第52話 ヘルとミリア
時系列:過去回想――ガルデローベ社での新生活。研究所の休憩時間。
「待て待てー♪」
「きゃはははっ!」
中庭に、楽しそうな声が響いていました。
研究所の休憩時間です。
私は、そこで、少し不思議な光景を目にしていました。
小さな白いドラゴンが、ミリアさんを追い掛けているのです。
もちろん、ヘルカイザーさんでした。
白い身体に、黒い翼。
見間違えるはずもありません。
それでも、名前を知っていることと、目の前の光景にすぐ慣れることは、別のようでした。
先ほどまで、研究室で難しい計算に向き合っていた方です。
技術開発部長として、研究に取り組んでいる姿を見たあとでは、なおさら、不思議でした。
ですが、いま彼の注意が向いている先は、計算でも装置でもありません。
楽しげに走っていく、ミリアさんの背中でした。
「ヘルー! こっち、こっち!」
呼び掛けながら、彼女が走ります。
こちらへ来てほしいと言っているのに、追い付かれるまで待つつもりはないのでしょう。
声の明るさと、走っていく勢いの両方から、遊びを楽しんでいることが伝わってきました。
ヘルカイザーさんは、黒い翼をぱたぱたと動かし、そのあとを追っていました。
大きく広げれば、私達へ圧倒的な力を見せたときの姿と、重なるのでしょう。
ですが、いまの動きには、そういう気配がありません。
小さな白い身体が、翼を動かしながら、追い掛けていく。
ただ、それだけです。
「おやおや。なかなか、素早いですねぇ♪」
「えへへー!」
ミリアさんが、嬉しそうに笑いました。
素早いと褒められたことが、そのまま、嬉しかったのでしょう。
返ってくる笑い声には、疑うような間がありませんでした。
中庭では、声の響き方も、研究室の中とは違っていました。
壁に囲まれた場所で聞く説明や、機器のそばで交わす会話とは、少し違う。
呼び掛けた声が、離れた相手へ届き、その返事が戻ってくる。
私は、その往復へ、自然に耳を傾けていました。
楽しそうだ、と考えるために、詳しい説明は必要ありませんでした。
ミリアさんの笑い方を見れば、分かります。
彼女は、追ってくる相手を気にしながら、また、その相手へ声を掛けています。
離れたいだけなら、呼ぶ必要はないのでしょう。
でも、彼女は呼ぶ。
ヘル、と、何度も、親しげに。
その呼び方を、私は、すでに聞いたことがありました。
研究所でも、彼女は、そう呼んでいました。
ですが、動きながら声が交わされるのを見ていると、呼ばれた方が顔を向け、追ってくることまで含めて、二人の間にあるものなのだと感じられました。
名前を呼び、返事がある。
何でもないやり取りのようで、見ている私には、まだ、知らないところがありました。
私は、二人の動きを、目で追っていました。
あの方が本気で追えば、どうなるのか。
そういう考えが浮かびかけ、すぐに、それを脇へ置きます。
いま行っているのは、模擬戦ではありません。
相手の力量を測るための追跡でもないのです。
ミリアさんは、彼へ向かって、こっち、と声を掛けています。
彼も、それに応えるように追い掛けている。
追う方と逃げる方が、どちらも楽しそうです。
私が、戦いのときと同じように見ようとすれば、その時点で、何かを見落とすのかもしれません。
そう考えている間に、ミリアさんは、木の後ろへ隠れました。
するりと、姿が幹の向こうへ入ります。
私のいるところからは、彼女がそこへ向かったことが、はっきりと見えていました。
どこへ行ったのか、迷う余地はありません。
ヘルカイザーさんも、同じように、その動きを見ていたはずなのですが。
「……おや?」
彼が、周囲を見渡しました。
「ミリアが、いませんねぇ……」
私は、口を開きかけました。
木の後ろに、いらっしゃいますが。
言いそうになってから、止めます。
あまりに分かりやすかったので、つい、教えた方がよいのかと思ってしまったのです。
ですが、彼の仕草を見ていると、本当に居場所を見失ったようには見えませんでした。
わざと、気付いていないふりをしているのでしょうか。
彼は、少し大げさに、首を傾げました。
右を見て、また、視線を動かす。
木のある中庭で、小さな白い竜が、困ったような顔をしています。
彼を初めて見る方でしたら、それだけで、可愛らしい光景だと思うかもしれません。
私は、少し違う理由で、その仕草に目を留めていました。
探している顔を、している。
本当に困っているのでなければ、その顔を見せることにも、意味があるのでしょう。
ミリアさんが、隠れた。
そのことへ、彼なりの返事をしているように見えたのです。
「困りましたねぇ……一体、どこへ行ってしまったのでしょう?」
声が、中庭へ届きます。
木の向こうにも、聞こえているのでしょう。
私は、そちらを見ました。
自分が答えるところではなさそうです。
そのくらいのことは、ようやく、分かってきました。
何も知らないまま、あそこにいますと教えていたら、どうなったのでしょう。
彼は、きっと、何か返事をしたでしょう。
ですが、いまのやり取りが同じように続いたかどうかは、分かりません。
見えていることを、そのまま言えばよい場面ばかりではないのですね。
幹の向こうへ入るまでの動きは、見えています。
そのあと、どこか遠くへ移ったわけでもないでしょう。
分からないふりをしているのだと気付くと、今度は、彼がどのように困った顔をするのかへ、注意が向きました。
首を傾げる、その角度まで、少し大きいように見えます。
聞こえるように話しているのも、わざとなのでしょう。
隠れている相手へ、探していますよと知らせている。
それも、遊びの一部なのかもしれません。
見つからないことだけが、嬉しいわけではないのですね。
少なくとも、今の二人の様子を見ている限りでは、探す側が何をしているかも、隠れる側にとって、大切なようでした。
そこで私が、答えだけを伝えてしまうのは、少し違う。
理屈として、全部分かったわけではありません。
ですが、言い掛けた言葉を引っ込めたことは、間違っていなかった気がしました。
私は、口を閉じて、待っていました。
研究室や訓練所で見る彼とは違う動きを、もう少し、眺めていたかったのも事実です。
「ここだよー!」
明るい声とともに、ミリアさんが木の後ろから飛び出してきました。
探している相手へ、自分から居場所を知らせる。
そのことも、ただ逃げ切るための行動とは違います。
彼女は、見つからないまま遠くへ行きたかったわけではないのでしょう。
いまは、ここにいるよ、と飛び出してくることが、楽しそうでした。
「おや!?」
ヘルカイザーさんが、大げさに驚いてみせました。
「これは、驚きましたねぇ♪」
その反応を見て、ミリアさんの顔が、いっそう明るくなります。
「えへへ! びっくりした?」
「ええ♪ 実に、見事な隠れ方でした」
「やったー!」
満面の笑みでした。
自分が隠れ、彼が探し、飛び出したら驚いてくれた。
それが、とても嬉しかったのでしょう。
言葉だけでなく、表情にも、その喜びが表れていました。
……ふふっ。
私は、思わず微笑んでいました。
木の後ろにいることは、分かっていたはずです。
少なくとも、私には、そう見えていました。
ですが、彼は、それを急いで指摘しませんでした。
分かっているからこそ、あえて探す仕草をした。
そして、飛び出してきた彼女へ、驚いたと答えたのです。
その返事で、ミリアさんは、嬉しそうに笑っている。
いま、目の前にある結果は、それでした。
正しい場所を、すぐに言い当てる。
逃げる相手へ、最短で追い付く。
もし、そういうことだけを求めるのでしたら、先ほどのやり取りは、ずいぶん遠回りなのでしょう。
ですが、二人を見ていると、その遠回りの方に、楽しさがあるようでした。
遊ぶ、というのは、こういうことなのでしょうか。
私は、まだ、よく分かっていません。
けれど、ミリアさんが笑ったとき、こちらの口元まで緩んだことは、分かりました。
理由を細かく整理するより先に、可笑しくなっていたのです。
ヘルカイザーさんも、楽しそうでした。
相手の反応を見て、また、笑う。
その姿を見ていると、私達へ本当の闇を見せた方と同じだとは、すぐには思えなくなります。
もちろん、同じ方です。
そのことを、忘れたわけではありません。
あの闇が、なかったことになるわけでもない。
ですが、知っている一面だけで、いまの顔まで説明しようとしても、うまくいきませんでした。
私は、彼の強さを知っています。
攻撃が届かなかったことも、逃れられなかったことも、覚えています。
それなのに、目の前でしているのは、木の後ろに隠れた相手を、見失ったふりをして探すことです。
つかめない方ですね。
そう考えながら、二人を眺めていました。
怖いか、怖くないか。
強いか、弱いか。
そのように、どちらか一方へ分けるだけでは、見たものが、こぼれてしまうようでした。
「……セリシア?」
横から、声を掛けられました。
「……はい?」
私は、そちらを向きました。
レティシアさんが、立っていました。
声を掛けられるまで気付かなかったことに、少し驚きます。
それだけ、二人へ意識が向いていたのでしょう。
「どうしたの? そんなところで」
「いえ……」
私は、もう一度、中庭の二人へ視線を向けました。
何をしていたのかと尋ねられれば、見ていた、としか答えようがありません。
ですが、ただ、誰かが走っているのを眺めていたわけでもないのです。
そのことを、どう伝えればよいでしょうか。
「少し、不思議に思いまして……」
「……不思議?」
「はい。ヘルカイザーさんは……本当に、不思議な方ですね」
考えていたことを、そのまま口にしました。
うまく説明し切れたとは思いません。
何がどう不思議なのか、整理して話せるほど、自分でも理解できていませんでした。
ただ、いま見ている顔と、これまで見てきた姿の間に、まだ、知らないものがある気がしたのです。
レティシアさんは、すぐには答えませんでした。
私と同じように、二人を眺めています。
私は、その横顔を見てから、また、中庭へ目を戻しました。
彼女も、同じ光景を見ている。
それなら、言葉が足りなくても、少しは伝わるのかもしれません。
「……そうね」
小さく息を吐いてから、彼女が答えました。
穏やかな声でした。
先ほど、研究所でヘルカイザーさんを叱っていたときとは、まるで違います。
同じ相手について話しているのに、いま、その名前へ向けられている声は、静かでした。
「あの人は、本当に、何を考えているのか分からないところがあるわ」
「……はい」
私は、頷きました。
何を考えているか、分からない。
その言葉は、いまの自分にも、よく分かりました。
目の前で起きていることは、見えます。
何をしているかは、分かる。
ですが、それまでに見た姿と、どうつながるのか。
何を思って、そのように振る舞うのか。
そこまで知っているわけではありませんでした。
レティシアさんでも、分からないところがあるのですね。
私は、少し、意外に思いました。
彼を注意し、説明を求め、必要なことを伝えている方です。
私達より、ずっと、彼をよく知っているのでしょう。
それでも、すべてが分かるわけではない。
そのことが、彼女の言葉から伝わってきました。
私は、レティシアさんの声を、もう一度、思い返しました。
何を考えているか分からない、と言いながら、いま、彼女は、二人を見ています。
その目には、先ほどのように、すぐ注意しなければならないという険しさがありませんでした。
ミリアさんの笑顔へ向いたあと、ヘルカイザーさんへも、視線が向く。
そのどちらも、静かに眺めているようでした。
私には、彼について尋ねたいことが、まだ、いくつもあります。
けれど、彼女と並んで同じ光景を見ている間は、疑問の答えを急いで集めなくてもよいように思えました。
彼を知っている方も、こうして見ている。
そのことだけで、さっきまで一人で感じていた不思議さが、少し違うものになったのです。
不思議ですね、と言って、そうね、と答えが返ってくる。
明確な説明がなくても、それで、言葉が通じたと感じることがあるのですね。
私は、理由を尋ねようとはしませんでした。
詳しい過去や、知らない事情を、ここで聞き出したいわけではなかったのです。
いま不思議だと感じた光景を、彼女も見ている。
まずは、そのことが、私には大切でした。
「でも……」
レティシアさんが、少しだけ微笑みました。
「ミリアと遊んでいるときは、ああいう顔をするのよね」
私は、あらためて、ヘルカイザーさんを見ました。
そこには、満面の笑みを浮かべるミリアさんと、それを楽しそうに眺める彼がいます。
ああいう顔。
その言い方を聞いてから見ると、私は、先ほどまで、違う姿との差ばかりを考えていたことに気付きました。
闇を見せたときとは違う。
模擬戦での姿とも違う。
そう比較しながら、いまの彼を見ていたのです。
ですが、レティシアさんは、いま、そこにある顔を、言葉にしました。
ミリアさんと遊ぶときに、彼が見せる顔。
そのような時間が、この方にもある。
すべての理由を知らなくても、それを、見て知ることはできるのでしょう。
私は、二人の方を向いたまま、少しだけ頷きました。
なるほど。
そんな一面も、あるのですね。
何もかもが、分かったわけではありません。
分からないところは、まだ、そのままです。
ですが、知らなかった姿を一つ見たからといって、それを、知っていた姿に無理やり合わせる必要もないのでしょう。
いま、楽しそうに遊んでいる。
そのことを、受け止めていればよいのかもしれません。
研究室では、研究に取り組む顔をしていました。
訓練所では、私達へ挑むよう促しました。
レティシアさんの前では、頭を下げました。
そして、ミリアさんと遊ぶときには、いまのような顔をする。
私は、まだ、そのいくつかを知っただけなのです。
そう思うと、不思議だという気持ちは消えないままでも、少し、見方が変わる気がしました。
分からないからといって、何も見えていないわけではない。
目の前で笑っている二人を、もうしばらく、静かに眺めていたかったのです。
「セリシアー!」
その静かな時間は、こちらへ向けられた明るい声で終わりました。
ミリアさんが、手を振っています。
私は、思わず、自分の方を確かめるように視線を動かしました。
呼ばれたのは、私でした。
見ているだけだと思っていたところへ、急に、名前が届いたのです。
「セリシアも、遊ぼー!」
「……私ですか?」
「うん!」
返事は、明快でした。
聞き間違いでも、別の方への誘いでもありません。
ミリアさんは、私も、一緒に遊ぼうと言っているのです。
私は、少しだけ、考えました。
鬼ごっこ。
相手を追い掛ける。
逃げる。
走る。
そういう動きならば、知っています。
ですが、いま誘われているのは、戦いではありません。
魔法の訓練でもない。
ただ、遊ぶために走るのです。
そのようなことを、私は、したことがあったでしょうか。
記憶を探してみます。
思い当たるものは、ありませんでした。
力を求めて戦ったこと。
身体を得て、動きを確かめたこと。
仕事をし、魔法を教わり、模擬戦で敗れたこと。
いま思い浮かぶ自分の時間には、目的がありました。
何かを得るためだったり、引き受けたことを済ませるためだったり。
ただ、楽しく過ごすために追い掛け合うという経験は、見つかりませんでした。
では、どうすればよいのでしょう。
そう考えたとき、先ほどまで眺めていた二人の顔が、頭へ浮かびました。
ミリアさんが、木の後ろへ隠れる。
ヘルカイザーさんが、探すふりをする。
そして、飛び出してきた彼女へ驚いてみせる。
私が理由を考えている間も、二人は、楽しそうにしていました。
何もかも分かってからでなければ、加わってはいけないのでしょうか。
そこまで考えて、自分でも、少し可笑しくなりました。
ミリアさんは、難しい説明を求めているのではありません。
一緒に遊ぼうと、声を掛けてくださっただけです。
誘われて、嫌だとは思いませんでした。
むしろ、先ほどまで眺めていた時間の中へ、自分も加わってよいのだと知って、少し戸惑っていたのです。
見ているときには、二人のものだった楽しさ。
そこへ、こちらから入るための言葉が、まだ、うまく見つかりませんでした。
ですが、返事をすることはできます。
知らないことなら、加わりながら知ればよいのでしょう。
少なくとも、いま、断りたいと思う理由はありませんでした。
「……分かりました」
私は、小さく頷きました。
「では、ご一緒しましょう」
「やったー!」
ミリアさんが、嬉しそうに駆け寄ってきました。
返事をしただけで、そんな顔をしてくださるのですね。
私は、近付いてくる彼女を見ながら、少しだけ、肩の力を抜きました。
自分が何をすればよいのか、まだ、すべては分かりません。
ですが、来てほしいと思ってくれていることは、伝わります。
それだけで、先ほどまで感じていた距離が、少し縮まったようでした。
すると、ミリアさんが、元気よく告げました。
「じゃあ、セリシアが鬼!」
「……えっ?」
思わず、聞き返してしまいました。
私が、鬼。
つい先ほどまで、その役をしていたのは、ヘルカイザーさんだったはずですが。
見ていた立場から、遊びへ加わることになり、さらに、追う役まで決まりました。
少々、展開が早いような気もします。
ですが、ミリアさんは、こちらの戸惑いを気にする様子もなく、続けました。
「十、数えてね!」
「……じゅ、十ですか?」
「うん!」
再び、迷いのない返事です。
私は、少し黙りました。
十を数える。
数えること自体は、できます。
難しい計算を求められたわけではありません。
ですが、いま急に言われたので、何をどう始めればよいのか、動きが一つ遅れてしまいました。
逃げる側へ、先に時間を与えるのでしょう。
そう理解すると、言われたことの意味が分かります。
相手が動き出したら、すぐに追うのではない。
十まで数えて、待つ。
遊ぶために、こちらから、追い始める時を遅らせるのです。
私は、ヘルカイザーさんへ目を向けました。
助けを求めたつもりだったのか、それとも、これでよいのかを確かめたかったのか。
自分でも、はっきりとは分かりません。
ただ、先ほどまで鬼をしていた方でしたので、自然に、そちらを見てしまいました。
彼は、楽しそうに微笑んでいました。
「ふふっ♪ 頑張ってくださいね、セリシアさん」
……なるほど。
代わってくださるつもりは、ないようですね。
いえ、私も、代わってほしいと言ったわけではありません。
ただ、その返事を聞いて、自分が、本当に鬼になったのだと実感しました。
彼は、こちらへ、その役を譲るつもりなのでしょう。
先ほどまでミリアさんを追っていた方が、今度は、私へ、頑張るようにと声を掛けています。
さっきまで、私は、木の向こうへ隠れた相手の居場所を知っていました。
どうして彼は、すぐに見つけないのかと、考えてもいました。
ですが、自分の番になった途端、最初の数を数えることにまで、少し身構えています。
見て分かったつもりのことと、やってみるときの気持ちは、違うのですね。
ミリアさんは、そのような私へ、難しいことを求めてはいませんでした。
鬼になって、十を数える。
言われたことは、それだけです。
うまく説明できない気持ちがあっても、始めるために必要なことは、もう、聞いています。
ならば、そのとおりに、してみましょう。
先ほど、レティシアさんと並んでいたときには、眺めているだけでも、微笑ましく感じました。
これからは、その光景の中へ、自分が入るのです。
少し戸惑うことも含めて、知らなかった時間を過ごしてみればよいのでしょう。
私は、小さく息を整えました。
研究所での仕事へ取り掛かるときとは、違う戸惑いです。
訓練の順番が回ってきたときとも、少し違う。
うまくできるかどうかを、試されているわけではないはずです。
けれど、知らないことへ加わる、その最初の一歩であることには、変わりありませんでした。
これも、ある意味では、訓練なのでしょうか。
ふと、そんなことを考えました。
ですが、すべてを訓練と呼ばなければ、自分がここへいてはいけないというわけでもないでしょう。
ミリアさんは、私を指導するために誘ったのではありません。
一緒に遊ぶ相手として、呼んでくださったのです。
それならば、まずは、その言葉どおりにしてみればよい。
何かを得ようとする前に、一緒に過ごす。
いまの私に求められているのは、そのくらいのことなのかもしれません。
十、数える。
そのあとで、鬼ごっこをする。
私は、言われたことを、頭の中で確かめました。
先ほどのように、木の後ろにいると、見ているだけではありません。
これからは、私自身が、追う側です。
どう振る舞えば楽しいのか、まだ、よく分かっていません。
ですが、最初から、ヘルカイザーさんのように、探す仕草まで真似をしなくてもよいのでしょう。
まずは、数えてみましょう。
私は、静かに目を閉じました。
中庭の光が、瞼の向こうへ隠れます。
ですが、そこにある時間まで、消えるわけではありません。
風の気配があります。
ミリアさんの声を、まだ、覚えています。
いま目を閉じているのは、遊びを始めるためです。
そのことが、何となく、不思議で、少しだけ、嬉しくもありました。
「……一、二、三……」
ゆっくりと、数え始めます。
普段なら、ただの数字です。
ですが、いまは、その一つ一つが、遊びの最初へつながっていました。
急いで追い始める必要はありません。
言われたように、まず、十まで。
ミリアさんの楽しそうな笑い声が、聞こえてきました。
私は、目を閉じたまま、その声を聞いていました。
さっきまで、少し離れたところで耳にしていた笑い声です。
いまは、自分が数えている、そのそばで聞こえている。
眺めていた時間の中へ、いつの間にか、自分も加わっているのですね。
うまく遊べるかどうかは、まだ、分かりません。
ですが、いま聞こえた声を、嫌だとは思いませんでした。
こうして、何かを始めるために待っていることも。
追い付くことだけを考えずに、数を数えていることも。
……ふふ。
悪くありませんね。
こういう時間も。
――第52話・了――




