしてくれるようでした。
◇ ◇ ◇
そのあと、休憩室の扉が開きました。
「セリシアー!」
「……はい?」
リュミナが、顔を覗かせます。
声は、いつもの明るさでした。
仕事と訓練を終えた私が、少し疲れたと思っていた同じ夕方です。
彼女には、まだ、あれだけの元気が残っているようでした。
「何してるのー?」
その後ろから、ヴェルシアも姿を現しました。
「まったく。探したぞ、セリシア」
「……すみません」
私は、小さく頭を下げました。
探していたのですね。
部屋へ来て、会話をしているうちに、思っていたより時間が過ぎたのかもしれません。
私は、二人へ目を向けてから、ソファの方を確かめました。
先に、リュミナの視線が、そちらへ動きます。
「あっ! ミリア、寝てる!」
見たことが、そのまま声になっていました。
驚いたのは、分かります。
私も、部屋へ入ったとき、思わず声を出しましたから。
ですが、寝ていると分かったのでしたら、声の方も、少し、合わせていただきたいところです。
「……静かにしてください、リュミナ」
「……あっ」
彼女が、慌てて口元を押さえました。
自分の声の大きさへ、ようやく気付いたのでしょう。
大きくなりかけた言葉を、自分の手で止めるような仕草で




