第4話 白竜の背に乗って
セレスティアが、もう一度、はちの手へ頭を押しつけた。
はちは、その頭を優しく撫でる。
手を止めかけると、白い頭が追いかけるように寄ってくる。はちは少し笑って、もう一度、手のひらを動かした。
すぐそばで見れば、さっきまでの拗ねた様子はすっかり薄れている。大きな身体をこちらへ預けるようにして甘えてくる、その仕草が嬉しかった。
先ほどまで地面に「の」を書き続けていた白竜は、ようやく機嫌を直してくれたようだった。
謝ったから、それで終わりにしていいわけではない。
呼び出してからずっと待っていてくれたのだ。今は目の前にいるセレスティアへ、ちゃんと手を向けていたかった。
頬の近くまで寄ってきた頭を受け止めると、はちの肩からも、ようやく力が抜けた。
その様子を見届けてから、いろはが声をかけた。
急かすような調子ではなかった。
はちが顔を上げるのを待ってから、いろはは白竜とはちを交互に見た。その隣で、アリアも落ち着いた様子で二人を見守っている。
「落ち着いたみたいだね」
「はい」
はちは、セレスティアを見ながら頷いた。
少し前まで、助けを求めるこちらへ背中を向けていた相手だ。それが今では、撫でている手から離れようとしない。
分かりやすい変化に、つい口元が緩んだ。
それでも、ここでまた気を取られれば同じことになってしまう。はちは最後に一度、ゆっくりと頭を撫でた。
詳しい話をするため、一行が向かう先はAEGIS本部だ。
森で出会ったいろはに従い、まずは話のできる場所へ向かうことになっている。
右も左も分からない世界で、行き先を示してもらえるのはありがたかった。何より、今のところ、自分たちに敵意を向けている様子はない。
とはいえ、知らない場所へ行くことに変わりはなかった。
はちは一度、隣のアリアへ視線を向け、それから出発の準備を整えた。
いろはが先に飛び立ち、アリアも空へ上がる。
はちも、その後に続いた。
もちろん、セレスティアの背中に乗って。
自分も当たり前のように空へ浮かべるなら、格好よくその後へ続けたのだろう。
だが、現実には、白い背中に乗せてもらっている。
目線だけで前を追いながら、はちは心の中で小さく言い訳した。
(しょうがないじゃないですか。今の俺には、自力で空を飛ぶ手段がないんですから)
最初は、いろはかアリアに抱えてもらう案も出た。
出発する方法を相談したときのことだ。
「はちちゃん、自分で空は飛べる?」
「いえ、今の自分には、まだ飛ぶ手段がなくて……」
「でしたら、私が抱えてお連れします♪」
アリアの申し出は早かった。困っているなら任せてほしいと言わんばかりに、こちらを見ていた。
すると、いろはまでごく自然な調子で続けた。
「私でも大丈夫だよ。はちちゃんは、どっちがいい?」
二人とも、移動の方法を考えてくれているのだ。それは分かる。分かるのだが、まっすぐ向けられる視線を前に、はちはすぐには答えられなかった。
(そんな、乗り物を選ぶみたいに聞かれても……)
どちらに頼んでも、結局は抱えられることに変わりはない。親切な申し出だけに、断り方まで考えてしまった。
けれど、さすがにそれは遠慮した。
「ありがとうございます。でも、セレスティアにお願いしようと思います」
はちは白竜へ顔を向け、今度はその相手へ尋ねた。
「乗せてもらってもいい?」
そばにいたセレスティアを見上げながら、返事を待つように少し間を置く。ここまで一緒にいてくれた相手に、また頼ることになる。
「そっか。それじゃ、セレスティアに乗って来てね」
いろはの言葉に頷いて、はちは内心でほっとした。
二人とも親切で言ってくれているだけに、断ったことで気を悪くさせずに済んだのはありがたかった。
つい先ほどまで、二人に挟まれて身動きが取れなかったばかりだ。
あのまま空へ運ばれていく自分を想像すると、どうにも落ち着かない。移動のためとはいえ、また抱えられるのは気恥ずかしかった。
かといって、自力で飛べるわけでもない。
(……選択肢があるようで、ないんだよな)
そう考えてから見ると、そばにいてくれるセレスティアの大きな背中が、ひときわ頼もしく思えた。
それなら、セレスティアに乗せてもらう方が早い。
はちは、白い背中の上で座る位置を確かめた。
先ほどまで頭を撫でていた相手に、今度は自分を預けることになる。近くで感じる身体の大きさは、地面に立って見上げていたときとは、また違っていた。
無理に動かず、まずは姿勢を落ち着ける。
それから、前を向いた。
手のひらには、白い鱗の感触があった。
見上げていた大きな竜の背中に、今、自分が座っている。そう考えると、何をするにも少しだけ慎重になった。
はちは膝の位置を確かめ、身体を落ち着けた。
(落ち着け。乗せてもらうんだから、俺が慌ててどうする)
息を一つ整えると、触れている背中の大きさを、さっきより頼もしく感じられた。
大きな白竜が、ゆっくりと地面を離れた。
ふっと、身体を支えていた感覚が変わる。
歩き出したときのような地面の揺れはない。白い背中に乗ったまま、周囲の景色だけが下へ動き始めた。
はちは思わず息を止め、背中へ添えていた手に少しだけ力を込めた。
落ち着いてから息を吐くと、頬に当たる風がさっきよりはっきり感じられた。
翼が動くにつれて、そばにあった枝葉が下へずれていく。
地面の上では見上げていたものを、今度は同じ高さから眺めている。それだけでも十分に不思議だったのに、その枝さえ、すぐに下へ遠ざかった。
「……おお」
小さく漏れた声は、風の中へ紛れた。
はちは、握っていた手を少しだけ緩めた。
足元にあった草や木の根が遠ざかる。
つい先ほどまで目の前にあった木の幹が、今度は下へ伸びて見える。
枝の近くを通る風の音も、地面で聞いていたときより近かった。揺れる葉が視界の端を過ぎ、その向こうへ明るい空が広がっていく。
はちは顔を上げた。
やがて木々の上へ出ると、眼下には森が広がった。
緑の葉が重なり合い、遠くまで続いている。
下を歩いていたときには、木の根や茂みに遮られていた景色だ。こうして上から見ると、あの道がどれほど広い森の中にあったのか、少しだけ分かる気がした。
木々の高さも、枝の向きも、一つとして同じではない。風が通るたび、光を受ける葉の色が変わった。
(……飛んでるんだよな、本当に)
身体で感じる風と、遠ざかる地面が、その実感を何度も確かめさせた。
物語の中で見ていた景色を、今は自分が見下ろしている。そう思うと、驚きのあとから、じわじわと楽しさが湧いてきた。
「上から見ると、こんなふうになってるんですね」
思わず口にすると、隣を飛ぶアリアが顔を向けた。
「はちちゃん、楽しそうです」
「そりゃ、こんな景色ですから」
答えながらも、目はまた森へ戻ってしまう。
地面にいたとき、行く先を遮っていた茂みは、上からでは葉の重なりの中に隠れている。さっきまで歩いていた場所を探そうとしても、どの辺りだったのか、もう簡単には分からなかった。
それでも、分からないから不安になるより、次々に景色を見ていたくなる。
(……これは、乗せてもらって正解だったな)
はちは、自分を支えている白い背中へ一度目を落としてから、また顔を上げた。
はちは背中の上で姿勢を落ち着け、前を飛ぶいろはへ目を向けた。
その後を、セレスティアが追っていく。
アリアは、はちのそばを飛んでいた。
少し前には、進む方向を示すいろはの姿。
横へ顔を向ければ、アリアがいる。そして、自分を乗せて飛んでいるのはセレスティアだ。
目を覚ましたときには、どこへ向かえばいいのかさえ分からなかった。
それが今では、こうして空を進んでいる。
はちは背中の上で動きすぎないようにしながら、もう一度だけ、眼下の森を見渡した。
アリアの衣装の裾が、風に揺れている。
すぐ近くを飛んでいるのに、彼女にとってはそれが普段どおりの移動であるように見えた。前を行くいろはも、迷うことなく進んでいる。
二人の姿を見たあとで、自分の下に広がる白い背中を眺める。
同じ空を進んでいても、それぞれの見え方は違うのだろう。
はちはその違いまで面白く思いながら、前を向き直った。
*
風に吹かれながら、はちは右手を眺めていた。
風が長い髪を揺らしている。
空を進む景色にも少し慣れてくると、ようやく手元へ意識を向ける余裕ができた。
右手を、顔の前まで少し持ち上げる。
日差しを受けた指輪が、目に入った。
中指に収まっている、指輪型カードケース。
つい先ほどまで普通のケースだったものが、今はこの小さな指輪になっている。
あれだけのカードが、すべて中に収まっているのだ。
見た目は、指に収まる大きさの輪にすぎない。
大きなケースを抱えているわけでも、何枚ものカードを手に持っているわけでもなかった。けれど、必要なものは、きちんとここにある。
はちは指を軽く動かした。
その小さな動きについてくる指輪を見ながら、森でケースを拾い上げたときの感触を思い返す。
あの大きさが、この大きさになった。
実際に変わるところを見ていなければ、すぐには信じられなかっただろう。
必要なカードを思い浮かべれば、取り出せる。
使い終えれば、収納するのも一瞬。
セレスティアも、アリアも、そこから取り出したカードで呼び出した。
頭では分かっている。だが、背中へ伝わる確かな感触と、隣を飛ぶアリアの姿を見ていると、単に便利な道具を手に入れたというだけでは、言葉が足りない気がした。
こんなふうに一緒に移動することになるなど、カードを受け取ったときには考えてもいなかった。
はちは指輪を見つめたまま、小さく息をついた。
改めて考えると、便利どころの話ではなかった。
(……いや、凄いな、これ)
何度使っても、見慣れてしまうには早すぎる。
ケースが指輪へ変わったことも、そこからカードが現れたことも、今日、自分の目で初めて確かめたことばかりなのだ。
つい、考え込んでしまった。
普通のケースを手に持って運ぶことと、この指輪一つを身につけていること。
使い勝手がまるで違うのは、短い時間でも十分に分かった。
こうして空を移動していても、カードの束を抱え直す必要はない。指先へ目を向ければ、持っていることを確かめられる。
(荷物を持ってる感じはしないのに、中にはあれだけ入ってるんだよな……)
感心するたび、また別のところが気になってくる。顔を上げるのを忘れていたのも、そのせいだった。
指輪を見つめていたはちへ、アリアが声をかけた。
「はちちゃん、大丈夫ですか?」
「わふっ? 大丈夫ですよ〜」
顔を上げると、アリアが心配そうにこちらを見ていた。
呼びかけに驚いたのは、具合が悪くなっていたからではない。
手元を見ているうちに、周囲へ向ける意識が少し薄くなっていただけだ。はちは、アリアを安心させるように表情を緩めた。
それでも、彼女の視線はまだこちらへ向いている。
「本当ですか? 先程から指輪を見ながら遠い目をしていますけど……」
「ちょっと便利だなぁと思ってただけです」
言ってから、もう一度、右手へ視線を落とす。
自分では心の中で感心していただけのつもりだったが、黙って指輪を見つめていれば、何かあったのかと思われても不思議ではない。
(また、考えすぎてたか)
はちは少し照れくさくなり、手を下ろした。
「……?」
アリアが、不思議そうに首を傾げた。
はちは、もう一度指輪へ目を落とした。
それから、左腕に装着したSIAも確かめる。
こちらは、自分の手で組み上げたものだ。
森にあった部品を集め、頭の中の知識と照らし合わせて作った。ほんの少し前の作業なのに、その後に起きたことが多くて、ずいぶん前のことにも思える。
指輪からカードを取り出し、魔力ディスクへセットする。
その手順がちゃんと働いたからこそ、今、二人と一緒にいられるのだった。
腕時計型の本体は、左手首に固定されている。
その外側には、円形の魔力ディスクが展開したままだ。
飛んでいる間も、青白い盤面は腕の外側に浮かんでいた。
はちは腕を大きく振り回さず、目でその状態を確かめる。セレスティアの背中へ座る姿勢を保ったまま、手元から顔を上げた。
森で配線をつないでいたときには、まず形にすることに夢中だった。
動作を確かめ、召喚に成功し、攻撃を防いで。その後も装置は働き続けている。
完成したばかりだからこそ、ちゃんと動いてくれていることが嬉しかった。
(作っておいて、本当によかった)
右手を下ろし、はちは左腕からも目を離した。
手元だけを見ていては、せっかくの景色まで見逃してしまう。
セレスティアも、アリアも、今は具現化している。
青白く輝く魔力ディスクと、右手中指の指輪。
はちはそれぞれを眺めてから、前方へ視線を戻した。
そんなやり取りをしながら、飛行を続けていると――。
「おや?」
景色の向こうに、巨大な都市が見えてきた。
最初は、森の向こうに色の違う場所があるように見えた。
近づくにつれて、その一つひとつが建物の集まりだと分かってくる。緑の景色だけを見ていた目に、整った街の輪郭は鮮やかだった。
はちは、思わず背筋を伸ばした。
ここにも、人が暮らしている。
話には聞いていた科学と魔法の世界が、初めて、街の姿として目の前に現れようとしていた。
遠くでは一つに見えていた建物の集まりが、近づくにつれて少しずつ分かれて見える。
屋根の輪郭があって、その下には建物の影がある。その一つひとつが、森とは違う景色を作っていた。
ただ眺めて通り過ぎる街ではない。
このあと、自分もあの中へ降りていくのだ。
はちはそれを意識して、見える範囲を端から確かめたくなった。
その中央には、ひときわ大きな施設がそびえている。
周囲の建物と見比べれば、自然とそちらへ目が向く。
ただ大きいだけではない。街全体を眺めていたはずの視線が、いつの間にかその施設に留まっていた。
はちは前を飛ぶいろはと、近づいてくる建物を交互に見る。
進んでいる方向も、そちらだった。
はちは、そちらへ目を凝らした。
(あれが……AEGIS本部か)
知っていた言葉が、実際の大きさを持って目の前にある。
空から見ていてもこれだけ目立つのだ。入口に立てば、また違う印象を受けるのだろう。
その想像を確かめる前に、いろはの声がした。
少し前を飛んでいたいろはが、振り返った。
「あれがAEGIS本部よ」
はちが見ていた施設を示す。
はちは示された先へ視線を合わせた。
予想はしていた。それでも、本人から行き先を教えられると、いよいよそこへ向かうのだという実感が強くなる。
知らない街で、最初に訪れる場所が、あの本部なのだ。
「空からでも、ずいぶん大きいですね」
「うん。あそこまで行こうね」
いろはの返事を聞いて、はちはもう一度、施設の方を見た。
目指す場所がはっきりすると、景色の眺め方も変わる。建物全体を見ていた視線が、今度は自分たちの近づいていく先を追い始めた。
セレスティアの背中へ添えた手を少し動かし、はちは前へ向き直る。
「はちちゃんは入口の前で降りてくれる?」
「分かりました〜」
はちは頷き、近づいてくる本部へ目を向けた。
ここで考え込んで、また返事が遅れるわけにはいかない。
いろはの示した入口の方を確かめ、はちは姿勢を整えた。セレスティアの背中から降りるまでは、慌てずに乗せてもらっていればいい。
前を見ているうちに、建物の輪郭が少しずつ大きくなっていった。
*
本部前へ到着すると、セレスティアはゆっくり地面へ降りた。
眼下の景色が近づいてくる。
空から一つの大きなまとまりに見えていた場所に、入口があり、その前に立てる地面がある。近づけば近づくほど、見えてくるものの大きさが変わった。
はちは背中へ添えた手をそのままにして、降下が終わるのを待った。
足元の白い身体が落ち着くと、さっきまで耳に当たっていた風も和らいでいた。
空にいたときには、施設の大きさを周囲の街と見比べていた。
地面の近くへ来ると、今度は、その建物を下から見上げることになる。近くにあるというだけで、ずいぶん印象が変わった。
それでも、まずは降りるのが先だ。
はちは視線を足元へ戻し、セレスティアの背中から身体を動かした。
大きな身体が落ち着くのを待って、はちも背中から降りる。
地面に足をつけてから、一度だけ姿勢を確かめた。
動かない地面に立っている感覚が、少し不思議だった。空を飛んでいた時間が、それだけ濃く感じられたのかもしれない。
はちは振り返り、自分を運んでくれた白竜を見上げる。
もう、さっきまでの心細さはなかった。
「セレスティア、ありがとうね〜」
近づいてきた頭を、優しく撫でた。
乗せてもらった礼を、言葉だけで済ませたくなかった。
森では、呼び出したことに喜んで、そのまま気を取られてしまった。今度は、その顔をきちんと見ながら、手を動かす。
白い頭が近くにあると、空の上で自分を支えてくれていた相手なのだと、改めて思った。
「本当に、助かったよ」
はちは声を和らげた。
森からここまで、自分を運んでくれた相手が目の前にいる。案内してくれる相手がいても、地面からでは見えなかった景色がたくさんあった。
それを見せてくれたのも、こうして運んでくれたのも、セレスティアだ。
「空の上でも、ちゃんと乗っていられたし」
礼を言うと、自然と笑みが浮かんだ。
すると、セレスティアが嬉しそうに顔を寄せてくる。
すりすり。
「わふっ?」
大きな頭が、はちの頬へ押しつけられた。
尻尾まで、機嫌よさそうに揺れている。
頬に寄せられた頭を、はちはどうにか受け止めた。
身体の大きさは全然違う。それなのに、こうして撫でてほしそうにされると、怖いという気持ちにはならなかった。
見上げていたときより、ずっと近くに顔がある。
はちは小さく笑い、頭へ添えた手を動かした。
はちは、その様子に顔をほころばせた。
(本当に良い子だね〜)
もう一度、頭を撫でる。
「またよろしくね」
まだ、この世界へ来てから長い時間が経ったわけではない。
それでも、森で呼び出し、一緒に空を飛び、こうして本部まで来た。その短い間に、頼りになる相手だと何度も感じさせられた。
だからこそ、次に呼ぶときも、ちゃんと向き合いたかった。
はちは、もう一度だけ白い頭に触れた。
それから、左腕の魔力ディスクへ手を伸ばした。
セレスティアのカードを外す。
指先に、カードの輪郭が戻ってくる。
森で初めてセットしたときには、召喚できるだろうかという期待でいっぱいだった。今は、それだけではない。
目の前にいる相手を見送り、カードへ戻ってもらうのだ。
はちは視線を上げた。
手元へ戻ったカードは、裏面を向いていた。
「ありがとう、セレスティア」
白竜の身体が、光に包まれる。
白い鱗に沿って、光が広がっていく。
つい先ほどまで頬に寄っていた頭も、自分を乗せていた大きな背中も、少しずつ輪郭を淡くした。
はちはその場に立ったまま、最後まで見つめていた。
慌てて次のことへ意識を向けるのは、もうやめておこうと思った。
大きな姿が見えなくなっていく間も、手のひらには、さっきまで撫でていた感触が残っていた。
空の上で背中へ触れていたときも、地上で頭を撫でたときも、同じ相手だった。
今度は、ちゃんとお礼を言えた。
はちは光を見送りながら、そのことに少しだけ安心した。
はちの前にいた大きな姿が、少しずつ光へ変わり、消えていった。
最後までその姿を見送り、はちはカードを右手中指の指輪へ収納した。
手元からカードがなくなると、さっきまで白竜がいた場所の広さが、急にはっきり感じられた。
風は、その場所を変わらず通り過ぎていく。
はちは右手を一度見てから、そっと下ろした。
アリアは、まだ隣にいる。
そのため、左腕のSIAと魔力ディスクは、引き続き展開したままだった。
セレスティアを見送っても、隣のアリアまでいなくなったわけではない。
はちは彼女の姿を確かめ、左腕の状態にも目を向けた。いま、ここにいてくれる相手を見落とさないようにしたかった。
ふと顔を向けると、アリアが、セレスティアの消えた場所をじっと見つめていた。
「……セレスティア、いいですね」
「何がです?」
「何でもありません」
アリアは、そう答えた。
返事は短かった。
その声につられて顔を向けても、何を考えているのか、はちにはすぐには分からない。
何か気にかかることがあったのだろうか。さっきまでのやり取りを思い返してみたが、答えは見つからなかった。
アリアが見ていた先を、はちもつられて見る。
そこには、もう白竜の姿はない。分かるのは、彼女がその場所を見つめていたということだけだった。
本人が何でもないと言う以上、こちらからは、それ以上確かめようがない。
はちは、アリアの顔と、セレスティアのいた場所を、もう一度見比べた。
(なんで?)
はちは首を傾げたが、アリアはそれ以上何も言わなかった。
問いかけようと少し口を開き、結局、そのまま閉じた。
アリアは隣にいる。すぐに何かを言わなければならない様子でもなかった。
はちはもう一度だけ、白竜のいた場所へ目を向けてから、本部の入口を見た。
*
しばらくすると、いろはがこちらへやって来た。
「ごめんね。お待たせ」
「大丈夫ですよ〜」
はちは顔を上げて答えた。
行き先が分かっているので、ただ立って待っている時間も、森で目を覚ましたばかりのときとは違って感じられる。
いろはが戻ってきたことで、次にどうすればいいのかも、はっきりした。
ここまで案内してくれた人の声が聞こえると、足を止めていた時間も、次の行動へつながる。
はちは、返事をしながらアリアの方も見た。
先ほどの言葉の意味は、まだよく分からない。それでも、彼女もこちらへ向いていることを確かめると、今は一緒についていけばいいと思えた。
入口へ向かう準備は、それで十分だった。
はちが答えると、いろははアリアにも目を向けた。
「それじゃ、はちちゃん、アリア。行こっか」
「はい」
はちは、いろはの後について歩き出した。
前を歩く相手の足取りを追う。
飛んでいたときには、いろはの姿が少し遠くにあった。今は地面の上で、その背中についていく。
足を進めるたび、建物が近くなる。
はちは一度だけ顔を上げ、入口の方へ目を向けた。
少し前までいたのは、木漏れ日の差す森だった。
目の前にあるのは、先ほど空から見たAEGIS本部の入口だ。
上空から眺めていた施設は、今、自分が足を踏み入れようとしている場所になっている。
科学と魔法の世界へ来たことは、もう分かっていた。
けれど、目を覚ました森を離れ、街へ降りて、誰かの案内で建物へ入ろうとする。その一つひとつが、新しい世界にいる実感を、少しずつ確かなものにしていく。
隣にはアリアがいる。
左腕の外側では、魔力ディスクが静かに輝いていた。
はちは歩幅を合わせ、前を向いた。
これから何を聞かれるのか、どんな話になるのかは、まだ分からない。
だが、今は案内してくれるいろはがいて、隣にはアリアがいる。セレスティアに運んでもらった道のりも、ついさっきのことだった。
手元と周囲を確かめてから、はちは入口へ足を進めた。
森で聞いていた葉の擦れる音は、もうすぐそばにはない。
空の上で頬を撫でていた風も、今は歩く自分の横を通り過ぎていく。
景色を眺めているだけだった時間が終わり、今度は、自分の足でその中へ入るのだ。
はちは隣を確かめてから、いろはの背中へ視線を戻した。
呼ばれれば返事をして、聞かれたことには落ち着いて答えよう。
そう考えながら、入口の先へ目を向けた。
いろはに続いて、入口を通る。
そうして一行は、AEGIS本部へ入った。
――第4話 END――




