第5話 忘れていた温もり
AEGIS本部へ入ったはちは、いろはの後について廊下を歩いていた。
隣には、アリアもいる。
外の風が頬を撫でることはなくなった。
代わりに、前を歩くいろはの足取りが、はっきり意識に入ってくる。空から眺めていた建物の中を、今は自分の足で歩いているのだ。
はちは周囲へ視線を向けてから、先を行く背中へ目を戻した。
「あの〜、いろはさん……」
「何?」
「一体どちらに向かっているのですか?」
いろはが、歩きながらこちらを見た。
「今から、AEGISの指揮を担当している人に会ってもらうの」
(ですよね〜)
はちの頭に、一人の名前が浮かぶ。
かえで。
知っている名前が浮かぶのと、これから本人に会うのだと実感するのは、少し違った。
いろはに会ったときには、まだ似ているだけかもしれないと思っていた。今はもう、この世界にいることも分かっている。
それでも、実際に顔を合わせるとなれば、やはり落ち着かない。
(まさか、こんなに早く会うことになるとは。運命フラグさん、進展が早すぎません?)
「着いたよ」
いろはが、司令室の前で足を止めた。
入口横の端末を操作する。
少しして、中から女性の声が返ってきた。
はちは、その声へ意識を向けた。
隣にアリアがいることを確かめ、いろはに続く。知らない部屋へ入る前の、短い間だった。
「どうぞ」
「じゃあ入るね。はちちゃん、アリア、行こっか」
「はい」
司令室へ入ると、一人の女性がこちらを迎えた。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、どこか親しみやすさのある人だった。
「話はいろはから聞いているわ。まだ自己紹介していなかったわね」
女性が、柔らかく微笑む。
まず向けられたのは、こちらを迎えるための笑顔だった。
はちは少し肩の力を抜き、言葉を聞いた。緊張する相手ではあっても、いきなり厳しく問いただされるわけではなさそうだった。
「私はかえで。AEGIS本部指揮部で、戦略と支援の統括を担当しているわ。よろしくね」
「自分は安藤はちです」
「魔導姫アリアです」
自己紹介を終えると、かえでは、はちをじっと見つめた。
挨拶は済んだはずなのに、視線がなかなか離れない。
はちは返事の続きを待つように口を閉じ、かえでを見上げた。何か言い忘れたことでもあっただろうか。そう考える間にも、相手の目はまた顔へ戻ってくる。
顔。
髪。
服装。
そして、もう一度、顔。
(……何か怖い)
「なるほど……」
かえでが少しかがみ、はちと目線を合わせた。
「いろはから聞いてはいたけど、本当に可愛らしい女の子ね」
ピシッ。
はちの心に、何かが刺さった。
笑顔で言われただけに、どんな顔を返せばいいのか分からなかった。
可愛いと言われたことも、女の子と間違えられたことも、今日が初めてではない。
けれど、慣れたつもりになれるほど、何度も経験したいことではなかった。
「かえでさん……」
いろはが、困ったように苦笑する。
「はちちゃん、男の子ですよ」
「え?」
かえでの表情が固まった。
「男の子?」
「はい……」
「…………」
かえでは、もう一度はちを見た。
さっきまでの笑顔が、確かめるような表情に変わっていた。
はちはその場に立ったまま、視線だけを少しずらす。何も言われない時間が、かえって気になってしまった。
上から下へ。
下から上へ。
(やめて。その確認するような目、地味にキツいです)
「ご、ごめんなさい。本当に女の子だと思ってたわ」
「…………」
「でも、これは間違えるわね……本当に可愛いもの」
(追撃来たよ!)
もう止めてほしい。
悪気がないのは分かる。
からかうような調子が混じっていても、こちらを傷つけたいわけではないのだろう。だから、強く言い返すつもりもなかった。
ただ、平気な顔を作ろうとすると、なぜか目の奥が熱くなる。
これ以上は、耐えられそうになかった。
(俺のライフはもうゼロよ〜!)
「クスン……」
「え?」
はちは、慌てて俯いた。
(ヤベッ)
本格的に、涙が出てきた。
自分でも、ここで泣くつもりはなかった。
俯けばどうにかなると思ったのに、一度こぼれた涙は、そのまま次の涙につながってしまう。言葉まで途切れそうになり、はちは慌てて息を吸った。
「は、はちちゃん!?」
いろはが慌てる。
「はちちゃん!?」
アリアも、すぐそばへ寄ってきた。
「ご、ごめんなさい! そんなに気にしてるとは思わなくて……!」
かえでも、すぐにからかうのをやめた。
「いやね……グズッ……色々とね……グズッ……悲しくなってね……自分、男なのにね……グズッ……」
「ごめんね、はちちゃん」
いろはが、頭を撫でた。
「元気出してください、はちちゃん」
アリアも、反対側から撫でてくれる。
「本当にごめんなさい。もうからかわないから」
かえでまで、申し訳なさそうに頭を下げた。
三人とも、今度は本気で心配しているようだった。
その様子を見れば、こちらも何か答えなければと思う。けれど、しゃくり上げそうになる声を整えるには、少し時間が必要だった。
少しして、はちはようやく顔を上げた。
「ほ……ほんと……?」
涙で濡れた目で、三人を見上げる。
今度こそ、これで終わりになると思った。
謝ってもらえたことには、ほっとしている。ただ、それを確かめたくて顔を上げただけだった。
「「「はうっ……」」」
嫌な予感がした。
「か、可愛い……」
「可愛らしすぎます……」
「今のは反則ね……」
「わふっ?」
予感は、当たった。
近くにいた三人に、一斉に抱きつかれる。
左右と目の前から、いっぺんに距離が縮まった。
さっきまで謝っていたはずの顔が、今度はそろって嬉しそうになっている。はちは目を瞬かせ、どうにか声を出した。
「ちょっ、何でですか〜!」
「ご、ごめん! でも今のは無理!」
「全くです! 今のははちちゃんが悪いです!」
「私まで巻き込まれた理由が分かったわ……これは確かに耐えられない」
「何でさ〜〜〜!」
――只今、抱きつかれ中。
*
「……ごめんなさい。少しふざけすぎたわね」
かえでは咳払いを一つすると、表情を改めた。
先ほどまでのお茶目な雰囲気が消え、指揮官としてはちへ向き直る。
はちも、その変化に気づいた。
声の調子が落ち着き、こちらの返事を待つ間も、さっきとは違う。かえでは、今度はきちんと話を聞こうとしていた。
はちは姿勢を整えた。
「それじゃあ、改めて確認させてね。分からないことや、話したくないことは無理に答えなくてもいいから」
「はい」
事情聴取が始まった。
はちは、話す内容を慎重に選んだ。
質問に答えれば、それだけ相手が知ることも増える。
何を話して、どこから先は伏せておくのか。その区別を、言葉にする前に確かめておきたかった。
助けてもらうことと、すべてを打ち明けることは、同じではない。
転生したこと。
この世界を以前から知っていたこと。
そして、アテナの存在。
そうした事情を、打ち明けるわけにはいかなかった。
説明するのは、この世界で話しても問題のない範囲だけだ。
「家族は?」
かえでに尋ねられ、一瞬、言葉が止まった。
答えになる言葉は、すぐに浮かんだ。
けれど、それを口にする前に、胸の内に別のものが触れた。遠い記憶だった。はちは一度だけ息を整え、それから答えた。
「……両親は、交通事故で亡くしました」
部屋の空気が、少し変わった。
さっきまでのように、誰かがすぐ言葉を継ぐことはなかった。
かえでの表情を見て、はちはできるだけ普段どおりに話そうとした。心配されるために、その話を持ち出したわけではない。
伝える範囲を決めたうえで、聞かれたことへ答えようとしているだけだった。
「今、保護者はいる?」
「いません」
「それじゃあ、今までは?」
「一人で旅をしていました」
できるだけ、軽く答える。
「大丈夫ですよ。もう昔のことですから」
かえでは、しばらくはちを見つめていた。
「……分かったわ」
それ以上、深くは聞かなかった。
ただ、その声は少し優しくなっていた。
続きを促されなかったことに、はちは少し助けられた。
話せることまで何もかも隠したいわけではない。だが、ここで説明を重ねれば、どこかで別の説明も必要になる。
いまは、そのまま受け止めてもらえたことがありがたかった。
その後も、いくつかの確認に答えた。
事情聴取が一段落したところで、かえでの視線が、はちの右手へ向いた。
「そういえば、さっきから気になっていたんだけど……その指輪は?」
「これはカードケースですよ」
「指輪が?」
「はい」
右手中指の指輪へ意識を向ける。
淡い光とともに、一枚のカードが現れた。
手に持っているカードは、裏面を向いている。
「必要なカードを、こうやって取り出せるんです。収納も同じですね」
「へぇ……」
かえでは、興味深そうに見ていた。
視線が、指輪とカードの間を行き来している。
はちはカードを持つ手を落ち着け、かえでが見えるようにした。由来を話さなくても、どう扱うものなのかは示せる。
必要なのは、まず、その範囲の説明だった。
「そのカードは?」
「精霊カードです」
「精霊カード?」
「はい。このカードには精霊が宿っています。そこにいるアリアも、その精霊の一人ですよ」
「そうなの?」
いろはが、アリアを見た。
「はい。改めまして、魔導姫アリアの精霊です」
アリアが、丁寧に頭を下げる。
紹介された本人が答えると、いろはの視線も改めてアリアへ向いた。
隣にいた相手が、どんな存在なのか。その説明と姿が、ここで初めて結びついたようだった。
はちは、相手の反応を見ながら言葉を続けた。
「それじゃあ、さっき乗ってきた白い竜も?」
「はい。セレスティアも精霊カードから具現化した存在です」
かえでの目が、少し見開かれた。
「でも、精霊をあれだけ安定して実体化させ続けるのは簡単じゃないはずよ」
「それを補助しているのが、これです」
はちは左腕を軽く上げた。
左手首に固定された、腕時計型の本体。
その外側に展開されている、円形の魔力ディスク。
「SIA。正式にはSpirit Intelligence Armamentです」
「その円形の部分が本体?」
「いえ。こっちは魔力ディスクです。本体は左腕の腕時計型の方ですよ」
かえでは、二つの部分を見比べた。
はちは左手首を示し、それから腕の外側へ視線を移した。
本体と魔力ディスクは、見える場所も形も違う。その違いを伝えれば、どこへカードを置くのかも分かりやすいはずだった。
「カードはSIA本体へ差し込むんじゃなくて、この魔力ディスク側へセットします」
右手に持っていたカードを、魔力ディスクの直前で表向きに返す。
はちは、手元のカードを魔力ディスクへセットした。
その瞬間、カードの表面が現れる。
「こうやってカードを読み込ませて、召喚や魔法を発動させます。今使っているのはまだ試作型ですけど」
「なるほど……」
かえでが、考えるように顎へ手を添えた。
「詳しい構造も聞いていい?」
「そこは秘密です」
即答した。
使い方を説明することと、中の構造まで明かすことは別だった。
相手が興味を持つ理由は分かる。けれど、聞かれたからといって、ここで境目を曖昧にするつもりはなかった。
はちは、かえでの返事を待った。
「秘密なの?」
「はい。ちょっと事情がありまして」
詳しい構造も、製作の経緯も。
指輪の本当の由来も、ここでは話さない。
かえでは少しだけはちを見たあと、頷いた。
「分かったわ。必要な範囲だけ確認させてもらうね」
はちは、ほっとした。
*
プシュー。
司令室の扉が開いた。
「かえで、この子が例の子?」
その声に、はちの身体が固まった。
レイ・シルビア。
(はぁ〜。ホント、運命フラグは進展が早いな……)
「あ、レイちゃん。ちょうどよかった」
いろはが、入ってきたレイへ顔を向けた。
「その子がそうよ」
かえでの返事を聞き、レイの視線がはちへ移る。
レイの目に映ったのは、少し怯えているようにも見える、小さな子供だった。
入ってきた相手へ顔を向けたまま、その子は少し動きを止めている。
赤くなった目元が、レイには気になった。何か言いたいのかもしれないが、すぐには声が出てこないように見えた。
目が赤い。
(泣いていたのかな)
いろはたちへ、ちらりと視線を向ける。
(この子に何をしたの?)
けれど、今はそれより、目の前の子を安心させる方が先だった。
レイは、はちの前へしゃがんだ。
「初めまして。私はレイ・シルビア」
目線を合わせ、優しく笑う。
立ったまま見下ろすより、近い高さで話したかった。
まずは、自分が誰なのかを伝える。レイは相手の顔を見ながら、返事を急がずに待った。
「あなたの名前は?」
「自分は安藤はちです。こちらは――」
「アリアです」
「はちとアリアね。うん、良い名前」
その笑顔に、はちは少し圧倒された。
(めっちゃ良い笑顔で言われると、眩しいですよ)
「でも、はちはちょっと変わった話し方をするのね」
「え?」
「自分のことを『自分』って言うし……」
レイは、柔らかく笑った。
「こんな可愛い女の子なのに」
ピシッ。
(畜生〜! やはりこの展開かよ!)
「あ、あの……」
自分が男だと、訂正しなければならない。
けれど、そのたびに説明するのは、少し気が引けた。
名前を伝え、相手が笑ってくれて、そこで一度安心した。
その直後に同じ訂正が必要になると、話し始めるタイミングさえ分からなくなってしまう。
はちは口を開きかけ、また閉じた。
はちは、ちらりと後ろを見た。
いろはとかえでが、何とも言えない顔をしている。
アリアは、口元を押さえていた。
(絶対、笑いをこらえてるだろ……)
「そ、その……」
「何?」
レイは、はちの様子を心配そうに見ていた。
「もしかして、まだ怖い?」
(何でさ……)
戸惑うはちを前に、レイは、ますます安心させなければと思った。
ゆっくりと、手を伸ばす。
ふわりと、優しく抱きしめた。
「わ、わふっ……?」
「大丈夫。怖くないから」
レイは、はちの頭を優しく撫でた。
はちは、驚いたまま動きを止めていた。
けれど、少しずつ気持ちが落ち着いていく。
温かい。
安心する。
張り詰めていたものが、ゆっくり緩んでいった。
言いかけた言葉が、頭の中に残っている。
それなのに、呼吸が落ち着くほど、続きを急いで口にしなくてもいいような気がした。
何かを説明する前に、ただ、ここにいてもいい。
抱きしめられている間だけは、そんなふうに感じられた。
(ヤベ……眠く……なって……)
まだ、伝えなければならないことがある。
(俺が男だって……言わないと……いけないのに……)
けれど、瞼が重かった。
はちは、そのまま意識を手放した。
*
「……?」
腕の中が静かになり、レイは顔を覗き込んだ。
「すぅ……すぅ……」
穏やかな寝息が聞こえる。
「寝ちゃった……」
少なくとも、少しは安心してくれたようだった。
起こさないように、レイは姿勢を変えずにいた。
腕の中で続く寝息を聞いてから、近くにいる三人へ目を向ける。話しかける声も、自然と小さくなった。
「本当に寝ちゃったわね」
いろはが、小さく笑う。
「相当疲れていたのでしょうね」
アリアも、心配そうにはちを見ていた。
かえでが席を立ち、こちらへ来る。
レイは眠っているはちを見ながら、小さな声で尋ねた。
「かえで。この子の家族は?」
かえでの表情が、少し曇った。
「事情聴取で聞いたわ。両親は交通事故で亡くしているそうよ」
「……そう」
「今は保護者もいない。一人で旅をしていたって」
レイは、腕の中へ目を落とした。
こんな小さな子が、一人で。
先ほどまでこちらを見上げていた顔と、今、腕の中で眠っている顔。
レイには、どちらも無理に平気でいようとしていた子のように思えた。
眠っている相手へ問いかけることはできない。ただ、抱えている腕を、そのまま支えていた。
「本人は『大丈夫』って笑ってたけどね」
かえでの声が、少しだけ低くなった。
眠っているはちの顔は穏やかだった。
けれど、レイには、どこかずっと我慢してきた子のように思えた。
「あの……」
アリアが、声をかけた。
「はちちゃんはもう寝ていますし、続きは起きてからでも……」
「そうね」
レイは頷いた。
「じゃあ、私といろはの部屋で休ませる」
「お願い、レイちゃん」
レイは、眠っているはちを抱き上げた。
はちが目を開けることはなかった。
レイは寝息を確かめ、静かにその場を離れる。今は話の続きを聞くより、休ませてあげたかった。
*
「んっ……」
はちが目を開けると、知らない天井が見えた。
「いつの間にか寝ちゃったんだ……」
身体を起こし、周囲を見回す。
見慣れない部屋だった。
「確か……レイさんに抱きしめられて、それで……」
安心して、そのまま眠ってしまったのだ。
思い出すと、顔が熱くなった。
初めて会った相手に抱きしめられ、そのまま眠ってしまった。
思い返せば、ずいぶん気を許したものだと思う。
言いそびれたこともある。それでも、目が覚めた今も、あのときの安心感だけは残っていた。
けれど、それとは別に、胸の中へ残っているものがあった。
「でも、あんなに安らいだのはいつ以来だろ……」
ふと、昔の記憶が浮かんだ。
前世の、幼い頃。
最後に、母へ思いきり甘えた日のこと。
思い出そうとして、無理に引き出した記憶ではなかった。
安心した、と感じたそのあとに、似た温もりを知っていたことへ気づいたのだ。
今よりずっと幼かった頃の、自分の記憶だった。
母と、父と、自分。
三人で、ドライブに出かけた。
その帰り道だった。
対向車線からはみ出してきたトラックと、衝突した。
両親は亡くなった。
自分だけが、奇跡的に助かった。
その事実は、ずっと知っていた。
両親がいないことも、あの時間が戻らないことも、忘れたわけではない。
けれど、知っているはずのことが、今になって、違う重さで胸へ戻ってきていた。
ぽた、と涙が落ちた。
「……あれ?」
続けて、もう一滴。
「また涙が……」
あの事故以来、思い出しても泣かなかったはずなのに。
違う。
泣かなかったのではない。
忘れていたのだ。
あの温もりを。
優しくて、温かい、あの感覚を。
覚えていたのは、失ったという事実ばかりだったのかもしれない。
本当は、失う前に確かにあったものも、知っていた。
甘えてよかったこと。受け止めてもらえていたこと。
そこへ気づいてしまうと、涙を止めるための言葉は見つからなかった。
「何で……? 何で……? 何でなんだよ……止まってよ……ねぇ……」
分かっていた。
本当は、もっと母に甘えたかった。
父にも、甘えたかった。
二人が生きていたなら、もっと親孝行をしたかった。
もう少し話をしたかった。
大人になった自分を見てもらい、何でもない顔で一緒に過ごせたらよかった。
何か特別なことを望まなくても、それだけで十分だったはずだ。
今は、その何でもない時間さえ、手の届かないところにある。
けれど、それはもうできない。
「うっ……うぅ……グズッ……お母さん……お父さん……」
声になったのは、両親を呼ぶ言葉ばかりだった。
その先は、胸の中で語りかけた。ここで誰かに聞いてもらうための説明ではない。
はちが、自分の両親へ伝えたかった言葉だった。
ごめんなさい、お母さん。
あなたから産んでもらった身体は、もうないです。
でも――。
どんな身体だろうが。
どんな名前になろうが。
俺は金城享司。
紛れもなく、あなた達の息子です。
この名前は、この心に刻みます。
そしてこれからは、安藤はちとして第二の人生を歩みます。
見ているかどうかは分からないけど……。
見守っていてください。
返事が聞こえるわけではなかった。
それでも、心の中で言葉にすると、自分が何を失い、何を持ったままここへ来たのかを、少しだけ確かめられる気がした。
涙を拭う手は、まだ止まらなかった。
*
数分後。
「ふぅ……落ち着いてきたな……」
はちは、ようやく息を整えた。
顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
洗面所を見つけ、顔を洗う。
水で涙を流し、タオルで拭いた。
濡れた頬を拭いながら、呼吸を整える。
泣き終えたばかりで、まだ声はうまく出そうになかった。それでも、さっきよりは落ち着いている。
はちはタオルから顔を離し、一つ息をついた。
「ふぅ……」
その時、扉が開く音がした。
「あ、はち。起きたんだ」
レイが入ってきた。
ここは、レイといろはの部屋らしい。
「あ、はい。あと、すいません。洗面所を勝手に借りました」
「それくらい気にしなくていいよ」
レイは、柔らかく笑った。
「そんなところに立ってないで、座ろう?」
「はい……」
はちはソファーへ座った。
レイも、その隣へ腰を下ろす。
少し、沈黙が流れた。
すぐに何かを尋ねられるかと思ったが、レイは急いで話し始めなかった。
その間がかえって気になり、はちは手元へ視線を落とした。何でもない顔で座っているつもりだった。
「はち」
「はい?」
「かえでから聞いたんだけど……ご両親、交通事故で亡くしたんだってね」
はちの身体が、わずかに固まった。
「……はい」
「今まで一人で旅をしてたって」
「そうですね」
「寂しくなかった?」
「寂しくないで――」
「嘘だね」
「わふっ?」
思わず、レイを見た。
「ごめんね。本当は聞くつもりじゃなかったんだけど……さっき、この部屋の前まで来た時に声が聞こえたの」
はちの顔が、熱くなった。
あのときの声を聞かれていたのなら、もう平気なふりをしても意味がない。
そう思う一方で、それでも取り繕おうとする言葉が浮かぶ。
はちはレイの顔をまともに見られず、視線を泳がせた。
「き、聞いてたのですか……?」
「うん。ごめん」
レイは、申し訳なさそうに答えた。
「は、はは……参りましたね……そんな素振りを見せるつもりはなかったのですが……」
平気な顔をしていたかった。
そうしていないと、周りが気を使う。
それが、嫌だった。
話した相手が悲しい顔をするのも、どう声をかければいいのか迷うのも、見ていたくなかった。
だから、自分で大丈夫だと言ってしまえばいい。
いつの間にか、その答えが先に出るようになっていた。
「自分、大丈夫ですよ」
ふわり、と抱きしめられた。
「わふっ……?」
「無理しなくて良いよ」
レイの声は、静かだった。
責める声でも、無理に続きを聞こうとする声でもなかった。
はちは返事をしようとしたが、さっきまでと同じ言葉を、すぐには繰り返せなかった。
「私も似たような経験があるから……はちの気持ちは、少し分かるよ」
顔を上げる。
レイは、今にも泣きそうな表情で、はちを見ていた。
平気だと言い切るつもりでいた気持ちが、そこで揺れた。
自分の話を聞いて、こんな顔をしてくれる人が目の前にいる。
はちは、何か言い返すより先に、喉の奥が詰まるのを感じた。
そうか。
レイも。
それなら、自分がどんな気持ちなのか、分かるのだろう。
(ちくしょう……それは反則だよ)
そんな顔で。
そんなことを言われたら。
「ヒック……」
また、涙が出た。
「寂しかったら、いつでも甘えても良いんだよ」
「で、でも……ヒック……もう泣かないって……決めてたのに……ヒック……お母さんの温もりも忘れていたのに……また……思い出して……」
「良いよ。泣いても」
レイが、はちの頭を優しく撫でた。
「側にいてあげるから」
その言葉のあとも、レイの手は離れなかった。
何か答えなければと考えていたはずなのに、声を出そうとすると、息ばかりが震える。
今度は、うまく隠せそうになかった。
もう、堪えられなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
はちは、レイへしがみついた。
力いっぱい泣いた。
途中で言葉にしようとしても、うまくつながらなかった。
寂しかった。甘えたかった。思い出したら、また会いたくなった。
そのどれもを説明できないまま、はちはレイへしがみついていた。
「辛かったんだね……寂しかったんだね……よしよし」
レイは、頭と背中をゆっくり撫で続けてくれた。
その目にも、少しだけ涙が浮かんでいた。
はちが声を詰まらせるたび、レイは離れずに待ってくれた。
泣き止むように急かされることも、もう十分だと言われることもない。
そのことに安心すると、また涙がこぼれた。
――只今、号泣中……。
*
大泣きしてから、数十分。
はちは、ようやく落ち着きを取り戻した。
「もう大丈夫?」
「はい……すいません。服、濡らしてしまって……」
レイの服が、涙で濡れていた。
「気にしなくて良いよ」
「はい……ありがとうございます……」
落ち着いてくると、今度は恥ずかしさが込み上げてきた。
レイは、そんなはちを優しく見ていた。
からかったり、泣いていた姿を話題にしたりはしなかった。
はちは小さく息を吐き、少しずつ視線を上げる。
恥ずかしさは残っている。それでも、さっきまでのように、何もかも取り繕わなければとは思わなくなっていた。
その後、二人は少し話をした。
はちは、正式にAEGISの保護下へ置かれることになった。
知らない世界で迎えた最初の一日は、分からないことばかりだった。
その中で、話を聞いてくれる人がいた。泣いてもいいと言ってくれる人もいた。
はちは、まだ少し熱い目元を落ち着かせながら、そのことを受け止めていた。
転生してからの一日目は、こうして幕を閉じた。
――第5話 END――




